【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月11日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停車場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。

 

という結論をかませてみたが、こう考えた理由もやはり「桐ヶ谷停車場之図」にある。この図を再度掲げ、その理由を述べてみよう。

 

 

この図のように駅ホームからのアプローチを行なうには、斜面を削り取って一定の高さまで私道側の高さを下げる方法を採るか、あるいは私道側の高さに合わせて階段等の高架構造物を設置する方法の二つがある。上図では、斜面を削り取る方法を採用しているが、これはそれほどの高低差がないからだと考えられる。斜面を削り取ってしまうことによる不具合は、さらに高い部分との高低差が大きくなり、より急坂となってしまうことである。そこで図にもあるように、道路を曲げることで少しでも斜面の勾配を少なくしようとしているが、言うまでもなく、この図程度のものでは効果的には働かない。削り取る前の斜面の勾配の方が少ないのは当然である。

 

とはいえ、利用客の不利は無視してコストのみを考えれば、高架構造物を作るよりもこの方法が安価なのは疑いない。しかし、これまで取り上げてきた地図をご覧になれば確かめられるように、「桐ヶ谷停車場之図」のような斜面を削り取り私道を曲げるという痕跡を見ることができない。当該部分の私道は直線状に書かれており、現在もそのようになっている。

 

 

前にも示した写真だが、左側の擁壁は削られておらずそのまま残っている。そして、それ以前の航空写真を見てもこのようにはなっていないのである。

 

©国土地理院

 

これは1947年(昭和22年)に米軍によって撮影された航空写真の一部で、桐ヶ谷駅周辺を拡大したものだが、中央部に見える傾いたグレーの長方形が桐ヶ谷駅のホーム跡?で、その左側を走る太い道路が第二京浜国道である。これまで示した古地図類にはまったく出てこないが、1934年(昭和9年)に計画されたものであるので、当然といったところである。肝心の私道部分がどうなっているのかはっきり見えないのが残念だが、駅ホーム跡と北側道路までの距離が相当あることから、こちら側へのアプローチはなかったと思われる。わかりにくいので、これとほぼ同じ場所を最近の航空写真で示しておこう。

 

(この写真データは移行時に欠落してしまったようで、このあたりはGoogle等で確認していただければ。)

 

こちらはカラー写真だけあって、線路に平行する私道がよくわかる。第二京浜国道はさらに拡幅され、上を首都高速道路が走るようになった。また、桐ヶ谷駅南側の道路も拡幅されているのがわかる。写真には見えないが、このすぐ近くには中原街道もあり、駅はなくなったがこのあたりが交通の要衝であることがわかるというものである。

 

さて、横道に逸れそうなので、論点を整理しよう。

桐ヶ谷駅北側の「踏切側下り線側に本屋があった」とすれば、「桐ヶ谷停車場之図」にあるような工事が必要となる。よって、斜面を削り取る工事が施工され、それは短期間の間に元に戻された、つまりはもう一度盛土して直線状の私道に造り直す必要があるが、そのような手間を桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間、あるいは大崎広小路駅~五反田駅間の建設工事まっただ中にかけるだろうか?

 

まっただ中だからこそ、そのついでにできるというのもあるが、だとしても改札口が同時に存在していた期間はわずかか、あるいは踏切側下り線側の機能が失われた後に南側の橋上駅舎ができたという流れとなるだろう。なぜなら、池上電気鉄道の各駅いずれもが駅ホーム二方向への改札口は存在しないからである。

 

つまり、「踏切側下り線側に本屋があった」可能性は極めて低く、あったとしても南側の橋上駅舎と同時に存在していた可能性はさらに低い、と結論づけられる。よって、「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載の「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」

 

とあるのは、内容に疑問点があるというよりも内容が誤っていると言える。ただ、私も探してみたのだが、桐ヶ谷駅の写真さえあれば、この問題により明快な答えが出るはずだが、残念ながら見つけることができなかった。唯一と言っていいのは、戦後に米軍が撮影した航空写真で既に廃墟同然となったもののみで、これも島式ホームだったことと、東側私道が直線状になっていることを確認できるのみである。

 

さて、ここまで桐ヶ谷駅について調べてきたが、解決できていない問題を列挙して本稿を終えるとしよう。

  1. 駅開設時に「桐ヶ谷停車場之図」に記載されたような、斜面を削り取り駅ホームと私道をつないだ構造は実在したのか。
  2. 実在したとしたら、それはいつまで存在したか。南側駅舎と同時に存在していたのか。
  3. 南側駅舎は、桐ヶ谷駅開設時から存在したのか。

これら3つの問題は、本稿で一定の見解は示したが、決定的な証拠はない。よって解決できていない問題とした。このほかには、

  • 桐ヶ谷駅廃止の理由。おそらく、単純構造の駅でなかったのが原因か。駅ホームから駅本屋までのアプローチが焼け落ちてしまったことで、高架構造物を再建するという手間が発生し、すぐに駅の営業を再開することができず休止扱いとなったまま、周囲の人たちからもないものとして扱われてしまい、そのまま廃止となった…みたいな流れを予想するが、果たしてそんな単純な話か?
  • 桐ヶ谷駅付近の線路をいつ直線化したのか。これは、東急50年史あたりに載っているかと思っていたが、載っていなかった(探し漏れの可能性有)。もし、これが駅廃止(1952年(昭和28年)8月11日)より前に実行されていたとしたら、そりゃ駅復活はなくなるだろう。何となく既成事実先行で、戦後それほどの時を経ないで行われたのでは、と勝手な想像をしておく(少なくとも米軍航空写真では駅ホーム跡が見えるので、1947年(昭和22年)以降なのは確実)。

の2点を挙げておく。これらの疑問も含めて、新たな事実等を確認できたら、本稿の続きとして「その5」を書こうと思う。

 

では、最後に「大崎町郷土教育資料(大崎町小学校長会。昭和7年9月30日発行)」という、桐ヶ谷駅があった東京府荏原郡大崎町(現在の東京都品川区の一部)縁の資料から、桐ヶ谷駅の乗降客数(一日平均)に関するデータを紹介する。

  • 1927年(昭和2年) 乗客数141人/降客数127人
  • 1928年(昭和3年) 乗客数883人/降客数842人
  • 1929年(昭和4年) 乗客数1,137人/降客数1,086人
  • 1930年(昭和5年) 乗客数954人/降客数909人

1927年(昭和2年)は、8月28日から年末まで。1930年(昭和5年)は1月分のみ。これを多いと見るか少ないと見るかは人それぞれだと思うが、五反田駅まで全通して以降は、ほぼ併走するライバル目黒蒲田電鉄の目蒲線(現在の東急目黒線及び東急多摩川線)には及ばなかったものの、他私鉄線と比べればけっして少ない数字ではない。また、開業当初は桐ヶ谷駅あるいは大崎広小路駅が終点だったため、あまり振るわなかったが、目黒蒲田電鉄はさらに少なかった。同資料に掲載されている不動前駅の乗降客数(一日平均)を見てみよう。

  • 1923年(大正12年) 乗客数13人/降客数13人
  • 1924年(大正13年) 乗客数52人/降客数52人
  • 1925年(大正14年) 乗客数448人/降客数448人
  • 1926年(大正15年) 乗客数1,840人/降客数1,840人
  • 1927年(昭和2年) 乗客数2,416人/降客数2,416人
  • 1928年(昭和3年) 乗客数2,784人/降客数2,784人
  • 1929年(昭和4年) 乗客数2,866人/降客数2,866人
  • 1930年(昭和5年) 乗客数2,652人/降客数2,652人

1923年(大正12年)は3月11日から年末まで(途中関東大震災による営業休止期間を除く)。1930年(昭和5年)は1月分のみ。統計上、乗降客数としてカウントしているからか、乗客数と降車客は一致している。同年代で比較すれば、不動前駅の方が2~3倍ほどの乗降客数を示しているが、開業時の数字はとんでもないものだろう。昔はガラガラ電車だったという話を文献では目にするが、一日平均で13人しか乗らない駅というのはすごすぎる。しかも、目黒蒲田電鉄の宣伝では目黒不動への最寄り駅としてアピールしているのである。にもかかわらず、これだけの実績しかなかったのだから、本駅の乗降客数の伸びは関東大震災後の周辺宅地化、工場化への結果と言えるだろう。

 

たったこれだけのことからもわかるように、池上電気鉄道は目黒蒲田電鉄よりは劣っていたかもしれないが、けっしてだめな会社ではなかった。営業成績も五反田駅まで全通してからは上向きになり、東京横浜電鉄沿革史や東急50年史に書かれているだけの会社ではなかったはずだ。

 

といったところで、桐ヶ谷駅の歴史を探るのはここでいったんおしまい。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月10日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

その1及びその2では、桐ヶ谷駅の簡単なプロフィールと東西両方向に改札(乗降客口)が存在したのか、という点について探求しようとしてきたが、ここで池上電気鉄道が五反田駅~蒲田駅間(現 東急池上線)を全通させた時点(1928年(昭和3年)6月17日)における、各駅のホーム方式及び改札口について見ていこう。桐ヶ谷駅が南北(上り下り)両側に、改札口が存在することが疑問であることが確認できるはずだ。

  • 五反田駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 大崎広小路駅 → 島式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 桐ヶ谷駅 → 島式ホーム / 改札口上り下り側二方向?
  • 戸越銀座駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 荏原中延駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 旗ヶ岡駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 長原駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 洗足池駅 → 対面式ホーム / 改札口下り寄り一方向
  • 石川台駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 雪ヶ谷駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 調布大塚駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 御嶽山前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 東調布駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 慶大グラウンド前駅 → 対面式ホーム / 改札口上り寄り一方向
  • 池上駅 → 対面式ホーム / 改札口下り側一方向
  • 蓮沼駅 → 対面式ホーム / 改札口上り側一方向
  • 蒲田駅 → 対面式ホーム(片側のみ)/ 改札口下り側一方向

以上、17駅のうちで改札口が両側に設けられているのは、桐ヶ谷駅を除いて一つもない。当時は、1両編成で運行されることがほとんどだったことを考えれば、二方向に改札口があることが不自然である。なお、島式ホームが多い理由は、いちいち線路を曲げる必要がない(=建設費が安価になる)というほかに、開設当初は単線だったことによる(蒲田駅~雪ヶ谷駅は単線で開業。のち、桐ヶ谷駅まで延長する間に複線化した)。一方、五反田駅と大崎広小路駅が島式ホームであるのは、駅が高架構造となったことで、二つのホームを設けるよりも一つのホームを設けた方が逆に建設費が安価になるからである。つまり、島式か対面式かは、建設費によって決まっていたと考えて問題ないだろう。

 

 

では、桐ヶ谷駅の場合はどうだったのだろうか。一般的には対面式ホームの方が建設費が安価であるにもかかわらず、開業前の図面や地図からわかるように島式ホームとなっている。島式ホームのメリットは五反田駅や大崎広小路駅がそうであるように、高架構造物を建設する等といったホーム建設の際に余分な費用がかかる場合、現れてくる(二つのホームを作るより線路を曲げる方が安価ということ)。そういうメリットがなければ、桐ヶ谷駅だって対面式ホームを採用したはずである。

 

このアプローチを採れば、桐ヶ谷駅ホーム北側、つまり地上と高低差がほとんどない側に改札口を設けるつもりであったなら、わざわざ高価な島式ホームを採用せずに、他の地上駅同様に対面式ホームを採用したはずである。だが、島式ホームを採用したということは、桐ヶ谷駅ホーム南側、高低差が数メートルに及ぶ方へのアプローチが求められたからと考えられる。そして実際に、地図から明らかなように、駅ホーム南側に階段を設け、登り詰に駅本屋を設置し、駅南側道路と接続させている。一方、駅北側道路にも接続できるように、線路横に私道を設けた。こう考えれば、島式ホームや私道を設置したこともすべて説明できるだろう。

 

ここでもう一度、開業前の桐ヶ谷駅の図面を見てみよう。前回は駅東側へのアプローチを確認したが、実はもう一つ、気になる部分がある。

 

 

図に赤○が大小二つあるが、大きい方は実際に階段や通路、駅本屋があったであろう場所で、ここで注目するのは小さい方である。この出っ張りのようなものは何だろうか。推測でしかないが、この部分は南側道路へのアプローチであり、階段等の構造物が記載されていない平面図という可能性が考えられる。となると、この図面では駅ホーム二方向のアプローチが記載されていることとなるが…。いずれにしても、この平面図にはいくつか疑義を持たざるを得ないものではある。列挙すると、

  • 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が北側で一部曲げられているが、地図上ではほぼまっすぐになっている。
  • 駅ホーム東側(図上では下側)の私道が南側はまっすぐになっているが、地図上ではほぼ直角に曲げられ、しかも幅員が広がっている。
  • 線路と南側(図上では左側)道路がほぼ直交しているが、地図上では線路に対して斜めに陸橋が架かっている。

以上の3点で、要は私道と南側道路との接続関係が異なっている、ということである。ここで、地図資料をもう一つ示そう。雪ヶ谷駅の歴史的変遷でも大いに参考になった、3千分の1都市計画図である。残念ながら今回は当該地図を見つけることができなかったので、これをベースにした新区内町界町名整理案図で確認しよう。

 

 

原図が小さいので、桐ヶ谷駅部分を拡大したが、かなりぼけてしまった。しかし、おおよその駅の構造は掴めるだろう。念のため、拡大前の地図も以下に示す。

 

 

こちらの方が見やすいか(苦笑)。赤く太い線は、桐ヶ谷駅南側の道路であるが、ここは当時の東京市品川区と東京市荏原区の境となっていた(現在は両区が合併して東京都品川区となっている)。桐ヶ谷駅開設時においては、東京府荏原郡大崎町と東京府荏原郡荏原町の境であり、地域の主要道の一つであった。では、拡大図も含めて上地図を見よう。注目は、島式ホームの南側(図では左側)から南方私道側の四角形に通路のようなものが描かれていること、そして四角形からは北東側(図では右上側)に私道が伸びて一般道に接道していること、である。これは前回示した「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」や、いわゆる火災保険地図の桐ヶ谷駅周辺のものと同じ基本構造である、と言えるだろう。

 

ちなみにこの新区内町界町名整理案図の原図は、どんなに遅くとも1928年(昭和3年)6月17日よりも前に作成されていることがわかっている。理由は、この地図では池上電気鉄道の路線が大崎広小路駅までで止まっているからである。

 

 

ちょっと小さくて見にくいかもしれないが、地図右上にある大崎広小路駅の先の線路は、現在の山手通りにあたる部分で切れていることがわかる。本来なら、一気に五反田駅まで接続したかったのはもちろんだが、大崎広小路駅~五反田駅間の工事は難工事だったことが当時の大崎町民の目撃談からも指摘されているように、わずか300メートルほどの区間に半年以上の工事期間を必要とした。大崎広小路駅の開業は1927年(昭和2年)10月9日なので、この日以降、先に述べた1928年(昭和3年)6月17日よりも以前のものだとなるわけである。

 

わざわざこのようなことをふれたのには理由がある。それは、当初からの疑義である「二方向の改札口が本当にあったのか?」というものである。雪ヶ谷駅から桐ヶ谷駅までの部分開業は1927年(昭和2年)8月28日であり、その約1か月後の10月9日に桐ヶ谷駅~大崎広小路駅間の開業となった。そしてその翌年、五反田駅まで全通する以前の段階では、桐ヶ谷駅ホーム北側へのアプローチは各種地図において痕跡すら見られない。仮に、これらの地図が作成される前でかつ、桐ヶ谷駅が開業して以降のわずかな間に開業前の図面にあるような駅ホーム北側へのアプローチがあったとすれば、非常に短期間の間になくなってしまったとなるだろう。だが、本当にそんなことをしてまでなくす必要性があったのだろうか。あったとすれば、これも既に述べたように改札口が二方向であったなら、駅員配置等のコストの問題や運行における保安上の問題も指摘されるが、そんなことはやる前からわかっているような問題である。

 

私がこれまでの材料から考えるに、ある時点での計画においては駅ホーム北側道路への直接的なアプローチが存在したが、桐ヶ谷駅が開業するまでの間に当該アプローチはなくなり、開業時においては駅ホーム南側から階段及び通路を経て駅本屋に達し、そこから狭いながらも駅前広場を通って駅南側道路に直結させた。一方、駅北側道路へは駅本屋から私道を経由してアプローチした、と考える。つまり、計画図である「桐ヶ谷停留場之図」は計画でしかなく、実際にはこのとおりではなかったと結論づける。

 

長くなったので、次回に続けます。たぶん次回で完結編…に、したい(苦笑)。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月6日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

現地を見るとわかるように、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問を呈したのが前回(その1)までだったので、今回はその続きとなる。

 

この疑問を解決するには、やはりその当時の地図にあたるのがいいだろう。地図の定番と言えば、国土地理院(戦前は陸地測量部)のものとなるが、1万分の1地形図では駅の形が四角形(長方形)で表記されることがほとんどで、どちらに改札があるのかとか本屋があるとか等、駅の構造まではわからないことが多い。今回は示さないが、桐ヶ谷駅についても同様で北側か南側かはわからなかった。そこで、既存の文献をあたってみたところ、これも以前に取り上げたことのある「回想の東京急行 I」(著者 萩原二郎・宮田道一・関田克孝。大正出版)に「桐ヶ谷駅」の平面図が掲載されていることが確認できた。この原本(マイクロフィルム)は東京都公文書館にあるとのことなので確認すると、以下のようなものであった。

 

 

「回想の東京急行 I」に掲載されているものと同じだが、よりきれいにとれているはずである。上図では、北が右側で南が左側となっている。赤丸で示したように、駅ホームからのアプローチは北側でも南側でもなく、駅ホーム北寄りの東側に側道を設け、東側から出られるようになっていることがわかる。この図面は、開業前に池上電気鉄道が当局に提出した図面であるので、まったく寸分違わず同じではないものの、開業時(1928年(昭和2年)8月28日)はほぼこのような駅構造となっていたと思われる。では、南側橋上駅舎はどこにあるのだろう。無論、この図面からはそのようなものは存在しているようには見えない。

 

では、再び地図に戻ってみよう。

 

 

この地図は、1930年(昭和5年)3月15日発行の「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」(縮尺6千分の1)の一部で桐ヶ谷駅周辺(左から「やがりき」とあるのが右から読んで「きりがや」となる)を切り出してみたが、明らかに開業前の図面とは異なっているように見える。地図上では、駅南側(地図上では右斜め下)に出っ張りが書かれていて、接道する箇所もやや太い道路になっているような感じで、これこそ南側の橋上駅舎からのアプローチといった印象だ。しかし、まだまだ6千分の1の地図でもはっきりしない。決定的なものはといえば、今日ある住宅地図のようなものであるが、戦前の時期にそれに類するものといえば、いわゆる火災保険地図だろう。早速あたってみることにした。

 

 

いわゆる火災保険地図は、散逸してしまっている地域が多いが、今回は運がよく当該地域のものを発見することができた。またまた方位がずれてしまっているが、この図は上が北側で下が南側となる。おわかりのように駅ホームから南側にアプローチがなされ、南側に駅舎らしきものが確認できる(図中の「桐ヶ谷駅」とある箇所)。基本的な構造は「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」に表記されている内容と同じだろう。ただ、これを橋上駅舎と呼べるかと言えば、そうは言えないように思う。どう見ても、駅舎は空中構造物ではなく、法面のさらに道路側に置かれているからである。

 

ここでまたまた疑問符が付く。道路という公共用地上に私物の駅舎をつくってもいいのか? というものだが、この回答は先に示した「桐ヶ谷停留場之図」に見えている。

 

 

この図では水色を付けておいたが、要はこの水色で囲んだ部分が池上電気鉄道の敷地なのである。東側(上図では下側)の道路は、実は道路は道路でも公道ではなく私道であり、駅を出てから北側踏切側道路及び南側道路へのアプローチ道路だったのである。これは現在においても変わっておらず、今でも私道だと示す看板が掲出されている。

 

 

上写真は南側跨線橋より当該私道方面を撮ったものだが、ご覧のように何かの道路標識のようなものを再利用した「私道」という看板が確認できる。現地を確認するとわかるが、この池上線脇の道路が一見して私道とは通常思えない。道路幅員にしても道路条件(行き止まりでもなく、地域主要道路をつないでいる)からもそうなのだが、桐ヶ谷駅からのアプローチ道路だったとわかれば納得だ。往年の「たんけんぼくのまち」のチョーさん曰く「調べて納得、うんそうか」でおもしろ地図に書き込みたくなる、というものであろう。

 

さて、この辺で一度整理してみよう。

まず、北側と南側に改札があったのか、という疑問に対しては、どちらも証拠となりそうなものを確認できた。北側説は、開業前の当局に提出した図面「桐ヶ谷停留場之図」で確認できたが、北側ではあるが踏切からはやや離れており、どちらかといえば東側という方が適切であろう。理由は、東側から出て私道を経由し、北側にも南側にも行くことが可能だからである。

 

もう一つの南側説は、二つの地図「番地界入 東京府荏原郡大崎町全図」と当該地域の火災保険地図から確認できた。地図は、例外はあるものの、通常はそこにあったものが記載されることから、南側に改札があったことは疑いようがない。ただし、橋上駅舎だったかどうかまでは何とも言えない、となるだろうか。

 

このあたりで、その3に続く。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年5月5日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

桐ヶ谷駅(現 東京都品川区大崎四丁目13番内に所在していた)は、東急池上線(五反田駅~蒲田駅)の大崎広小路駅~戸越銀座駅間にかつてあった駅だが、それほど大した駅でもないのに鉄道史において名前が登場するのは、当時の池上電気鉄道が部分開業を繰り返していた際、「1927年(昭和2年)8月28日、池上電気鉄道が雪ヶ谷駅~桐ヶ谷駅間を部分開業」という事実があったからである。仮に部分開業が「雪ヶ谷駅~大崎広小路駅間」であったなら、それこそ存在そのものが埋没してしまうような小さな駅だったに相違ない。しかし、池上線の部分開業の終端が桐ヶ谷駅だったことで、この駅の存在は廃止後も歴史の中に名を残すことになったと言えるだろう。

 

そんな桐ヶ谷駅だが、これまで当Blogで取り上げたことがある「慶大グラウンド前駅か? 慶大グランド前駅か?」や「いつから雪ヶ谷大塚駅に改名したのか?」というものと同様、これも東急池上線の駅についてである。なぜ、池上線関連を多く取り上げるのか。この理由をこれまでほとんどふれてこなかったので、簡単に書いておこう。一言で言えば、東急池上線の歴史とは「勝者(= 目黒蒲田電鉄 → 東京横浜電鉄 → 東京急行電鉄)によって書かれた歴史」であり、自社路線と比べて確度の低い情報が提供されているからにほかならない。

 

地域歴史研究において、各種文献を調査するのはもちろんだが、私も含めて多くの方々が参照する原典となるのは「社史」のような自身によって書かれたものだろう。だが、多くの場合、本当に自身の歴史であればそれこそ「体験」として書くこともできようが、例えば婿養子であるとか嫁のように、生まれた当初から歴史を「体験」していない人たちの歴史は、聞き取りになったり、想像でしか書きようがなかったり、あるいは都合の悪い事実は消し去られたり(これは自身であっても起こることだが)、等々、様々な要因によって不正確に伝わるものも少なくない。

 

東急池上線は東急電鉄の歴史において、現存する路線の中では東急池上線と東急世田谷線の2路線が、他社を合併したことによって得た路線である。特に東急池上線は、目黒蒲田電鉄(先にも書いたが東急電鉄の前身)とのライバル関係だった池上電気鉄道を買収合併した歴史があり、東急各線の中でも不遇な扱いを受けることが多い(と外部からは見える)。池上線の歴史記述の薄さは、池上電気鉄道を合併して10年経たずして刊行された社史「東京横浜電鉄沿革史」からもわかる。いかんせん、それから30年以上を経た「東急50年史」内の池上線に関する記述よりも内容が少ないのだから。(好意的に解釈すれば、合併してまだ10年も経ていないものを歴史として記述しにくい、という理由もあるだろう。しかし、この時点で記述に正確性を期しておけば、のちの社史「東急50年史」にあれだけの不正確さを継承することもなかったはずだ。)

 

とまぁ、そんなわけで敗者である池上電気鉄道を出自とする東急池上線は、私にとって気になる存在であり、地域歴史研究の題材としてもなかなかに面白いのではないか、というわけである。

 

では、桐ヶ谷駅のプロフィールを簡潔に記しておこう。

 

桐ヶ谷(きりがや)

  • 1927年(昭和2年)8月28日開業
  • 1945年(昭和20年)7月25日休止
  • 1953年(昭和28年)8月11日廃止

以上の部分については、おそらく争いはないと思われる。駅が休止となったのは1945年(昭和20年)5月25日、このあたり一帯が空襲を受けた際に罹災したのが原因で、戦後も休止状態が継続し、復活を果たすことなく事務レベルで約8年後に廃止となった。復活できなかったのは、大崎広小路駅~戸越銀座駅間1.1kmと駅間隔が短かったことに加え、最寄りの商店街が発展していなかったことが大きいだろう。他に東急電鉄において、戦時中に罹災して休止後廃止となった駅は路面電車である玉川線及び戦後独立した小田急、京王、京急、相鉄の各路線を除くと、東横線の並木橋駅、新太田町駅及び神奈川駅、目蒲線(現多摩川線)の道塚駅があるが、いずれも復活を果たせていない(新太田町は臨時駅として一時復活)。よって、池上線だからという理由からではない。

 

さて、それでは本論に入ろう。桐ヶ谷駅の何が問題なのか。それは、またしても「東急の駅 今昔・昭和の面影 80余年に存在した120駅を徹底紹介」(著者 宮田道一、発行 JTBパブリッシング)の記述についてである。本書111ページにある桐ヶ谷駅に関する記載を一部引用すると、

「島式ホームが、第二京浜国道の北側に接して掘割の中に設けられ、北側の踏切側下り線側に本屋があった。さらに南側には橋上駅舎があって国道の跨線橋ぎわであった。桐ヶ谷火葬場への最寄り駅ともなっていた。」

とある。これは本文中に問題記述があるというよりも、単純に内容についての疑問である。それは、駅ホームの両端に改札を設けるのか? というものである。本文中には改札についてまったくふれていないが、本屋(「ほんや」ではなく「ほんおく」と読む)があるということは当然ここに駅員を配置し、本屋側に乗降客を誘導、つまりは改札があることを意味する(駅員配置に余裕があれば別だが、そんなはずはない)。無論、もう一方の橋上駅舎も同様に改札があることを意味するので、北(踏切)側と南(橋上駅舎)側の両方にあるように書かれているのだ。だが、現在の池上線の駅もすべてそうなっているが、ホームの両端に改札がある駅は一つとしてない(旗の台駅は戦後に乗換え駅として新造されたので例外)。これは単に営業コストを減らすのに都合がいいだけでなく、乗降客の安全管理等にも有効だからである。もちろん、電車編成数の少ない路線であれば、改札が一つにまとまっていた方がいい(今でも3両編成だが、戦前はさらに短かった)。もちろん、両側に改札があってもそれはそれで例外的なものであるし、本屋を設けた場所が改札から離れていたとしても、それ相応の理由があるはずだ。それを追求することを本稿の目標としよう。

 

 

現地を見るとわかるように(上写真手前が北側で奥が南側)、北側踏切方面に改札があるのが自然だと感ずるが、こちらはあまりぱっとせず、おそらく最も利用があったであろう桐ヶ谷斎場への道程も回り道となる。では、南側橋上駅舎だけなのか、というと地形上から見て果たしてそうだろうか? という疑問も出てくる。

 

と疑問を呈したところで、次回に続くとしよう。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年12月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。この記事、前Blogでは結構引用いただいたものが多かったので、早く再掲したいものの一つでしたが、埋もれていました…。】

 

「蛇窪」という地名が、かつて東京都品川区にあった。今でもわずかに歯科医院等にその名をとどめているが、いわゆる公式地名としては既に消滅している。この「蛇窪」は、東京府荏原郡荏原町(その前は平塚町、さらに前は平塚村)に所属する大字で、上下をそれぞれ冠して「上蛇窪」と「下蛇窪」があった。平塚村が成立する前は、それぞれが単独村として存在しており、古い歴史を有する地名である。

 

©国土地理院

 

「蛇窪」の由来は、歴史の古い地名ではよくあるように、由来そのものははっきりしない。だが、「蛇窪」は地域を流れる河川に由来するのはほぼ確実と思われる。今は川が流れる様子を地上から見ることはできないが、河川改修以前の当地域を流れる川は、蛇行著しい水路だった。

 

と、地名の由来については置いておいて、長い歴史を有する「蛇窪」という地名に危機が訪れたのは、当地が平塚耕地整理組合によって区画整理がなされ、住宅地として大きく発展する時期と機を同じくする。昭和7年(1932年)5月、当地域が東京市に編入されるという議論が沸騰している最中、上蛇窪地域選出の町会議員、岩淵喜宗治は以下の建議書を提出した。

(参考資料「最近荏原町政史 全」鏡省三 著。204~206ページ)

 

建議書

荏原町大字『上蛇窪』『下蛇窪』ト公称セル字名称ヲ改称セントス

 

理由

町村内ニ従来公称セル字名ハ往古ヨリ伝来ノモノ甚タ多ク土地訴訟ノ審判歴史ノ考証地誌ノ編纂等ニ要用ナルヲ以テ容易ニ改称スヘカラサルハ大正五年内務省訓令ニ依リ明白ナル処ナルモ然共世運ノ進展亦其地方ノ実情ニ鑑ミ其ノ不適当ト認識セラルルニ至リタル場合ハ之カ適当トスル名称ニ改称変更スヘキモノニシテ之亦己ヲ得サルモノト云ハサルヘカラス

 

顧ミルニ当町大字上蛇窪下蛇窪ト公称セル字名ハ古来相当ノ由緒ノ存スヘキハ言を俟タサル所ナルモ今ヤ数万ノ人口ヲ包容シ全ク都市ノ形態ニ化シ商業発展ノ中核地域トナリ将亦住宅地域トシテ現在及将来益々発展ノ気運ヲ醸成シツツアリ由来我国民性ノ蛇ヲ嫌忌スル感情ヨリスルモ亦此ノ都市文化ノ中心タル地名ニ蛇窪ナル名称ハ恰モ山村辺輙ノ地名ノ如ク到底不適当タルヲ免レス

 

如上蛇ノ一文字ヲ排セス或ハ上町下町ト称スルモ将亦上窪町下窪町ト云フモ可ナリ今ヤ此ノ地方モ大東京ニ編入セラレントシ将来一層ノ都市文化発展ノ期待スヘキ時機ニ際会シタルヲ以テ此ノ機ヲ逸セス最モ適当ナル字名ノ改称スヘキモノナリ

 

右理由ニ依リ町当局ハ速ニ本案ヲ会議ニ附シ委員ヲ設ケ精査研究ヲ逐ケ改称ノ実現ヲ計ラルヘキモノトス

右建議候也

 

昭和七年五月十六日

荏原町会議員

 提案者 岩淵喜宗治

 賛成者 沖要

 同   小林寛一

 同   平賀亮治

本文部分を一部、読みやすくしたものを以下に掲げる。

町村内に従来公称せる字名は、往古より伝来のものはなはだ多く、土地訴訟の審判歴史の考証、地誌の編纂等に要用なるを以て、容易に改称すべからざるは大正五年内務省訓令に依り、明白なる処なるも、しかずとも世運の進展、またその地方の実情に鑑み、その不適当と認識せらるるに至りたる場合は、これが適当とする名称に改称変更すべきものにして、これまた己を得ざるものといわざるべからず。

 

顧みるに、当町大字上蛇窪、下蛇窪と公称せる字名は、古来相当の由緒の存すべきは言を俟たざる所なるも、今や数万の人口を包容し、全く都市の形態に化し、商業発展の中核地域となり将また住宅地域として現在及び将来益々発展の気運を醸成しつつあり、由来我が国民性の蛇を嫌忌する感情よりするもまたこの都市文化の中心たる地名に蛇窪なる名称は、あたかも山村辺輙の地名の如く到底不適当たるを免れず。

 

ごとし上蛇の一文字を排せず、或は上町下町と称するも将また上窪町、下窪町というも可なり、今やこの地方も大東京に編入せられんとし将来一層の都市文化発展の期待すべき時機に際会したるを以て、この機を逸せず最も適当なる字名の改称すべきものなり。

 

右理由に依り、町当局は速に本案を会議に附し、委員を設け精査研究を逐げ、改称の実現を計らるべきものとす。

カタカナをひらがなに、一部漢字もひらがなにすれば、語体を変えずとも読みやすくなるだろう。要するに建議書では、地名は歴史や由緒あるものであり、簡単に変えるべきものではないが、蛇窪のような都市に相応しくない地名、また蛇を嫌う国民性から地名に不適当であり、せっかく東京市に編入されるのだから、改名する機会を逃してはならない。との主張に読める。

 

この建議案は、昭和7年(1932年)7月10日の町議会に附議し、委員を決定。その後の調査研究の結果、上蛇窪を上神明町に下蛇窪を下神明町と改称することに決定。9月7日の町議会で決定し、10月1日より実施としたのである。

 

これにより、蛇窪は神明に置き換えられることになったわけだが、当初の建議書においては「神明」という名は見えていない。そこにあるのは、「上町・下町」「上窪町・下窪町」というものであって、単に「蛇」というキィワードを外したに過ぎない。これが神明となったのは、神明社より由来するとなるが、この名を採用した理由は人為的なものである。見栄えのいい、聞こえのいい、通りのいい、という理由でしかないのだ。

 

東京府荏原郡荏原町大字上蛇窪は、昭和7年(1932年)10月1日より、東京府東京市荏原区上神明町となった。しかし、せっかく命名した町名もわずか10年足らずで消滅してしまう。荏原区は、人口稠密地帯であり、単独町で一つの区を成立させたが、町名は多くの他区とは異なり、大字区域をそのまま町区域としたため、地番だけで家屋を特定することが困難だった。そのため、東京市からの強力な指導を受け、町名整理に踏み切った。同時に自治会(町会)区域も見直され、原則、「一町=一町会」となった。この新町名は、現在にも残る豊町、二葉町(現 二葉)だが、「蛇窪」や「神明」のような由来を持たない名前でしかなかった。幸いにして、東急大井町線に「下神明」駅が残っているので、東京市荏原区発足時の町名は保存されているが(「下神明」駅の前は「戸越」駅だった。現在の「戸越公園」駅の前が「蛇窪」駅)、これがなければきわめて短期間で消滅したとなるだろう。

 

以上、蛇窪という地名がどういう経緯で消滅に至り、それを受けた神明も10年足らずで消滅したことを振り返ってみた。所詮は、どれだけの人たちが土地の記憶を共有できるかで、地名の存続は決まってくる。蛇窪の場合は、その名もさることながら、それ以上に都市化以前の状況と都市化が進んだ後での住民の気質が違ったこと。さらには戦時体制に向かって町名改正がなされたが、結果的に合理的だったことや長年使用される間に愛着が出てきたということになるだろう。「この土地は誰のもの?」みたいに、時代をどこまで遡れるのか、によって決まる話(中東では2000年以上もやりあっている)。地名の保存とは、とどのつまりそういうことだと思うのだ。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年8月3日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

前回(「同潤会 荏原普通住宅地」)の続きです。というか、おまけです。

前回は、現地の写真を掲載していなかったので、リアル感不足かなと思い、今回一部であるが追加する。

 

 

どことはいちいち特定しない(以下同じ)が、微妙な道の曲がり具合からどのあたりか地図を確認すれば見当がつくだろう。この道が私道なのか、あるいは単なる通路(建築基準法にいう道路ではない)なのか、あるいは公道なのか。道幅は2メートルより狭く、当時尺貫法であったことを思い起こせば、1間(約1.8メートル)ほどの幅かと思われる。

 

そして、同潤会住宅地の境界付近にあたるところの通路はさらに狭くなっており、1メートルあるかないか(半間ほどか?)である。広角レンズで撮影すれば、もう少しまともな写真が撮れるのだろうが、いかんせん持ち合わせていなかったので、どうしてもこのような写真となってしまう。とにかく、街路が狭いので撮影するのも一苦労する。

 

 

これは、狭い通路というか側溝というか、ここが同潤会住宅地の境界で写真右側が同潤会住宅地となる。大正期の分譲地は、下水道(側溝)を境界線に配置する傾向があるが、ここもそういった特長を持っているのである。

 

以上、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年8月2日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。残念ながら、本住宅地は建て替えられているので、本当の意味での過去記事となりました。】

 

航空写真(上空からの都市の写真)を眺めていると、周囲と異なる街区パターンが突然現れるところがあったりするが、多くの場合、それはそうなった理由があるはずである。今回取り上げるのは、東京都品川区中延二丁目3番付近。地図をご覧いただくとおわかりのように、概ね東西・南北に走る道路が主流の街区に、この部分だけ斜めの道路と建物自体も東西・南北軸とは傾いて建てられている。これを航空写真で見れば、よりはっきりこの街区のみが異なっていることが確認できる。

 

 

この一角(赤く示した部分)が、周囲の街区よりも特異というよりは、一つの街区の中に特異な区画を包括しているといっていいものだろう。多少でも建築基準法をご存じなら、このエリア内の建築物の多くが不法建築物(接道要件を満たしていない)ではないか?という疑問を持たれるだろうが、実際はともかくこのエリア内の特異性は、この航空写真だけで十分に確認できる。

 

周囲と異なるこのエリアは、いつからこうなっているのか。まずは、この点から確認してみよう。この周辺は、関東大震災前後に耕地整理(いわゆる区画整理)が成されており、道路パターンは概ね東西・南北に走り、多くが長方形の街区で構成されている。よって、大正後期から昭和初期の状況が把握できる同時代の地図をもって確認するのが適当である。

 

©国土地理院

 

これは、昭和4年(1929年)時の1万分の1地形図の当該部分を示したものだが、いきなり答えが出ているように(というか本記事のタイトルで既に明らかではあるのだが)「同潤会住宅」と明記されているとおり、ここは同潤会によって作られた住宅地だったのである。街区の中に特異なパターンが見られるのは、同潤会住宅地としての名残(残滓)ということだったのだ。

 

 

もう一つ同時期の地図として、東京府荏原郡荏原町(現 東京都品川区の一部)の地図(昭和4年時)を示そう。微妙に細部は異なるが、概ね1万分の1地形図と変わらない。注目は、同心円状の道路が左上の区画のみ見られないことだが、ここは当初は同潤会住宅地の予定であったものを荏原町の人口爆発的な増加によって、急遽、小学校建設の必要が生じ、ここが小学校建設用地(現 中延小学校)となったことで同心円状道路の一部が欠けることとなったのである。また、もう一つの注目は同潤会住宅地の中央を南北に貫く道路が、住宅地内の区間だけやや広くなっていることである。1万分の1地形図では明らかでないが、東京府荏原郡荏原町地図では誇張はされているものの、そういった表記となっているのが確認でき、実際、現在も道路の幅員の違いはそのままとなっている。こういう細かい部分が、地形図とはまた違った発見ができることから、単に地形図だけで昔を語りたくないのである。

 

さて、昭和4年(1929年)当時と現在の航空写真を比べて見ると、左下の区画以外、つまり右上と右下の区画には同心円状の道路がなくなっていることがわかる。ここにも歴史はある。

 

©国土地理院

 

ちょっと見にくいかもしれないが、これは昭和23年(1948年)当時の航空写真で、赤く示した部分が現在の同潤会住宅地として残された区画である。そう、昭和20年(1945年)の米軍機による空襲によってこの周辺も被害を受けたが、同潤会住宅地のうちこの区画のみが焼け残ったのである。右上、右下の区画は残念ながらほとんどを焼失(消失)し、戦後になって新たな区画によって建物等が建設されたが、わざわざ非効率な同潤会住宅地の同心円状街路を採用することはなかった。こうして、わずか一角のみに狭隘な道路と周囲の建物配置と異なる区画が誕生(というか残された)したのである。

 

それにしても、戦前の1万分の1地形図や戦後間もなくの航空写真から明らかなように、同潤会住宅そのものは建物間隔にそれなりの余裕を持って建てられているにもかかわらず、現状のそれは、建物間の空地にも無理矢理建物が建設されているようにも見える。このあたりの理由は推して知るべしかもしれないが、まぁ今回はこの辺で。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年6月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

当Blogでおよそ4か月前、「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か? 正しいと思われるものでも誤っている事例」という記事において、

私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。

と記したように、慶大グラウンド前駅が正しいのか、慶大グランド前駅が正しいのか、という宿題に対して、ようやく納得できる解を示すことができる。まずは、池上電気鉄道が発行した切符を見てみよう。

 

 

昭和7年(1932年)5月3日の日付が確認できるこの切符。五反田駅発行のもので「五反田 → 雪ヶ谷 慶大グラウンド前間」と確認できる。もっとも、切符右側には「慶大グランド前」ともあり、どちらが正しいんだ?と思わせるが、単に縦に7文字しか書けない故のものだろう。続いては、様々な文献にも紹介される沿線案内図。私もいくつか入手できたので以下に示すと、

 

 

昭和2年8月から昭和2年末に発行された「池上電気鉄道沿線名勝案内」(部分)には、「慶大グラウンド前」と書かれている(昭和2年発行とした根拠は、案内図裏面に「池上電車は蒲田を起点とし大崎広小路まで東京府荏原郡を半環状を画いて走る現営業線と池上大森間、大崎広小路五反田白金品川間の予定線とを有して居ります。来春までには五反田駅に於て省線と連絡し更に引続いて市内乗入線として白金猿町品川線の開通を見る筈です。」[すべて漢字等は現代のものとした]と記載があるため。太字は筆者注)。続いて、

 

 

昭和4年(1929年)頃に発行された「池上電鉄沿線案内」(部分)。これにもしっかりと「慶大グラウンド前」とある(池上から点線が出ているのは、荏原中延~池上徳持間3.7kmの免許路線 [1928年(昭和3年)11月5日免許] )。続いて決定版と言うべき、

 

 

改訂された「池上電鉄沿線案内」(部分)。何度も同じことを確認するが、やはり「慶大グラウンド前」となっている。この三点以外にも池上電鉄が発行した沿線案内図があるかもしれないが、少なくとも確認できたこの三点は、図はもとより裏面の解説でもすべてが「慶大グラウンド前」と記されているのである。

 

そして、池上電鉄が目黒蒲田電鉄に合併された後の沿線案内図では、いちいち示さないが「慶大グラウンド」と「前」が抜けてみたり、あるいは「慶大グランド前」と「ン」が抜け落ちてしまう。そのとどめが「東京横浜電鉄沿革史」に記載された千鳥町駅の由来に「慶大グランド前を改称」とされ、現時点での東急電鉄社史の決定版となっている「東急50年史」にも、それが引き継がれているわけである。

 

言うまでもなく、「東急50年史」は東急電鉄の歴史を調べる上で欠かすことのできない書籍であり、またこれを原典(典拠)としている文献も少なくない。いや、これを外すことなど考えられないだろう。だが、これに記載されているものがすべて正しいとは限らない。駅名の由来などはその最たるものだが、池上電気鉄道関連の記載もまたしかりである。当Blogでも、慶大グラウンド前駅の話題や雪ヶ谷大塚駅の話題で取り上げているように、明らかに「東急50年史」の記載に誤りがあり、これを元にした山ほどの文献による誤った記載が蔓延しているのが現状なのである。

 

これを正すには、やはり東急電鉄自身による新たな社史の登場が求められる。それに期待しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年2月16日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

Wikipedia内の記述が云々という話を先日取り上げたが、誤った情報が出るのは何もネットの世界だけではない。目新しいメディアであるが故、古いメディアから攻撃の対象になりやすいと言うだけで、実際には新聞や書籍などにも誤った情報はたくさんある。それが引用され、もっともらしいように語られているのは、歴史の長さから見ても圧倒的に新聞や書籍の方が多いだろう。

 

今回、その例として取り上げるのは、タイトルにも記したとおり「慶大グラウンド前か、慶大グランド前か?」という問題である。はっきり言って、どっちでもいいではないかという話に聞こえるかもしれないが、これは固有名詞であり、しかも駅名だったこともあるなかなかに重みのある名前なのである。

 

グラウンドなのか、グランドなのか。これが固有名詞でなければ記載方法の違いであるので、筆者のポリシーでいいだろう。PC関連で言えば、コンピューターとコンピュータ、プロセサとプロセッサなどなど枚挙に暇がないが、固有名詞でなければどちらでもいいものだ。だが、固有名詞で表記が特定されているものであれば、たとえそれが筆者のポリシーがあってかつ異なるものだったとしても、表記を勝手に変えるのはいかがなものかとなる。

 

例えば、東急田園都市線の駅名に「たまプラーザ」というものがある。一般的には、PLAZAはプラザと表記することが多いが、だからといって「たまプラザ」とはしない。ローマ字表記等、異なる文字を使うのでなければ、「たまプラーザ」は「たまプラーザ」なのである。これと同じように、「慶大グラウンド前」か「慶大グランド前」なのか、というのはどちらでもいいというものではなく、どちらかが正しくどちらかが誤りなのである。

 

では、「慶大グラウンド前」または「慶大グランド前」(以降、面倒なので「慶大グラウンド前」と称し、必要に応じて「慶大グランド前」と使い分ける)とは何か。簡単に説明しよう。先に駅名だったと示したように、これは現 東急池上線の千鳥町駅の旧名である。東急池上線は、1934年(昭和9年)に東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄に合併される前までは、池上電気鉄道という会社が運営していた路線で、合併される直前の状態においては現在の東急池上線と、雪ヶ谷~新奥沢間のわずかな区間の路線(1936年廃止)を持っていた。現 千鳥町駅は、池上電気鉄道時代は「慶大グラウンド前」駅という名であり、目黒蒲田電鉄に合併されて一年ほど経過した後に、駅の場所を若干西側に移設して千鳥町駅と改名させられたのである。

 

一方、「慶大グラウンド前」駅の命名根拠となった慶大グラウンドはというと、慶應義塾が1924年(大正13年)に、東京府荏原郡調布村大字嶺字横須賀等(現 東京都大田区千鳥二丁目)の土地約14,000坪を購入して造成し、1926年(大正15年)から運動場(主に野球グラウンド)として開場した。これを受けて、池上電気鉄道が1926年(大正15年)8月6日に「慶大グラウンド前」駅を開業したという流れである。

 

この慶大グラウンド(新田球場)は、慶大野球部の本拠地となり、早慶戦など大学野球の公式戦も行われたため、営業成績の振るわなかった池上電気鉄道としては、格好のターゲットと映ったことだろう。だが、実際の最寄り駅はライバル目黒蒲田電鉄の武蔵新田駅の方であった(「慶大グラウンド前」駅から約220メートル。武蔵新田駅からは約160メートル)。とはいえ、グラウンド敷地までではなく、あくまで野球部のクラブハウス的な建物までとするなら、「慶大グラウンド前」駅の方が近かった。

 

しかし、池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に吸収合併され、先にふれたとおり「慶大グラウンド前」駅は、1939年(昭和14年)のグラウンド移転を待たずして、駅の位置をずらされた挙げ句(現 千鳥町駅付近)、駅名もその時点での町名である調布千鳥町から拝借して千鳥町駅となった。なお、原典となる文献があるからだと思うが、千鳥という地名はそれほど古くないという記載をよく見かけるが、これは誤りで、1932年(昭和7年)に調布千鳥町と命名された根拠は、この地の一部が東調布町大字嶺字千鳥窪(千鳥久保とも書く)だったことによる。しかも、この名はこの地域の小名であり、よって江戸期以前よりの古い地名でなのである。

 

横道に逸れた序でに、新たに千鳥町駅となった場所は、「慶大グラウンド前」駅が誕生するまでは、ほぼこの位置に光明寺駅があった。池上線が雪ヶ谷駅まで延長した1923年(大正12年)5月4日に開業した駅で、その名のごとく最寄りの光明寺への参詣客を目当てに設置された。だが、ほとんど利用客がなかったため、「慶大グラウンド」駅が開業する前に廃止となった。この「慶大グラウンド前」駅も開設して間もなく、駅の場所が都市計画道路に当たることが明らかとなったことから、西側に移転し、昭和初期の地図に見られる位置に移設した。そして、1936年(昭和11年)に千鳥町としてまた移設となったわけで、わずか12~3年ほどの間に駅名変更が2回、駅の場所が3回も移動した珍しい駅なのである。

(下の昭和4年時点の地図に示す、1が光明寺駅、2が初代慶大グラウンド前駅、3が二代目慶大グラウンド前駅、4が千鳥町駅。)

 

©国土地理院

 

長くなったが「慶大グラウンド前」駅とは、以上のような変遷を経た、なかなか興味深い駅なのである。この駅名が、「慶大グラウンド前」なのか「慶大グランド前」なのか。ようやく本論に入るが、なかなかどちらが正しいのか決定しにくいのである。以下に主な文献を列挙して、どちらを記載しているかを見てみよう。

  • 東京横浜電鉄沿革史や東急50年史など、東急公式資料はすべて「慶大グランド前」と表記されている。
  • 池上電気鉄道の切符(硬券)は「慶大グランド前」と表記されているらしい(現物を見ていないが、オークション等の情報を見る限り「慶大グランド前」として出品されているものが多い)。
  • 陸地測量部(現 国土地理院)の地図では「けいだいくらうんどまへ」(慶大グラウンド前)と表記されている。
  • 池上電気鉄道沿線案内図は「慶大グラウンド前」と表記されている。

典拠として、必要十分なものはこの4つでいいだろう。困ったことに、東急公式資料は「慶大グランド前」(おそらく最初である東京横浜電鉄沿革史の529ページには、千鳥町駅の記事として「昭和十一年一月一日(旧称)慶大グランド前を改む」とある)なのだが、元締めと言うべき池上電気鉄道の沿線案内は、対象の時期はすべて「慶大グラウンド前」となっている。国土地理院の前身である公式な地図もひらがな表記だが、「慶大グラウンド前」であり、本当にどちらが正しいのか、判断がつきかねる。ただ、傾向ははっきり掴めていて、鉄道ファン系の著者が書かれているものはほとんどすべてが「慶大グランド前」、一般向けの地図等では「慶大グラウンド前」となっている。この理由は、上に掲げた典拠から推測できるとおりだろう。

 

ただ、例外があって、昨年出版された「東急の駅 今昔・昭和の面影」(宮田道一 著、ジェイティビィパブリッシング)で、千鳥町駅のページに何の脈絡もなく唐突に「慶大グラウンド前」の注釈として、池上電気鉄道沿線案内ではこのように表記されている(おそらく自身の他著書では「慶大グランド前」としていたが、この著書では「慶大グラウンド前」としたと言いたいのだろう。ただ、この本しか見ていない読者は意味がわからず、置いてきぼりである)のような注釈をつけている。推測するに、鉄道ファン系の著者も「慶大グラウンド前」として認めつつあるのかもしれない。なぜなら、池上電気鉄道沿線案内のような資料は、ずっと昔(大正後期~昭和初期)からそこにあり、それを今頃になって発見したなどとは考えにくく、「慶大グランド前」説から転向したのではないかと思われるからである。

 

とはいいつつ、私自身、結論は現時点では出せていない。池上電気鉄道の発行していた切符が「慶大グランド前」と書かれていたなら、「慶大グランド前」が正しいとなりそうだが、決定的な資料は当時の駅名が記された駅の写真だろう。なので、古い文献を図書館でいくつかあたったところ、決定的な写真を見つけることはできなかったが、確認した昭和初期の資料はほとんど皆「慶大グラウンド前」となっていた。しかし、これをもって「慶大グラウンド前」だと言えるはずもなく、今後の宿題とすることにしよう。

 

以上、大した話でもなく調べる価値がそれほどあるものなのか、と疑問はないわけではないが、一部の文献だけを頼るだけでは、わかっているつもりにしかならないことがわかるだろう。たかがこの程度の話でさえ、奥が深いものなのだ。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2009年6月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

3か月ほど前、「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事内において、東急池上線の雪が谷大塚駅の変遷について以下のように記述した。

 

明らかにこれまでの定説を覆す事実に気がつくだろう。そう、それは雪ヶ谷駅の移動遍歴である。「回想の東京急行 I」等に見られるように、雪ヶ谷駅の駅の位置は全部で三つあり、初代(大正12年。開設時)→二代目(昭和3年。奥沢線開通時)→三代目(調布大塚駅統合時)などとされてきた。このうち、初代が最も北側に位置するとされていたのだが、3,000分の1地形図からの情報では、初代から二代目に移行の際、南下したのではなく北上したことが確認できる。そして、三代目となって再び南下し、初代よりも南側に位置するようになった。これは、駅南側道路に接道させるための変更である。

 

これまでの定説とは、「回想の東京急行 I」にある次の記述である。

 

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置に開業した。設備の詳細は不明で、営業期間も短く、昭和3(1928)年10月には新奥沢支線の開業にともなって約150m蒲田寄りに移設した。当初、相対式ホームのみであったが、まもなく新奥沢支線用のホームが設置され、立派な分岐駅の体裁を成した。

初代の雪ヶ谷駅は、現在の石川台1号踏切の蒲田寄りの位置だというが、地図で確認するとわかるように不自然な位置にある(後でまとめて示す)。本文にもあるが、設備の詳細は不明とあり、この場所は駅の痕跡すら残っていない。では、なぜこの場所が初代の雪ヶ谷駅だとしたのか? この疑問に対し「回想の東京急行 I」にはまったくふれられていないので答えようがないが、ついにこの説の典拠と思われる書籍を見つけた。「鉄道廃線跡を歩く VII」(宮脇俊三 著、JTB発行)である。この本の105~107ページには「池上電気鉄道新奥沢支線」が紹介されているが、ここに雪ヶ谷駅の変遷が地図に示されている。早速確認してみよう。

本文中には、

石川台1号踏切際にあった初代雪ヶ谷駅(A)は高圧鉄塔用地になって何も発見できないが、1号と2号踏切の中間より線路幅が広がり始める地点が新奥沢分岐点である(B)。続く3号踏切の進行右側空地が二代目雪ヶ谷駅本屋の位置であった。また、現・雪が谷大塚駅ホームの五反田寄りが二代目駅ホーム位置で(以下略。下に部分図で補完。なお、下地図にあるA地点は本文中にある石川台1号踏切付近ではなく、石川台2号踏切付近を指している。単にこれは誤植のようなものと思われる。)

 

とあり、初代雪ヶ谷駅の位置については「回想の東京急行 I」とほぼ同内容の記載となっている。これは「回想の東京急行I」の著者の一人 関田克孝氏が「鉄道廃線跡を歩く VII」中の「池上電気鉄道新奥沢支線」の著者でもあり、よって同内容で記載したと考えられる。加えて、両書とも2001年の初版発行であり、おそらく執筆時期も近いと思われる。つまり、両書に記載されている初代雪ヶ谷駅の位置の根拠は、どちらか一方で根拠を確認できれば、両方とも証明できるとなるわけである。下に「鉄道廃線跡を歩く VII」の107ページを縮小・圧縮して引用しているが、このページには3枚の地図が掲げられており、最も古いものは国分寺線第一期計画図で、ベースは3千分の1地図(おそらく大正14年のもの)。二番目に古いのは新奥沢線開通後の昭和初期の1万分の1地図。残るものがほぼ現代に近い1万分の1地図である。縮尺が異なるものがあるが、この3枚をできる限り同一縮尺かつ同地域となるよう工夫がされている。

 

 

だが、よく見てみると位置がずれているだけでなく、縮尺が合っていないことがわかる。特に国分寺線第一期計画図(右下の図)は、ベースが3千分の1だからなのか、他の1万分の1地図と位置がずれている上に明らかに他の2図と比較してやや縮尺が大きめになっている。このため、計画図(右下)に書かれている雪ヶ谷駅(終点)と最も新しい1/1万地形図「自由が丘」(左上)に追記されている雪ヶ谷(初代)駅とは、一見すると同じ位置のように錯覚してしまうが(特に左下の地形図とも見比べるとなおさら)、実は大きくずれているのである。にもかかわらず、右下端のほぼ同位置にあることをもって初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないかと推察されるわけである。

 

 

上図が国分寺線第一期計画図の右下端を拡大したものだが、この図の初代雪ヶ谷駅の位置と、アルファベット入りでほぼ現代の地形図に初代雪ヶ谷駅等を追記した図と比較すると、何となく同じ位置にあるような錯覚を覚える。「鉄道廃線跡を歩く VII」においても、初代雪ヶ谷駅をこの位置にした根拠は語られていないが、この3図を比較検討した上での関田氏の推測ではないかと私は考えた次第である(関田氏本人に伺うのが手っ取り早いが、何で誤ったのかとは聞きにくい)。

もう少し、錯覚を覚えるという部分を詳しく説明しよう。

 

 

 

このように両図を並べ、中原街道から初代雪ヶ谷駅の蒲田寄りに通る直線道路を赤線で示した。一見すると同じ道路のような錯覚を覚えるが、計画図にある直線道路は現在、存在していない。雪ヶ谷駅が開設した当初に一時的にあっただけで、周辺が耕地整理組合によって区画整理された時に消えてしまったのである。しかし、両図を並べてみるとわかるように、若干角度はずれているが同じ道路のように見え、ここから初代雪ヶ谷駅の位置を特定したのではないだろうか。また、中原街道北西側(図では上側)の細い道路も同じだという先入観で見れば、何となく同じように見えてしまうような気もする。とはいえ、同じ道路でないことは、線路と中原街道との接近具合でも確認できる(拡幅はされたが曲がり具合はそのまま)。

 

ここで、最近見つけた新資料(私にとっての)を確認してみよう。

 

これは「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」とある池上電気鉄道が当局に提出した第三期線の計画図面である。第三期線とは、雪ヶ谷~五反田間(ただし、大崎広小路~五反田間は現在の路線とは異なり、再度申請・免許されている)を指し、言うまでもなく第二期線の雪ヶ谷駅までは既に開業していたため、この図における雪ヶ谷駅の位置は正しいものと考えられる。では、当該部分を拡大してみよう。

 

 

拡大してもわかりにくかったので、私の方で一部文字を追加した。「三期工事起点3マイル72チェーン地点」は、第二期工事までに施工完了したところで、雪ヶ谷駅終点からわずかに先となっている。そこから、中原街道に沿う形で第三期線の直線が引かれている。途中4マイル地点に◎が付いており、ここまでの距離は工事起点から8チェーン(= 4マイル ー 3マイル72チェーン。1マイル = 80チェーン)なので、メートル法に直せば約161メートル(1チェーン = 20.1168メートル)であり、さらに進むと斜めに道を横断、すぐにもう一本道を渡って崖地を越えるようになる。ちょうど上図の右端辺りに線が複数入っているが、ここが崖地であり、「4マイル地点」とある「点」の字の右にある道路が、いわゆる山裾道でこの道の右側にあたる部分が崖下となっている。工事起点から4マイル地点までの距離が約160メートル程度なので、4マイル地点から崖下に第三期線がかかるまでの距離はおよそ130メートル程度となる。合わせれば、工事起点から崖地にかかるまで約290メートルの距離があると計算できる。

 

さて、これを現代の地図にあてはめて、崖地(山裾道の北側)から約290メートル雪ヶ谷方向に戻ってみるとどのあたりになるのだろうか。そう、現在の雪が谷大塚駅のホームにあたる場所にまで戻ってしまうのである。また、この計画図に関田氏のいう初代雪ヶ谷駅をはめ込むと、4マイル地点よりも先に駅があったことになり、第二期工事までに開業した雪ヶ谷駅であるにもかかわらず、駅の場所は第三期工事区間に存在してしまうことになる。これは矛盾どころかあり得ないとなるのは、言を待たないだろう。

 

 

それでは、航空写真も参考にしながらまとめに入ろう。

「回想の東京急行 I」並びに「鉄道廃線跡を歩く VII」では、初代雪ヶ谷駅は石川台1号踏切際(蒲田寄り)にあったとしているが、これは当Blogの「雪が谷大塚駅の歴史 [完結編]」という記事で、古地図等を参照すると誤っているのではないかと指摘したが、今回はさらにそれを補強する根拠として、「第参期線 池上電気鉄道線路平面図」に記載されている雪ヶ谷駅の位置や、第三期線の計画線を検討し、どう考えても石川台1号踏切近く(山裾道そば)に初代雪ヶ谷駅は存在しないと確認した。

 

そして、関田氏が石川台1号踏切近くを初代雪ヶ谷駅としたのは、「鉄道廃線跡を歩く VII」中の新奥沢支線の記事に掲載した、3枚の年代別比較地図から類推したのではないかと推測した。あのように並べてしまうと、確かに勘違いしてしまう可能性が生ずるのはやむを得ないが、街区パターンが現在とは異なっている場合、よく気をつけて確認しないとこのようなミスを犯しかねない。また、同じ縮尺の地形図であっても、初版が戦前のものと初版が戦後のもの(都市計画図を縮小編纂)とでは、測量方法等の違いから微妙なずれが生ずることも少なくない。

 

とはいえ、実はまったく別の典拠があって、初代雪ヶ谷駅を石川台1号踏切近くとした可能性もある。やっぱり著者に聞いてみるしかないのだろうな(苦笑)。