【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年9月24日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

田園都市株式会社が、理想的住宅地案内と共に田園都市の全貌を地図上にあらわしたものが「田園都市全図」であるが、今回も前回に引き続き、その一部分をクローズアップして見ていきたい。ターゲットは、私が地域歴史研究のやや重点を置く一つとして位置づけている「調布田園都市(多摩川台住宅地)」である。

 

田園都市全図における多摩川台住宅地付近(部分)

 

前回採り上げた洗足住宅地は、時期的に耕地整理時と重なっていたこともあって、現状とあまり変わらなかった(デフォルメされているのでそれなりのずれはたくさんあるが)。一方、多摩川台住宅地は特徴的な半円状の街路パターンもなく、これが変わるのは洗足住宅地を分譲した後となる。いくつかの案が作られたうちの一つを以下に掲げる。

 

多摩川台住宅地計画図(上を北にするため原図を回転)

 

街路パターンが大きく変わっているが、分譲地の規模は田園都市全図のそれとそれほど変わっていないことが確認できる(田園都市全図のデフォルメ具合を考慮に入れて)。駅西口の放射状道路が何といっても目を惹くが、それ以外にも現在の宝来公園にあたる部分から南側の多摩川駅方向に続く、広大な公園も興味深い。この理想的住宅地として設計されたものも現実はそのとおりとならず、実際の分譲地は以下のとおりとなる。

 

目黒蒲田電鉄田園都市部発行の多摩川台住宅地平面図(上を北にするため原図を回転)

 

様々な理由によって、理想から現実への変更が見て取れる。決定的に異なるのは現在の世田谷区方面、当時の荏原郡玉川村方面で、特に奥沢駅付近は分譲地としてはなくなってしまっている。一部は電車の車庫等に用地が充てられてはいるが、多くは失われた。その理由は少なくとも二つあげることができる。一つは、玉川全円耕地整理組合の成立とそれに伴う田園都市株式会社の買収地組み込みで、現在の大田区側(当時の荏原郡調布村)では自由に街路パターンを設計できたのだが、世田谷区側は玉川全円耕地整理組合の意向で、街路パターンが周辺の耕地整理組合にあわせるように強要された。もう一つは、昭和2年(1927年)に告示された都市計画道路(現在の環八通り)が分譲地の北側を通過することによって、これに一部をあわせざるを得なくなったことがあげられる。もともと、世田谷区側は四角形の街区が多かったが、さらにそれが増えることとなった。

 

多摩川台住宅地(調布田園都市)は、洗足住宅地(洗足田園都市)よりも広い面積を確保できたことで、特徴的な街路パターンを設計したこと。そして東京市合併時には大森区と世田谷区に分割されることになったとはいえ、3分の2程度は大森区に残ったこと。しかも特徴的な街路パターンはほとんどが大森区側に入ったことで、コミュニティとしての形は維持することができた。これは洗足住宅地と決定的に異なるもので、洗足住宅地の場合、約半分が荏原区(現 品川区)、残る4分の3(全体では8分の3)ほどが目黒区、残るものが大森区(現 大田区)と三分割されてしまい、最も広いエリアを持つ荏原区側では第二期分を合わせれば、そこそこの広さを持ってはいたが、第一期と第二期との間に他の住宅地が入り込んで飛び地のようになっていたため、一連のコミュニティとして機能しにくかったと思われる。

 

他にも公園地は大きく縮小してしまったり、西側の街区では現在の多摩川台公園や浄水場用地として組み込まれたところもある。また、放射状の道路のうち、最も重要な中央の道路が未買収地との関係でまっすぐとならなかったところがあるなど、理想と現実との間の隔たりはいくつもあった。だが、総じて洗足住宅地と比べれば、それは大きな隔たりとはならなかったとなる。

 

といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年9月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

田園都市株式会社が、理想的住宅地案内と共に田園都市の全貌を地図上にあらわしたものが「田園都市全図」であるが、今回はその一部分をクローズアップして見ていきたい。ターゲットは、私が地域歴史研究の重点の一つとして位置づけている「洗足田園都市(洗足住宅地)」である。

 

 

今とはだいぶ違うが、それでも田園調布あたりと比べれば、まだ道路パターンに類似性は見られる。また、目黒蒲田電鉄線(現 東急目黒線)は現在とほとんど変わらないので、位置関係はつかみやすい。下に示す、現在とほぼ同じ街路パターンとなった分譲地図を比較すればよりわかるだろう。

 

目黒蒲田電鉄田園都市部発行(昭和初期)の洗足住宅地位置図(上を北にするため原図を回転)

 

大正11年(1922年)といえば、田園都市株式会社にとって大きな動きがあった年である。以下に概略を示すと、

  • 3月24日 田園都市第二期線(目黒駅~大岡山駅間)と第一期線の一部(大岡山駅~多摩川駅間)、工事施行認可。
  • 3月30日 目黒駅~多摩川駅間、着工。
  • 6月(あるいは5月)某日 洗足住宅地、分譲開始(いわゆる図面販売)。
  • 7月22日 目黒蒲田電鉄株式会社発起人総会。
  • 8月2日 電灯電力供給事業認可。
  • 9月2日 目黒蒲田電鉄創立。
  • 11月某日 最初の居住者(分譲地購入者)懇親会。
  • 12月某日 洗足住宅地に送電開始。

田園都市を貫く鉄道計画が具体化し、それに伴う鉄道部門独立と武蔵電気鉄道から五島慶太及び蒲田線(多摩川駅付近~蒲田駅)の引き抜き。最初の分譲地である洗足住宅地の開発と分譲。さらには住宅地のための電気供給まで行った(こんなド田舎に送電してくれる事業者がなかったため)。洗足付近は、鉄道工事と分譲地整地工事(建前上は耕地整理事業)の真っ最中。会社体制が充実しているとはいえない状況で、これらが同時並行に進むのだから、当事者はそれこそ上へ下への大騒ぎ以上の展開だったことだろう。

 

大正11年当時の田園都市耕地整理組合地(洗足住宅地)の様子(東京横浜電鉄沿革史より)

 

洗足住宅地が分譲された際、大変好評だったというが、実際は上写真のように耕地整理・鉄道工事真っ最中に、分譲区画予定図面を見ながら(要はどんな分譲区画になるかを具体的に見ずに)購入した人が大半だった。購入者の多くは東京市内(現在の概ね千代田区、中央区、港区、文京区、台東区のほとんどに、新宿区、江東区、墨田区の一部など)に住所を持つ人たちであったが、投資目的のためか、現地確認すら行わない者も多かったようだ。

 

さて、本稿最後に洗足住宅地のプランを眺めながら、理想と現実のギャップを列挙してみよう。

  1. 住宅地の中心に6叉路となるロータリーが予定されていたが、現実は単に5叉路となった。
  2. 弁天池一帯はグラウンドとして整備予定だったが、現実は弁天池の周囲のみが公園地(のちに洗足会館)となり予定地の過半は分譲地となった。
  3. 小学校用地が確保されていたが、敷地が狭いことや住宅地が碑衾村(のち碑衾町、現 目黒区)・平塚村(のち荏原町、現 品川区)・馬込村(のち馬込町、現 大田区)の3つにまたがっていたことから、越境問題が指摘されたこと。さらに市内の名門学校に通わせた方がいいという意見もあって、これも分譲地となった。
  4. 住宅地東側が隣接する耕地整理組合と調整した結果、一部街路が変更となった。

こんなところだろうか。「田園都市全図」ではロータリーが街の中心と位置づけられていたが、現実は洗足駅が中心となっていた。一説に因れば、このロータリー(現 5叉路の小山七丁目交差点)部分に駅を設置する予定だったというが、これは第二期線(目黒~大岡山間)計画が具体化した時点で消滅しているが、これを確認できる書類等を見ていないので推量にとどめる。洗足駅付近で線路が大きく湾曲しているのは、この名残と言えなくもないが、第二期線自体も計画時は現在線よりも100メートル弱、北寄りにあったことが申請図面から確認できているので、第二期線と買収地とのかかわりで様々なプランが検討された中の一つとして可能性のみ指摘しておく。

 

そして、住宅地というよりも一つの街として完結できるように、小学校やグラウンド、公園などといった各種施設が検討されていたが、唯一、弁天池周辺以外はすべて葬られた。これは調布田園都市(多摩川台住宅地、現 田園調布)と比べれば、決定的に劣る点である。調布田園都市には、宝来公園、調布尋常高等小学校分教場(現 田園調布小学校)が計画どおり用意されたことを慮れば、これだけ見ても洗足住宅地と多摩川台住宅地との差は明らかだ。

 

──と、これ以上、続けるとタイトルの趣旨から外れていくので、今回はここまで。

師走に入り、多忙な日々が続いています。お元気ですか(苦笑)。

いえね、立場上、私はトップではありませんが、部門トップではあるので、その部門においては責任を全て引き受ける覚悟で仕事をしていますが、部下が勝手に(当然本人は勝手だとは思っていない)越権行為というより、結果として越権行為となってしまうような事が起こる場合、皆さんはどう対処しますか(一文長いね・苦笑)。

 

 

現在、様々な所からリアルタイムにデータが集まる時代に入っており、それこそデータダッシュボードが導入されて以降は、目に見える形でビジネスの挙動、ものによっては一挙一投足がわかる凄い時代になったものだと、一昔前の管理者なら嘆息しか出ないほどの様相を呈しています。しかし、それもデータの意味を知ってこそ。そのデータはどのような基準で設定され、どのように集約され、分析(解析)されているのか。ここがわからなければ、いや実態が見えるようになっていなければ、単にタコメータの類いを見て満足するだけのものになってしまうことでしょう。見える化の弊害は、わかっていないのにわかってしまう気になるということですが、それがミスリードに繋がり、場合によっては越権行為的なものに直結してしまうこともあるわけです。

 

さらに困ったことは、分かった気になっているだけなのに、本人は分かっていると思ってしまうことです。そういう人は現場を知りません。現場にいたとしても管理・庶務的な所にいるだけの人は、その業務の本質がわかりません。

 

いやいやそこまで細かいことを知らなくても良いのではないか、という意見もあるでしょう。そういう話を聞くと「嗚呼、コイツは文系指向だな」と私は嘆息します(失笑)。今や、ビジネスは流れとか大きなもの(自社だけではどうにもならないものが圧倒的に多い)の中で、どう立ち位置を示すかというような大局的な判断が求められるものであり、そこまで細かいことを知る必要はないと。それ何時の時代の話? そう思えれば合格です。今やコストカッターしか能がないヤツ(例としてはかつての日産のトップ)、財務や経理だけ明るいヤツ、社内政治(と駆け引き)が得意なヤツ、予算獲得するのが上手いヤツ(これはこれで役立ちますが)、見栄えがいいヤツ、こういう連中では乗り切れない過酷な時代に入っているともいえます。

 

そういう中、トップをフォローアップする体制(仕組み)は当然に昔からあって、トップが、というより社の判断が間違いないように進めていくようになっているはずですが、その主役である取締役会において、他部門に意見するというのはあって当然です。しかし、それが事前の予告も何もなく、唐突にそこで実態としてあがってきたとしたら・・・。

 

なぜ事前に言ってくれなかったんだ、ってなりますよね。

そう、業務の本質がわかっていれば、それは当然に越権行為になり得るということはわかるものです(例外ありますけど)。ですが、そうでない場合、まずそれが何故そう言われているか(言われなければならないか)を理解する能力がなければ、いくら説明を尽くしてもわかるものではありません。他分野への理解はもちろんですが、それ以前に文化というか発想というか、考え方というか。

 

まぁ、そういうことも話し合う中で理解を深め合うしかないので、トップである以上、やりたくなくてもやりますが、そんなこんなで今回はここまで。ふぅ。

今年は色んな事があったなぁ…。

振り返るのが早いような気もしますが、今日は12月6日。2025年もあと25日ほどで終わりです。早いですね〜。

 

さて、11月は比較的暇(ではないのですが相対的に)だったのですが、さすがに12月はそうはいきません。12月29日の仕事納めまで、フル稼働に近い日が土日も含めて続きますので、まず第一に気をつけたいのが「健康維持」です。そう、例えばインフルや風邪などに罹患してしまうとその症状だけでも辛いのに、時間を結果として浪費してしまうので、仕事量が変わらないのに時間だけが短くなる、だからさらに多忙になるという悪循環。何としても避けたいですね。

 

 

そうなると、またまたいつもの美味しいものを食べるしかないという結論。健康維持には無理をしないことに加え、美味しいものをいただくというのは当然に外すことなどできません。それは肉なのか、魚なのか、そしてイタリアンなのか、フレンチなのか、あるいは和食なのか。考えるだけで愉しくなります。

 

いやいや、今日は12月最初の土曜だけどお仕事。愉しいことだけを考えているわけにはいかないなと思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年9月18日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京都目黒区自由が丘に隣接する目黒区緑が丘。自由が丘は、自由ヶ丘学園という学校名から駅名に採用され、その後、東京府荏原郡碑衾町の大字として自由ヶ丘が正式に採用される歴史を持つ。町名(大字)改正運動やその前の駅名改称運動(衾から自由ヶ丘へ)など、劇的に盛り上がった運動があり、戦時中も自由という名を冠するのは時局に相応しくないなどの攻撃に晒されたりと、なかなかに深い歴史がある。一方、緑が丘の方は、由来も「緑が多かったから」などという安易な(失礼!)ものであることに加え、駅名の緑ヶ丘が中丸山から改称されたのは、既に東京市に合併され正式町名として目黒区緑ヶ丘となって以降のことであり、東京市に合併された際、緑ヶ丘が安易に採用された(緑が多く、自由ヶ丘の隣なので「丘」を拝借)ように思われたりもするが、事実はもちろんそうではない。

 

それを確認できる資料が、地元の新聞として1930年(昭和5年)に創刊された碑衾町報(月三回発行 一日、十日、二十日。購読料1か月20銭。一部10銭。碑衾町報社)の第四号(1930年11月10日発行)に掲載されている。この頃、碑衾町(現在の東京都目黒区の西半分)は町名改正問題(碑衾という名が読み難く新興住民から不評だったため、碑衾を改めるという一連の問題)で大きく揺れ動いており、この問題の是非が紙面を賑わせていた。そもそも碑衾町報自体が、この問題のために創刊されたと言っても過言ではないのだが、まずは当該記事を掲載し、引用してみよう。

 

区制を整理して二十三区となす

小字の改廃統一をなし

小字を区と改称

 

今回の町名改正は単に碑衾町と言ふに止らず大字を全然廃止し更に小字の改廃統一をなし、新時代に適応せる町名を附す事になつたが区は全区で二十三区にして従来の一区二区と言ふ呼び方を改称して小字名を其儘区と改名するもので従来の碑衾町大字碑文谷字月光原等と言ふが如き煩雑を避け××町鷹番区何番地と言ふ最も合理的なる命名法であるが其の区の名称は殆んど従来呼び来つたものと大差はないが池ノ上は池上町と混同される怖れがあるのでこれを廃止し田園は田園調布に間違ふ憂ひがあるので西洗足となし稲荷山は平丸と改称する事となつたが従来の一区より十区迄を今回改称される区名に示せば左の通り二十三区である

 

一区 本郷区

二区 三谷区 鷹番区

三区 清水区 門前 唐ヶ崎区

四区 月光区 東区 向原区

五区 西洗足区 原区

六区 富士見台区 八幡区

七区 大岡山区 平丸区

八区 緑ヶ岡区 中根区

九区 宮前区 自由ヶ区 氷川区

十区 大原区 芳窪区 柿ノ木坂区

引用は、現在の漢字に改めた以外は旧仮名遣いのままとしたので、以下に現代文の調子に書き下し、区名の誤りを併せて正す。

 

今回の町名改正は、単に碑衾町を対象とするにとどまらず、大字を全廃し、さらに小字の改廃を行い、新時代に適応した町名として命名することにした。区は全部で23区とし、従来の一区二区という呼び方を改称して、小字名をそのまま区と改名するものである。従来の碑衾町大字碑文谷字月光原などというような煩雑さを避け、××町鷹番区何番地という、もっとも合理的な命名法とした。区の名称は、ほとんど従来のものと大差ないが、例外として池ノ上は池上町と混同されるおそれがあるのでこれを廃止し、田園は田園調布に間違う憂いがあるので西洗足とし、さらに稲荷山は平丸と改称することとなった。従来の一区より十区までを今回改称する区名にあらわせば、次の23区となる。

 

一区 本郷区

二区 三谷区 鷹番区

三区 清水区 門前区 唐ヶ崎区

四区 月光原区 東区 向原区

五区 西洗足区 原区

六区 富士見台区 八幡区

七区 大岡山区 平丸区

八区 緑ヶ丘区 中根区

九区 宮前区 自由ヶ丘区 氷川区

十区 大原区 芳窪区 柿ノ木坂区

 

以上のことから、1930年(昭和5年)11月時点で、既に自由ヶ丘と並んで緑ヶ丘が確認でき、その前年に自由ヶ丘駅が誕生(九品仏駅より改称)していることを考え合わせれば、概ね同時期に緑ヶ丘という名前が公式ではないものの、誕生していることがわかる。だが、そうなると大井町線の中丸山駅が当初から緑ヶ丘駅でなかった理由(中丸山駅の開業は1929年(昭和4年)12月25日)も考えねばならないが、これは後日の宿題としたい。また、興味深いのは「田園は田園調布に間違ふ憂ひがあるので西洗足」とするくだりである。当blogでも洗足田園都市について多くをふれているように、洗足は田園都市の元祖であるにもかかわらず、1930年(昭和5年)の時点で田園調布と紛らわしいとされてしまっている。田園調布駅が調布駅から改称したのは1926年(大正15年)1月であり、わずか4年ほどでこのような心配をされているのだ。また、西洗足というのは当然対になるのは東洗足で、既にこちらは駅名として存在(東洗足駅は旗の台駅の改名前)しており、田園都市(田園)というよりも洗足の方が通りがいいことを示している。と、これ以上続けると本論が何かわからなくなってしまうので、ここでいったん止めるが、いつ頃から緑ヶ丘と呼ぶようになったかについて少なくとも1930年11月まで遡ることが可能だと示して、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年8月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

田園調布と言えば、実態はともかく高級住宅地のブランドとして名高いが、巷間よく言われることとして「田園調布と名乗っていても本当の田園調布は駅の西側の一部」とか、「田園調布本町や田園調布南はにせもの」とか、様々な話を耳にする(あるいは文で見たりする)。だが、意外にと言っては何だが、田園調布の歴史を辿っていけば「本当の田園調布」がどこを指すのかというのはあまり知られていない。そんなわけで、今回は田園調布についてエリアという視点で語っていきたい。

 

まず、現在の田園調布を町域で確認しよう。東京都外にあるエセ田園調布(モドキを含む)は論外として、田園調布は東京都大田区と同世田谷区にまたがって存在する。大田区の方は田園調布一丁目から五丁目まで、世田谷区の方は玉川田園調布一丁目と二丁目である。この町名は住居表示制度が始まる前から存在し、この一帯が東京市に編入される1932年(昭和7年)10月1日時点から、この町名は続いている。つまり、今年(2012年)で80年を数える、それなりの長い歴史を持つ町名である。

 

では、それ以前はというと公式の町名(字名)としては田園調布という名は存在しない。よって、公式には1932年(昭和7年)10月1日に誕生した町名だとなるのだが、それ以前にはまったく田園調布と呼ばれていなかったかと言えばそんなことはない。今でも駅名として存在する東急電鉄の田園調布駅は、東急電鉄の前身である目黒蒲田電鉄の調布駅が、大正15年(1926年)1月1日をもって田園調布駅に改称しており、公式の町名よりも先に駅名が先行していたのだ。

 

調布駅が田園調布駅へ、というよりも調布駅でまずかった理由は、東京府下に京王電気軌道(現 京王電鉄)に既に調布駅が先行してあり、他社線との連絡切符を交付するのに紛らわしいと言うことで改称を迫られていた。目黒蒲田電鉄の他の駅名でも、小山が武蔵小山へ、新田が武蔵新田へと同じような理由で同時代に改称されていたが、同様の武蔵調布とならなかったのはもう一方の調布駅もかつての武蔵国にあったからだと考える。よって、武蔵でない別の識別名を付加する必要があった。

 

一方、目黒蒲田電鉄の出自は、そもそも田園都市株式会社の分譲地に対する鉄道旅客輸送を実現する目的で設立されており、田園調布駅周辺は田園都市株式会社が展開する最大の分譲地エリアを誇る「多摩川台」分譲地の中心(字面の意味での中心ではない)であった。「多摩川台」としたのは、風光明媚な多摩川を南西に見下ろす絶景地であったからだが、田園都市株式会社によって先行分譲された「洗足」分譲地において、自ら、そして周辺住民から「田園都市」と名乗った(呼ばれた)ことから、「多摩川台」分譲地においても「田園都市」と名乗るようになる。だが、興味深いことに「多摩川台田園都市」とはならず「調布田園都市」となった。想像でしかないが「多摩川台田園都市」では語呂が悪く、分譲地エリアの中心にある駅名に因んで「調布田園都市」を採用したと見る。そして元祖「田園都市」も、次々と田園都市が誕生する過程で「洗足田園都市」を名乗った。

 

調布駅の周辺に展開する田園都市だから「調布田園都市」というわけだが、分譲地の住民が増えていくに従い、荏原郡調布村の人口バランスが崩れ、旧来の住民と新興住民との比率が一気に縮まっていく過程で調布村は区制を採用する。ここにいう区制とは、東京特別区とも政令指定都市における行政区とも異なる。現行の地方自治法にも残っている町村レベルでの区制である。要は人口が増えたことで、町村を区毎に分割し、各々代表を選出し村の自治を進めていくようにしたのだった。大正14年(1925年)8月、調布村は区制によって5区にわけられた。以下のとおりである。

  • 上沼部
  • 下沼部
  • 鵜ノ木
  • 田園調布

荏原郡調布村は、明治22年(1889年)の市制町村制によって4つの村が統合されて調布村となった。その4つの村とは、

  • 上沼部村
  • 下沼部村
  • 嶺村
  • 鵜ノ木村

である。かつての4村は調布村の大字となり、調布村としての結合よりも旧村単位、つまり大字単位でのつながりが大正時代に入っても残っていた。なので、区制採用時にもその単位は大字、つまり旧村単位であったのだが、新たに5番目の単位として田園調布が誕生した(追加された)のである。この田園調布とされた区(エリア)は田園都市株式会社の分譲エリアと完全に一致していた(この頃は荏原郡玉川村=現 世田谷区の方はまったく分譲されていなかった)。そう、調布田園都市の新興住民は完全に大字単位のつながりから外されたのである。これが田園調布という名の初出と位置づけられるのだ。

 

では、調布村は区制採用時に田園都市株式会社の分譲エリアをなぜ田園調布と名付けたのだろうか。大字(旧村)単位から分割(排除)した理由は自明だが、田園調布という区名採用は自明とは言いにくい。分譲地名は「多摩川台」であり、自称は「調布田園都市」であった。駅名もまだ調布のままである。「調布田園都市」が田園調布に最も近いが、「田園」と「調布」が倒置となった理由が判然としない。ともあれ、このように歴史を辿ってくれば、田園調布とは田園都市株式会社が分譲した多摩川台住宅地(調布田園都市)のエリアに相当することがわかる。

 

このように、初めのうちは調布村から爪弾き扱いを受けた田園調布区だが、東京市に合併される頃には東調布(荏原郡調布村は町制施行で東調布町となっていた)という名を採用しないだけでなく、沼部という由緒ある名も捨て、大字上沼部と大字下沼部のすべてが田園調布(一丁目から五丁目)と改称された。ブランドとなった田園調布という名を旧大字単位で丸ごと採用し、田園都市と無関係なところ(大半がそう)までもが田園調布となったことで、今に語られるような「とても田園調布とは思えない」という事象は、1932年(昭和7年)10月、既に80年前から発生していたのだった。なお、世田谷区の玉川田園調布は、大田区(当初は大森区)ほど田園調布エリアを拡大していない。完全に一致しているわけではないが、概ね田園都市株式会社の分譲地エリアと重なっている。

 

 

上図は、現在の田園調布エリアと田園都市株式会社が分譲した多摩川台住宅地(ただし、最末期の現多摩川駅周辺を除く)エリアを比較することを目的として作成した。赤い線内が現在の大田区田園調布一丁目~五丁目、田園調布本町、田園調布南、及び世田谷区玉川田園調布一丁目・二丁目。黄緑色の線内が多摩川台住宅地を表す。田園都市株式会社の分譲地の一部は、上図から確認できるように玉川浄水場や多摩川台公園の一部になっているところがあり、分譲地として用意されたものが必ずしも分譲されたわけではないことがわかる。

 

戦後になって、大田区の田園調布エリアは地番整理を行う。田園都市は分譲地番号を採用していたが、それは公式のものではなく地番は旧来のもの(区画整理前のもの)がそのまま残っていたため、地番は飛び番となり錯綜していた。これを改めるために地番整理(改正)と町丁目を整理し、田園調布一丁目~同七丁目へと再編された。ところが、数年後に住居表示に関する法律が成立し、新たに住居表示番号が採用されることとなった。せっかく地番整理を行ったばかりなのに、再び住居表示を行うなど愚の骨頂との批判もあったが、1970年(昭和45年)に田園調布エリアも住居表示が実施され、新たな番号が振られることになった。それどころか町名再編までも行われ、田園調布一丁目~同七丁目は、一丁目が田園調布南、二丁目が田園調布本町、三丁目が田園調布一丁目、四丁目が田園調布二丁目、五丁目が田園調布三丁目、六丁目が田園調布四丁目、七丁目が田園調布五丁目となった。混乱の極みである。しばらくの間、田園調布エリアでは郵便物の誤配が続いたという。

 

以上、田園調布についてエリアという視点から、簡単に歴史を追ってみた。住居表示では田園調布を名乗るのは一丁目から五丁目まであるが、真の田園調布エリアはと言えば、田園都市株式会社の分譲地、多摩川台住宅地、調布田園都市となるのである。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年7月15日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

池上電気鉄道の歴史において調査していて辛いのは、基本資料(史料)が少ないことにある。もちろん、正史のない西武鉄道などにも同じことが言えるわけだが、始末の悪いのは池上電気鉄道が目黒蒲田電鉄に敵対的株式買収で統制・支配され合併に至ったことから、勝者による敗者の歴史というだけでなく、史料(資料)自体も摘まみ食いされる傾向が高いことに因る。

 

今回取り上げる光明寺駅はその中の一つで、基本資料である「東京急行電鉄50年史」(以下、東急50年史)での扱いは「なかったことにされている」(歴史を記述する態度としては、資料が存在しないものは伝承等があっても否定するという見解に立つのはわかるが、鉄道忌避伝説論者のように現在的視点から「発見された資料」のみで否定する見解に持って行く態度はいかがなものかということ)のであるが、現実は単に資料の調査不足(あるいは意図的無視)に過ぎず、現実に存在していたことは戦前の基本資料の一つである「東京横浜電鉄沿革史」(以下、東横沿革史)や池上電気鉄道自身による路線図や運賃表、官報、鉄道省申請文書等の公的文書からも明らかである(下は官報大正12年(1923年)5月8日付記事より)。

 

 

とはいえ、このような経緯から自明のように、無視されるだけの理由がないわけではない。なぜなら、光明寺駅は成立時こそ何時かははっきりしているが、いつ廃止になったのかがはっきりしないからである。成立は、1923年(大正12年)5月4日の池上~雪ヶ谷間延伸開業(いわゆる第二期線開業)の際、池上~雪ヶ谷間に新規開業した駅(停車場、停留場)の一つで、

  • 池上 ~ 光明寺 ~ 末広 ~ 御嶽山前 ~ 雪ヶ谷

ということで、新たに開業した4駅の一つであることが確認できる。だが、1926年(大正15年)になって光明寺駅の存在意義が問われるような動きが現れ始める。それが慶大グラウンド前の開業である。

 

慶大グラウンド前駅は、開業時は当時の荏原郡池上村と同郡調布村の境界付近にあったが、1927年(昭和2年)の都市計画道路計画によって移転を余儀なくされた。一方、目的地である慶應義塾大学の運動場(野球場や陸上運動場等)までの道路が耕地整理によって新たに作られたことも相俟って、慶大グラウンド前駅は光明寺駅寄りに異動することになる。この結果、既存の光明寺駅と慶大グラウンド前駅の間隔は約200メートルまで接近し(これは今日の大崎広小路~五反田よりも短い)、光明寺駅の存在意義、必要性が問われるという流れとなったのだ。

 

また、池上電気鉄道は鉄道自体にも大きな変更が生じようとしていた。それは複線化工事である。池上~蒲田間開業以来、池上電気鉄道は複線で建設予定だったにもかかわらず、単線で開業、旅客運輸を行っていた。このため、鉄道省からは仮設備扱いを受け、大正年間中は本設備(複線化)になるまでの猶予期間をたびたび延期申請を行うほどだったが、高柳体制から川崎財閥系に経営体制が変わったことで、ついにこれが実現しようとしていた。これは1927年(昭和2年)中に実施され、同年7月27日に蒲田~雪ヶ谷間で複線化工事が完了、営業運転を開始した。

 

この複線化工事と慶大グラウンド前駅移転工事は密接に関係しており、複線化工事と同時に施工されている。そうなると、移転後にわずか200メートルの距離となる光明寺駅はどうなるのか。複線化対応した光明寺駅が存在したのか否かが気になるところだが、この時期、興味深い資料(史料)がある。国立公文書館にある鉄道関係資料のうち、池上電気鉄道に関する次の記事である。

  • 昭和2年8月11日 光明寺停留場廃止の件

何と、複線化完了後、二週間足らずで廃止申請が成されているのである。内容自体は閲覧した際に確認したが、単に廃止するという短い内容であり、鉄道省への提出文書であるのでその経緯であるとかはまったく記載されていない。だが、本当にここで廃止されたかどうかは疑問符が付く。理由は、この後になっても池上電気鉄道が鉄道省に提出する各種文書(例えば雪ヶ谷~桐ヶ谷間延長工事に関する申請図面とか、昭和3年以降の文書など)にも光明寺駅が存在するかのような記載があるからである。

 

もちろん、延長工事などの図面類は、実際に申請するかなり以前から作成されているのが常なので、それを最近の動向を踏まえて訂正するのが本来としつつも、なかなか励行されないこともある。推測でしかないが、慶大グラウンド前駅の移転は池上電気鉄道にとっては唐突に行われた(都市計画道路によって)ため、複線化工事と同時期に施工させたものの、その結果、光明寺駅と著しく近接することとなったので、廃止せざるを得ないという判断が働いた。だが、他の申請図面上等はそれを修正するまでには至らず、そのまま存置されたのではないか、と見る。

 

光明寺駅が1927年(昭和2年)中に廃止された証拠は、池上電気鉄道自身が作成した営業路線図にも示されている。作成時期について確実な月日までは特定できないが、本図は延伸工事が続く中に作成されたものであって、駅名を追記し易いようになっている。これを見れば、光明寺駅の入る余地はなく、どんなに遅くとも1927年(昭和2年)までには廃止されたことが確実となる(下図を見れば、慶大グラウンド前と末広 間に駅の入り込む余地はない)。

 

 

そして、この図の裏面には、

 

 

このように「来春迄には五反田駅に於て省線と連絡」云々あるように、来春とは1928年(昭和3年)を指すことから、この文章が作成された時期はその前年である1927年(昭和2年)と判断できるわけだ。

 

以上のように、どの史料(資料)のどの部分に着目するかによって、光明寺駅の存在そのものや廃止時期については揺らぎが起こる。現時点の私の見解は、以上を踏まえて次のような流れを示して、光明寺駅の変転については結論づけたい。

  • 1923年(大正12年)5月4日 第二期線(池上~雪ヶ谷間)単線開業。途中駅に光明寺駅が開設。
  • 1926年(大正15年)8月6日 池上~光明寺間に慶大グラウンド前駅開設。
  • 1927年(昭和2年)6月24日 慶大グラウンド前駅、光明寺駅寄りに異動。
  • 1927年(昭和2年)7月27日 蒲田~雪ヶ谷間、複線化工事完了。営業運転開始。光明寺駅、営業休止(状態)。
  • 1927年(昭和2年)8月11日 光明寺駅、廃止申請。

慶大グラウンド前駅の異動については複線化工事と密接に関連しているが、時期については国立公文書館の史料から6月24日と判断した(昭和2年6月24日 慶大グラウンド前停留場を停車場に変更の件)。また、光明寺駅の営業については、複線営業開始によって事実上休止されたと判断した。理由は、廃止前提でわざわざ下り線(蒲田方面)専用ホームを作らない(単線時のホームは複線営業後、上り線(雪ヶ谷方面)に転用)だろうからとの推測による。

 

また、巷間には光明寺駅が駅名改称の結果、慶大グラウンド前駅になったとする説も聞こえるが、これについては併存期間が確実に史料(資料)から確認できること。加えて、慶大グラウンド前駅が開設後、わずか1年程で移設したという事実がほとんど知られていない(私もこのことを確認したきっかけは「池上町史」にさらっと記載された短い文章から)ことがあるだろう。といったところで、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年10月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「地図で読む昭和の日本 定点観測でたどる街の風景」(今尾恵介 著、白水社 発行)という書籍が先月下旬に発売された。著者の今尾恵介氏は、この手のジャンルの本を数多く執筆しているが「比較的」誤りの少ない著者だという認識がある。しかし、もともとこの方は地図趣味や鉄道趣味からの派生で地域歴史を語っているに過ぎず、基礎的な知識(歴史分野)に欠けている感があることに加え、東京多摩地域周辺の方のようで、多摩地域と東京・神奈川周辺、そして他地域との知識のムラ(斑)が目立つ。よって、エッセイとして楽しむ分には問題はないが、他の地方(ジャンル)に踏み込んでいくとたちまち馬脚を表してしまうため、鵜呑み厳禁となる。調べはそれなりに行っていることは、誤りが「比較的」少ないことで裏書きできるが、それを判定(執筆)するための知識ベースが貧弱なため、何を言いたいんだろう?と感ずることが他の書籍にもよく見られる(端的に言えば「説明の上滑り」)。とはいえ、誰でも得手不得手があってそんなことは自明なのだが、得意分野で成功してしまうとその周辺分野まで仕事を依頼され、それがフリーの立場であれば仕事の選り好みなどできるはずもなく、結果、こうなってしまうのかもしれない。

(本書「はじめに」に著者の言い訳として「それぞれの地形図から読み取れる情報は無数にある。もちろん私が見逃しているものも多いはずで、特に読者の地元の章では物足りない部分があることだろう。その場合は読者諸賢がさらに精緻に地域史を発掘していただくための「たたき台」として利用いただければ幸いである。」とある。2,000円弱出して売っている書籍でこれはないだろうと思うが、そもそもWeb連載だったものであるので著者に対して言い過ぎとなってしまうか。)

 

 

と前書きが長くなったが、本書は著者の得意な地域のみならず、全国に手を広げたものとなっているため、どうしても上述のように感じてしまう。そして、本書は白水社のWebページで連載されていたものを書籍化しているため、本書はまったくのモノクロであるにもかかわらず、カラーを前提とした本文説明が残ってしまっている点も残念なところ(直しているところもあるので見落としだろうが)。

 

では、私が得意とするところ──池上電気鉄道かかわり──でもある本書34ページからの「日本一の町──荏原町」で気になる点を列挙していこう。

本書35ページ

「東京市の旧一五区を取り囲む五郡、時計回りに荏原郡、豊多摩郡、北豊島郡、南足立郡、南葛飾郡の各町村では人口が急増していたが、なかでも人口増加率が八二町村中で最大だったのが荏原郡平塚村、後の荏原町であった。」

(本文中、荏原郡平塚村の「平塚」に「ひらか」、後の荏原町の「荏原」に「えばら」とルビがふられている。)

さて、ここでの注目は本文そのものではなく、あえてルビをふった箇所にある。荏原郡平塚村、にわざわざ仮名で「ひらづか」としているのだ。「ひらか」ではなく「ひらか」が正しいのか。そもそも、この地にあった平塚とは、今から約960年程前に新羅三郎 源義光が後三年の役鎮圧の帰途、この付近で野営していた際、夜盗の襲撃を受け多くの兵を失い、ここで死亡した兵を地元民が哀れんで葬ったのが平塚と称される塚だったという伝承に基づく。これを平塚(ひらづか)といい、江戸期以前からの地名として継承されてきたものが、1889年(明治22年)の市制町村制施行の際、戸越村、下蛇窪村、上蛇窪村、中延村、小山村及び谷山村飛地を合併して成立した村名に採用され、広域地名化した。こう見ると、読み方を「ひらづか」としたのが正しいと思えるが、同時代資料(例えば「警視庁東京府広報号外 明治22年4月11日付」)を見ると、しっかり「ひらつか」と仮名がふられている。つまり、「ひらづか」に由来はするが、読み方は「ひらつか」だというわけである。

 

また、間接的証拠として平塚に由来する平塚橋(交差点名やバス停名等に残る)の読み方も「ひらづかばし」ではなく「ひらつかばし」である。特にバス停名は旧来の読み方が保存されることが多いので、平塚橋の読みは「ひらつかばし」とするのが妥当だろう。おそらく著者は、平塚村の由来となった「平塚(ひらづか)伝説」を承知していて、これが由来となったのだからきっと村名も「ひらづかむら」だと考えたに違いない。だからこそわざわざ「ひらづか」とルビをふったのだろうが、却って蛇足となってしまったわけだ。

 

だが、現実は単純ではない。たとえ地元でそのように読むのが正しいのだとしても、巷間で定着したものがそのまま採用されることは珍しいことではない。平塚と言えば、やはり東海道の宿場町の一つである平塚がメジャーであるが、この読み方をそのまま荏原郡平塚村にあててしまうことはありがちだ。ということで、せっかくふったルビではあるが、蛇足であったとして次に進もう。

本書35, 38ページ

「村名の平塚は図の左上に見える大字荏原の字名に由来するが、ここは江戸時代から東海道のバイパスとして機能していた中原街道(図の左上)に沿った街村で、この道が品川用水を渡るのが平塚橋である。」

まず、35, 38ページとページ数が飛んでいる理由は、36~37ページに地図が入っているためで、一文として読みにくい構成となっているからか、明らかにおかしな記述がそのまま残されている(Web連載時からこのままであったなら、著者の誤認も甚だしいとなるが)。どこがおかしいかというと「図の左上に見える大字荏原の字名に由来するが」というところで、荏原郡平塚村に大字荏原など存在しない。平塚村の大字は、先に平塚村成立のところでふれた旧5村(飛地を除く)がそのまま平塚村の大字となっており、

  • 戸越村 → 大字戸越
  • 下蛇窪村 → 大字下蛇窪
  • 上蛇窪村 → 大字上蛇窪
  • 中延村 → 大字中延
  • 小山村 → 大字小山
  • 谷山村飛地 → 大字中延

であるので、郡名としての荏原を一村の大字名として採用してなどいない。よって正しくは、「図の左上に見える大字中延の字名に由来するが」となる。

本書42ページ

「他の区で単独区制の例はないが、やはり一町だけで人口一三万人を超える人口が決め手となったのだろう。」

これも知識不足を露呈するところ。調べればわかることだが、調べるきっかけがなければ(つまり前提とする知識ベースがなければ)調べるという行為すらままならない。本文だけ抜き書きしてしまうと意味不明なので、ここでいう単独区制の意味するところは、1932年(昭和7年)のいわゆる大東京市成立時に新たに誕生した東京市の20区について、単独町村で1区を形成したことをいう(なので区制という言い方そのものがナンセンスなのだが)。1932年、新たに誕生した20区を構成した町村は、

  • 品川区 = 品川町 + 大崎町 + 大井町
  • 目黒区 = 目黒町 + 碑衾町
  • 荏原区 = 荏原町
  • 大森区 = 馬込町 + 東調布町 + 池上町 + 入新井町 + 大森町
  • 蒲田区 = 蒲田町 + 六郷町 + 矢口町 + 羽田町 
  • 世田谷区(世田ヶ谷区) = 世田ヶ谷町 + 松澤村 + 玉川村 + 駒澤町
  • 渋谷区 = 渋谷町 + 代々幡町 + 千駄ヶ谷町
  • 淀橋区 = 大久保町 + 戸塚町 + 落合町 + 淀橋町
  • 中野区 = 中野町 + 野方町
  • 杉並区 = 和田堀町 + 杉並町 + 井荻町 + 高井戸町
  • 豊島区 = 巣鴨町 + 西巣鴨町 + 高田町 + 長崎町
  • 瀧野川区 = 瀧野川町
  • 荒川区 = 南千住町 + 三河島町 + 尾久町 + 日暮里町
  • 王子区 = 王子町 + 岩淵町
  • 板橋区 = 志村 + 板橋町 + 中新井村 + 上板橋村 + 練馬町 + 赤塚村 + 上練馬村 + 石神井村 + 大泉村
  • 足立区 = 千住町 + 西新井町 + 江北村 + 舎人村 + 梅島町 + 綾瀬村 + 東淵江村 + 花畑村 + 伊興村 + 淵江村
  • 向島区 = 吾嬬町 + 隅田町 + 寺島町
  • 城東区 = 亀戸町 + 大島町 + 砂町
  • 葛飾区 = 金町 + 水元村 + 新宿町 + 奥戸町 + 本田町 + 亀青村 + 南綾瀬町
  • 江戸川区 = 小松川町 + 松江町 + 葛西村 + 瑞江村 + 鹿本村 + 篠崎村 + 小岩町

であり、荏原町以外に瀧野川町が単独で1区を構成していることがわかる。よって、「他の区で単独区制の例はないが、」というところが事実誤認である。

 

まだまだ他にも気になるところはあるが、確実におかしいと感ずるのは以上3点である。著者は、東京地方はどちらかと言えば得意なジャンルに入る方だと考えるが、それでもこのレベルであり、著者の得意としない他の地域に至っては「はじめに」で言い逃れせざるを得ないということなのだろう。それでも私は、本書の著者は誤りが少なく、丹念にお調べになっている方だと敬服している。要は、今尾恵介氏をもってしても地域歴史というのは扱いが難しく、他の著者が誤りだらけに見えてしまうのも無理からぬこと。いくら肩書きは立派なものをお持ちだとしても、この手の話は鵜呑みは厳禁だとつくづく思わずにはいられないとしつつ、今回はここまで。

2025年も、とうとう残すところ1か月となってしまいました。

いつも申し上げていることですが、加齢と共に年月が速く(早く)感ずるのは自明のこと(5歳児にとって1年は5分の1ですが、50歳にとっては1年はわずか50分の1)なので、いちいち驚きはしませんが、それでも嘆くことはあります。確実に人生の折り返しを過ぎているはずなので(人生100年というウソに騙されている人を除く)、残りの人生をどう愉しく過ごすかということを重点に置きつつ、無理をせず、その日その日が愉しければそれでいいという感じでしょうか。

 

 

厚労省の人口動態統計を見れば(マスコミのフィルタを通さず、自分の目でご覧になることを強くオススメ)わかるように、加齢と共にリスクは増していきます。ただ、これは圧倒的に個人差が大きく、遺伝子レベルというだけでなく、生活習慣や仕事、社会とのかかわりなど、様々な要因によって変動します。そして、事故や疾病。思いがけずといいますが、これも人生においては避けられないものです(運の良い方を除く)。人口動態統計にはこういったデータ(不慮の事故みたいな感じで)も掲載されているので、現実を知るには素晴らしい統計だと思いますね。

 

さて、12月です。あれこれ先のことを「考え過ぎても」仕方がないことです。何か毎回毎回同じことを繰り返してますが(またかよ)、愉しく過ごせればそれでいい。そんなことを月頭に考えながら、多忙を上手くやり過ごせればいいなとも思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2012年11月12日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、前回と同時期の帝都電鉄の路線図を眺めていこう。

 

 

「高速線から帝都沿線へ」と書かれているのは、東京高速鉄道(現 東京メトロ銀座線の渋谷~新橋間を開業させた鉄道会社)との通し切符を利用することで、都心まで出られることをアピールしているものだが、相互直通ではないので、現在と同様に渋谷駅でそれなりの距離を歩いて乗換える手間はある。通し切符による利便性を強調しているが、今日的視点ではいったいどこが便利なんだ?と思うかもしれない。今ではPASMOやSuicaを代表するICカードパスによって、チャージさえしておけば自動改札で手間いらずだが、少し前の時代ではICカードなんかなかったし、それより前は自動改札なんかなかったし、さらに前は自動券売機もなかった。そうなのだ。切符は窓口で対面販売で購入し、改札で切符に切り込みを入れ、他社乗り換えの場合はわざわざ切符を買い直さなければならない。それが通し切符であれば、買う手間を一回省略できるというわけである。

 

ということで、通し切符の利便性が強調されているわけだが、続いて路線図の各駅を見てみると、さすが東京圏では最後発に近い帝都電鉄(開業は1933年=昭和8年)であるので、駅の異動は少ない。図から列挙すると、

  • 渋谷
  • 神泉
  • 一高前
  • 駒場
  • 池ノ上
  • 下北沢
  • 代田二丁目
  • 東松原
  • 明大前
  • 永福町
  • 西永福
  • 浜田山
  • 高井戸
  • 富士見ヶ丘
  • 久我山
  • 三鷹台
  • 井ノ頭公園
  • 吉祥寺

現在と異なるのは、一高前と駒場が統合されて駒場東大前となったこと、代田二丁目が新代田に改称、井ノ頭公園が井の頭公園に改称されただけと異動は少ない。また、急行停車駅が永福町と井ノ頭公園といずれも他社線乗換え駅でない点も興味深い(起終点を除く)。

 

他にも興味深い点はあるが、今回は取り急ぎここまで。