【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年7月6日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は、一枚の写真ならぬ一枚のパンフレット(ちらし)。

 

 

10月12日、といえば池上本門寺お会式で、江戸期より多くの信徒達を集めてきたが、それは明治~昭和(平成)においても同様で、いかに参詣客を確保するのかが近隣交通機関の課題でもあった。実際、池上電気鉄道は、この参詣客をあてにしてスタートしたようなものだし、目黒蒲田電鉄も本門寺道駅という名前だけ拝借したような駅をつくった(参考「東急目蒲線(現 東急多摩川線)の本門寺道(道塚)駅の場所はどこなのか!? 前編」ほか)。

 

で、このパンフレット。発行元は、目蒲・東横電車とあるように、目黒蒲田電鉄と東京横浜電鉄で両社は形態は別会社だったが、経営陣はまったく同じで事実上同じ会社といえる。描かれる路線図も別会社とは見えない。発行時期は、池上電気鉄道合併前で「府立高等」と見えることから、昭和8年(1933年)10月前後に出されたものと思われる。

 

さてさて、面白いのは池上本門寺の最寄り駅が、このパンフレットによれば「下丸子」駅だということである。せっかくそのためにつくった本門寺道駅ではないというのも何だが、わざわざ下丸子駅から乗合自動車(バス)に乗り換えてくれと言うのである。「池上本門寺お会式に楽に安く行くには」と言いながら、これはないだろうさすがにと思うのだ。とはいえ、これだけ見れば運賃大割引だとあるし、ここに書かれた運賃を見れば楽かどうかはわからないが、安いと言うことではあるのだろう。

 

このようなパンフレットも池上電気鉄道を合併して以降は、最寄り駅は池上駅としているあたり、やはり目黒蒲田電鉄にとって池上電気鉄道は胃の中にいる悪虫的な存在だったのだな、と思わずにはいられない。このパンフレット一つ見てもそう感ずるのであった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年7月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

なかなか時間がとれないため、コメントを頂戴しておきながら放置状態で恐縮です。と、お詫びしつつ、今回は一枚の(古)写真。「東京横浜電鉄沿革史」から転載したコレである。

 

 

撮影地点は、住所でいえば東京都目黒区洗足二丁目25番。現在の東急目黒線洗足駅前に昭和初期まで存在した、田園都市株式会社本社の建物である。田園都市株式会社は、当Blogをご覧いただいている方には言わずもがなかもしれないが、簡単に言えば現在の東急電鉄の前身、というよりは母胎的な存在で、すべてはここから始まったと言うべき会社である。

 

洗足田園都市区域に存在した田園都市株式会社本社は、言うまでもなく分譲地の中に本社を用意することで、分譲地の信用を高めるほか、販売そのものにも大きく貢献したのはもちろんである。いわば、本社機能以上に分譲地販売の最前線という位置づけと言っていいものだろう。

 

写真を見れば、右寄りに正門があり、さらに右端には大きな分譲地地図が見える。中央には「洗足池」と書かれた看板があり、ここが洗足池への最寄りであるとの主張と共に、洗足田園都市の由来が洗足池に近いからという主張にも読める(実際には池上電気鉄道が洗足池駅を開業した時点でそうではなくなるが、その前までは確かに最寄り駅だった)。

 

この本社屋は、大正12年(1923年)に完成し、目黒蒲田電鉄開業直後であったが、洗足田園都市の分譲が終盤を迎えた頃に取り壊され(移築されたという話があるが未確認)、商店街区画として分譲されてしまい、現在もその細区画がほぼそのまま残るが、この間わずかに10年足らず。この建物が取り壊される以前、田園都市株式会社は子会社であったはずの目黒蒲田電鉄に吸収合併(形の上では対等)されて既になし。役目を果たした、とされた本社屋の運命はこの時点で定まっていたとなるだろうか。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月7日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

作尻架道橋とは、JR東海道本線(京浜東北線)の大森駅~蒲田駅間にある架道橋である。場所は、東京都大田区大森西一丁目12番と同19番の境に位置する。この区間は、我が国最初の鉄道として明治初期に建設されたもので、この作尻架道橋のある付近もそれに含まれる由緒ある路線であるが、ここは水路(小河川)が流れており、鉄道建設当初から橋が架けられていた。しかし、架道橋ではなく河川を跨ぐ橋、跨線橋だったのである。

 

 

その後、大正時代に入って耕地整理組合による耕地整理(区画整理)が進み、この付近も道路が縦横に作られることとなり、水路に平行する線路をくぐる歩道が用意された。これが架道橋の始まりとなるが、戦後になってこの水路を暗渠化した際、自動車も通行可能な道路となり、名実共に架道橋となった。これが作尻架道橋というわけである。

 

ご存じの方はご存じのように、鉄道が市街化よりも先行して敷設されている場合、鉄道を挟んだ両地域は近くて遠い存在となる。ここ大森駅~蒲田駅間もご多分に漏れず、鉄道によって東西交通は分断され、現在でも踏切無しで東西交通が確保されている自動車も通行可能な場所は、わずかに5か所しかない。その重要な要衝の一つが、ここ作尻架道橋なのだ。

 

 

しかも、ここはわずかに1.7メートル制限。つまり、普通乗用車でもぎりぎりでトラックはおろか、若干高い自動車でもアウトである。そう、ここは抜け道としても有用な場所なのである(かつては一方通行でなかったが、歩道を拡幅したことで一方通行となった)。

 

それにしても作尻という名前。何に由来しているのだろう。調べてみればわかるが、「作尻」という地名は江戸期以降で見ても見当たらない。似たものとしては、荏原郡新井宿村の小名として「沢尻」というものがあり、これに関連することは容易に気付く。そして明治初期の地租改正によって、現在の東京都大田区中央三丁目あたりは「河原作」という小字名を与えられている。「沢尻」は、公式の地名としては地租改正時に小字名として継承されなかったが、昭和初期までその名は地域の間では残っていた。もうおわかりだろう。「作尻」とは「河原作」の「作」と「沢尻」の「尻」を合わせた、新旧の合成名なのである。ちなみに「沢尻」とは、この地域は「沢田」という名称(公式地名として明治以降採用されていないが、地域では今も根付いている)で、その南西境にあたる場所、つまり「尻」に比喩される場所を指したことによる。

 

とはいえ「作尻」というのは、尻を作るみたいな印象を字面で与えてしまうためか、どうしても揶揄されやすいようでそれがいたずら書きにも表れている。不憫なものだと感じつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

従来の定説が覆されて、今ではそれが邪説の一つになる。こういう事例は枚挙に暇がないが、私が若き日に学習した物理学の世界と、現在興味を持っている地域歴史研究のような世界とでは意味合いが大きく異なる。

 

物理学の世界では、19世紀までは自明とされていた「エーテル」の存在が否定されたことが、20世紀双璧といわれる「相対性理論」と「量子力学」につながったが、これは「理論」だけでなく「実験」及び「検証」によって明らかにされている。だが、歴史というものは、同じように見える事象であっても背景が異なるなどまったく二度と同じ事象は再現されず、しかも見方、立場によってまったく異なるものとなる。いわゆる「認識」の差が大きな違いのように見えてしまうのである。

 

なので、過去の歴史を語ると言うことは、どういう問題意識を持ち、どのような視点に立ってそれが論ぜられるかを明らかにしておかなければ、なかなか理解を得にくい。また、それを受け取る側も狭視点だったりすると、そもそも受け入られることもない。しかし、それを客観的事象にまで引き上げることができるもの。それこそが「歴史資料」の存在である(無論、「解釈」という新たな差異を生むことも多いが)。

 

と、前振りが長くなったが、今回示す「歴史資料」はよく知られた国の重要文化財にも指定されている「東京高崎間鉄道線路図」である。

 

 

本図は横長(370 mm x 1,240 mm)なので、全体を載せると肝心なところが見えにくくなってしまうことから、左側から4分の1ほどにとどめた。実際は、サイズを示したように思いっきり横長である。

 

 

拡大してみると、図左側に見える「品川ステーション」から右側に伸びる計画線が、現在のJR山手線にあたり、線の途中にある区切り線は1マイル毎に入れられているもので、目黒不動あたりが品川ステーションから3マイル、単に「ステーション」と記されている渋谷ステーション予定地付近が同5マイルとなる。そして、この計画線に途中まで平行する青い線が目黒川である。

 

さぁ、もうお気付きの方はおわかりだろう。渋谷ステーション予定地から下渋谷村方向の台地部を通り、火薬庫(現在は防衛省関連施設が集積)付近で目黒川を越え、目黒不動近くを通り、しばらく目黒川沿いの低地を抜け、官線付近で大きく曲線を描き、品川ステーションに入る、という経路は「目黒駅追い上げ」説を裏付けるものと言えるのだ。

 

 

では、比較しやすいように北を上として本図を回転させてみよう。同じく比較しやすいように新宿駅付近から掲載したので、計画線と現在のJR山手線とを見比べれば、その差がよくわかるだろう。ただ、本図が提出された明治14年(1881年)年12月23日から、明治18年(1885年)3月1日に品川ステーション~赤羽ステーション間が開業するまでの3年半弱の間に、全体計画に影響を及ぼす変更がなされた。それが、本図には記載されていない上野までの延長線である。

 

明治15年(1882年)7月18日、日本鉄道会社は株主総会で上野~川口間の鉄道敷設を決議し、同年8月3日に当時の監督官庁である工部省に申請した。官線に接続することを目指したが、地形が複雑であることや沿線予定地からの様々な意見等から、建設区間が短く地形も複雑でない(あくまで相対的に)上野を起点と変更したのである。無論、官線接続を諦めたわけではなく、あくまで本線を上野方面とし、品川ステーションへの接続は支線という扱いとした。この結果、本線としての上野~熊谷間を先行建設し、明治16年(1883年)7月28日に開業式を挙行、仮営業を開始したのだった。

 

そして、仮開業から約5か月を経た明治17年(1884年)1月、ようやく支線と位置づけられた品川~新宿間及び新宿~川口(岩淵)間の鉄道建設工事に着手。先にふれたように、明治18年(1885年)3月1日に開業。品川~赤羽間に、駅は本計画図のとおり渋谷、新宿、板橋に加え、本線との分岐駅として赤羽ステーションが設置された。さらに、同年3月16日とそれほど期間を置かずに目黒ステーションと目白ステーションが開業する。この遅れは、単に開業日に工事が間に合わなかったからとされる。

 

というわけで、簡単に流れを振り返ってみたが、ポイントは当初計画から本線を品川から上野までのルートに変更し、その後、明治17年(1884年)1月の工事開始まで1年半近くの間、品川までの計画がほとんど進捗しないことにある。そして着工時には、ルートは本図に示されたものからほぼ現在のルートに変わっている。つまり、渋谷からすぐに台地部を南に突っ切るのではなく、そのまま直線に南東方向に台地部を進み、火薬庫の東側(図では左側)を通過、永峰町の永と峯の字の間あたりを貫き、大崎村と書かれている辺りで目黒川平坦部に抜け、そのまま計画線につながる形となったのだ。

 

この計画変更が、目黒駅追い上げ説の誕生につながっている。そして、明治末期~大正・昭和初期に編まれた地域の歴史書的なものに登場する座談会などでは、目黒村を通過するはずだった計画が目黒村の地主らの反対で、現在の路線になったという鉄道忌避伝説の一つとして語られ、今ではそれは伝説であって根拠がないと否定されている。地形的に現在線は妥当であって、工事技術等からもそれ以外の選択肢がないように書かれているものもある。また、反対の陳情なども見つかっていないということも否定の要件として加えられてもいる。

 

だが、果たしてそうなのだろうか。反対が東京府や工部省、日本鉄道会社などに公式になかった(後世の人が見つけられなかった)からといって、それで反対がないと言えるのだろうか。学問的立場では、証拠のないものは存在しないということはわかる。しかし、わざわざ自社の都合の悪いことを残したりするものなのだろうか。また、公式見解と事実というものが同じだとは限らないことは、私自身、企業人として常に体験していることでもある(例えば、株主総会等で説明する内容「建前」と、真の意図「企業秘密」は同じですか?)。さらに重要人物同士の会談で、鉄板と思われていた計画がひっくり返ることも体験している。真相は闇でも、噂だけは広がり、それが真実を伝えていることも珍しくない。

 

現在の事象でさえ、適切に伝わっているかどうか何とも言えないようなものが、100年以上も前のことを「残された資料」だけで判断するのはいかがなものだろうか、と感ずる。後世の学者風情が、自らの拙い知見と思い込みだけで、当時の人たちの噂話的なものを「伝説」と断ずることに違和感を覚える。最近、地域歴史研究を進めていると、むしろこういった学者風情の説がインチキであることも多いと感ずる。もちろん、昔話がインチキであるものも多いだろうが、当時、その人達がどう感じていたかを聞く(見る)ことの方がよほど価値があると思う。

 

そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年8月31日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

「「郡分合ニ関スル府県地図」(東京府)に見る東京の繁華地」に示した東京府の範囲は、郡部も含めて今日のいわゆる東京23区の範囲よりも狭い。明治初期の混乱期を過ぎて、明治11年(1878年)7月22日制定の郡区町村編制法によって、巨大な多摩郡は4つ(東西南北)に分割され、東京府には東多摩郡(明治29年(1896年)4月1日に南豊島郡と合併し豊多摩郡となる)が所属、残る南多摩郡、西多摩郡、北多摩郡は神奈川県に属した。

 

 

というわけで、「郡分合ニ関スル府県地図」の神奈川県版である。この頃の神奈川県は、おおよそ北半分が武蔵国の一部、南半分が相模国で構成されており、南・西・北の3つの多摩郡(いわゆる三多摩という呼称はここに由来)は神奈川県に属していることが確認できよう。ちなみにまだ市はなく、すべてが郡に属している。

 

 

現在の横浜市、川崎市あたりを中心に拡大すると、武蔵・相模の国境が現在の東京都と神奈川県との境に位置し、現 町田市の南端からの国境は横浜市の中に埋没してしまっていることが確認できる。興味深いのは、最近(でもないか)誕生した横浜市都筑区の区役所の場所と、本図に示される郡役所の場所(都田)があまり変わらない位置にあるということ。時代は変われど、そうそう行政中心地は変わりにくいということか…。

 

まだまだ気になることは多いが、今回はここまで。8月中には新奥沢線関連ネタを終わらせるつもりが終わらず、もう少し続きそうなため、お茶を濁してみた。あ、そうそう。神奈川県に属していたいわゆる三多摩が、東京府に管轄替えとなったのは明治26年(1893年)4月1日であった。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2010年8月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

本図(部分)はその名も「郡分合ニ関スル府県地図」という厳めしい名の地図群を構成する一つ、東京府を表わしたものである。作図年は、1891年(明治24年)の第2回帝国議会に提出された図ということなので、約120年ほど前のものとなる。

 

 

図名からわかるように、本図は府県に所属する郡を分合する案を示したもので、東京府においては確認できるように南豊島郡と東多摩郡を統合して新たな南豊島郡(赤文字)を作る案となっている。

 

本図では、東京府下にある5郡の郡役所所在地と郡内の有力地域も記載されている。

  • 荏原郡………郡役所(品川)・有力地域(大森)
  • 南豊島郡……郡役所(淀橋)・有力地域(新宿、中野)
  • 北豊島郡……郡役所(板橋)・有力地域(王子)
  • 南足立郡……郡役所(千住)
  • 南葛飾郡……郡役所(小松川)・有力地域(新宿)

なお、郡役所設置地域はもちろん有力地域でもあるので、本図に名が記載された地域はいずれも繁華な地域(相対的に)であったとなるだろう。

 

で、いわゆる副都心とされる新宿、池袋、渋谷のうち、約120年前にそれなりの繁華な所は新宿だけということがわかる。本図には五街道も示されているが、一部の例外を除けば、すべてこれら街道沿いにあり、都市構造が江戸期以来あまり変わっていないことも伺える。これが変わっていくのは、五街道に代わる新たな交通手段の出現によって、ということだろう。

 

そんなことを思いつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月21日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

東京都世田谷区成城といえば、世田谷区というだけでなく東京都内においても屈指の住宅街であるが、昭和4年(1929年)4月の成城学園(成城第二中学校)移転によって、というよりは成城学園校長 小原國芳氏によって開発された「町」である(実際に成城学園が分譲したのは駅の北側部分のみで、南側は多摩の大地主 鈴木久弥氏の土地分譲)。昭和7年(1932年)10月に、東京市は周辺5郡82町村を合併し、35区からなるいわゆる大東京の誕生となるが、この時、成城はまだ東京市(世田谷区)には入っていなかった。昭和11年(1936年)10月になってようやく東京市世田谷区に編入され、晴れて東京市世田谷区成城町となった(この地域が編入する・しないでもめもめにもめたのも今は昔)。

 

それから8年3か月後の昭和20年(1945年)1月に撮影されたのが、この写真である。

 

 

成城学園前駅を中心とする住宅街と隣駅祖師ヶ谷大蔵駅付近に住宅が見られるが、それ以外はまだ一面の畑や雑木林が目立っている。ちなみにゼンリンの電子地図で、ほぼ同じ場所を示せば以下のとおり。

 

 

このあたりは幸いにして、米軍による空襲は受けなかったようで、この写真撮影後に大きな変化は見られない。もちろん、戦後は住宅が次々と増えていったり、高度経済成長やバブル経済を経て、町は大きく様変わりしているが、都市基盤は開発時から大きく変わっていないことが確認できる。やはり、最初にどう開発していくかという青写真によって、その町の運命は定まるということを隣駅との比較も含めて感じつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月14日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

ちょっとタイトル端折りすぎたか。東京府豊多摩郡渋谷町を通った武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、あるいは関東大震災前の地図に見る武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、いや、渋谷駅を避けていた武蔵電気鉄道と京浜電気鉄道の計画線、などなど。色々考えてはみたが、結構いい加減にタイトルを決めてしまった。タイトル(標題)と言えば、書き終えてから決める、書く前に決める、書いている途中で決める、と様々だが、私はこのBlogに関していえば、タイトルを決めてから内容を書くというパターンを踏襲している。かつて運営していたXWIN II Web Pageでは、開設当初はこのBlogのような感じでだらだらだったが、途中から「巻頭言」方式を採用することで、意図してタイトルにも凝るようになり、本文を構成してからそれに合った(または意表を突いた)タイトルを考えるようになった。思い起こしてみれば、当時はスクラッチでHTMLを書きまくっていたのだから、本文はもちろん体裁も考えながら構成していたので自明なのかもしれないが。

 

とまぁ、それはともかく今回のネタはこちら。以前でも採り上げた大正11年(1922年)の東京市及び周辺地図の一部分をピックアップしながら、あれこれ見ていこうという話。

 

 

場所は、現在でいえば東京都渋谷区(地図中では渋谷町)、東京都港区(地図右側)、東京都目黒区(地図中では目黒村)、東京都品川区(地図中では大崎町)にあたるが、大部分は東京府豊多摩郡渋谷町だ。左上からやや右斜め下に走る鉄道表記は現在のJR山手線、当時で言えば省線の山手線で、地図上から渋谷駅、恵比寿駅が描かれている(目黒駅はもうちょっと下で地図中には見えない)。で、注目はと言うと、赤い点線で描かれている鉄道計画線であり、まずは左下から渋谷町と目黒村の境界付近で二つに分かれている計画線。これは「武蔵」とあるように、武蔵電気鉄道の計画線である。

 

武蔵電気鉄道と言えば、地図発売(発表)時の大正11年(1922年)時点において、ちょうど五島慶太氏が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)に引き抜かれる時期であるが、この将来有望な計画線はまさに画餅でまったく建設どころではなかった。興味深いのは、二つに分岐した先で一方は麻布二ノ橋まで(当時、東京市内に乗り入れる鉄道計画は珍しい)、もう一方は新宿駅(西口側)なのだが、面白いことにこの地図を見ると渋谷駅には乗り入れずに、せっかく山手線と平行していながら途中から渋谷駅を離れてしまうのだ。

 

麻布二ノ橋方面は東京市内乗り入れなので、大正時代には東京市の反対によって建設不可であろうが、新宿駅方面はなぜ渋谷駅を避けたのだろうか。山手線との平行を避けたのか、あるいは渋谷駅への接続をよしとしなかったのか…。武蔵電気鉄道が田園都市株式会社(目黒蒲田電鉄)によって統制(株式買収)下に入り、社名を東京横浜電鉄として姉妹会社となってからは渋谷駅に乗り入れ駅を変更(新宿駅乗り入れはそのまま存置、のちに失効)したのだが、武蔵電気鉄道の時にはなぜそうだったのかという点が興味深いというわけだ。

 

そしてもう一つの注目は、右下から上方向に伸びていく赤い点線。「京浜」とあるように、何と京浜電気鉄道の計画線(青山線)である。地図には出てこないが、池上電気鉄道が五反田駅から目指す先がこの青山線への接続だった。青山線は、東京市と郡部との境を縫うように走っており、東京市内乗り入れではないので反対を受けにくかったが、品川(八ツ山)から先への乗り入れを東京地下鉄道とタッグを組むことで東京市内乗り入れを推進することとなり、その過程で意義を失った。

 

もし、京急線が品川から都心方向を目指さず、山手線の内側を平行するように走り、千駄ヶ谷駅あたりまで乗り入れていたとしたら…。

──と、そんな計画線を眺めながら、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年7月23日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

以前、目黒競馬場跡地について「目黒競馬場跡はどんなふうに分譲されたのか空から確認する」という話題をとり上げたことがあるが、今回は池上競馬場跡をとり上げてみる。目黒競馬場は、今でも「目黒記念」という中央競馬GIIレースの名前で残っているので、廃止後80年近く経った今日でも生き続けている(名前のみだが)と言えるが、こちら池上競馬場はそういった類のものはなく、ほとんど知られていないようである。

 

それもそのはず、池上競馬場は明治39年(1906年)から明治43年(1910年)の間のみ運営されたに過ぎないからだ(競馬そのものは明治41年、政府によって馬券発売禁止となり終了)。

 

池上競馬場のモニュメントは、巷間に拠れば東京都大田区池上六丁目30番にある「徳持ポニー公園」にあるようだが、もちろんこの場所に何かが残っているわけではない(調べてみないとはっきりしないが、この公園の名前は改称されて今の名前となった気がする)。では、昭和10年(1935年)頃の航空写真で確認してみよう。

 

 

真ん中あたりにうっすらと横長の楕円が見えるが、これこそがかつての池上競馬場のコース(トラック)だった跡である。肝心の「徳持ポニー公園」の場所はこの競馬場跡にはひっかかっておらず、モニュメントの説明がどうなっているかは知らないが、ポニー公園を名乗らせるのならもうちょっと場所を気にしてもよかったのではないかと思う。興味深いのは、池上競馬場が明治末期に廃止され、その後大正時代を経て昭和も10年近く経過したこの時期、つまり30年近く経った時点においてもなお跡地としてはっきりと確認できることにある。要は、耕地整理(区画整理)はされたものの、その間ずっと放置されてきた土地だということである。

 

 

それでは、ゼンリンの電子地図で現在と比較しながら、先ほどの写真に簡単な説明を付したものと比べながら注目点を確認しよう。

 

 

まず、当blogにおいては池上線から確認したくなる特性(苦笑)があるので、そこからいこう。昭和10年(1935年)当時には池上電気鉄道は既になく、目黒蒲田電鉄に合併されてしまった後なので、池上線と表記した。右上には池上駅があるが、池上駅の右側(東側)を見ると、池上線のカーブが急である(半径が小さい)ことがわかる。この当時は、まだ池上線が開業当時のまま(正確に言えば複線工事完了後)の曲線が残されており、現在の線路は航空写真では既に家が建っている(上写真でいうと池上駅と書いた駅の字の右下あたり)ことから、曲線改良工事に伴い家屋移転が行われたことが確認できる。また、この当時駅だった場所は、今の池上駅前のバスターミナルであることもわかる。この当時から、池上本門寺のお会式を考慮に入れて、池上電気鉄道他駅とは比べものにならないほどの駅前広場を確保していた池上駅だが、曲線改良工事によってさらに広い空間を確保できたこともわかるだろう。

 

次に注目は、池上線の左側(西側)の池上線と書いた線の字の下あたりから慶大運動場(慶大グラウンド)方向に斜めの道が見えるが、この道はこの一帯がまだ耕地整理(区画整理)が成されていなかった頃に池上電気鉄道が慶大運動場(野球場)までの通り道として用意したもので、このあたりに初代慶大グラウンド前駅があった。

 

まだ、第二京浜国道(当時の言い方では新京浜国道)が建設されていないので、池上線も目蒲線も高架橋などはなく地上と平面交叉となっていることも注目となるだろうか。

 

 

30年近く跡が残っていた池上競馬場も、徳持耕地整理組合による耕地整理(区画整理)と昭和10年前後からの戦争景気によって昭和19年(1944年)時点では、ご覧のようにまだ空き地は目立つものの、家屋や工場などが目立つようになり、上空からは跡地をたどることが困難となったことがわかる。わずか10年足らずの間に、新京浜国道の完成(当該区間)と両鉄道の立体交叉化、池上線の曲線改良が行われたことも確認できよう。また、目立った変化としては慶大運動場のあったところに整然と細かい建物群が見えるが、これは日中戦争中(昭和14~15年)に職工向け住宅として同潤会が分譲した調布千鳥町住宅で、工業地帯に進みつつあった当該地域に相応しい(工場勤め人向け)住宅といえるものである。

 

以上、見てきたように池上競馬場は明治末期にわずかの期間存在しただけであったが、その跡地は約30年にわたってそのまま(放置状態)であったことに驚かされる。しかも池上電気鉄道が大正11年(1922年)に開業したにもかかわらず、それから10年以上経てもこのような状況だったのだ。そこには、徳持耕地整理組合による耕地整理事業も影響したことは確かだろう(事業中は勝手に土地の売買や建物建設などができない)が、池上駅南側が比較的早い時期に住宅が建ち並ぶ様子を見るにおいては、首を傾げたくなるのもまた事実。まぁそのあたりには深入りしないでおいて、池上競馬場跡地は結構長い間残っていたのだと確認しつつ、今回はここまで。

【本記事は、かつて存在した XWIN II Weblogに2011年6月29日掲載した記事をほぼそのまま転載したものです。】

 

今回は予定を変更して(予定なんかあるの?と思われた方、正解です(苦笑))、「誤り目立つ「目で見る品川区の100年」と「目で見る大田区の100年」」のコメント欄にお寄せいただいた以下のコメント

記事ばかりでなく写真の誤りが発見されました。このページの上から二枚目の白黒写真です。「人口急増と交通網の発達」と題したページの橋梁の写真が池上線目黒川の橋の写真とされていますが、これは目蒲線の目黒川に架かる橋梁の写真です。池上線の目黒川に架かる橋梁は川の中に橋脚はありません。ご確認下さい。

を受けての検証記事をおおくりする。まずは、「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真をもう一度確認してみると、

 

 

かなり歪んで見にくいが、橋脚が手前側と奥に二つ見えるほか、確かに川の中(上)にも鉄骨が組まれていることが確認できる(三人並ぶ写真最も左側の人の後ろあたり)。では、川の上に橋脚はあったのかなかったのか。以前の当blog記事「池上電鉄時代の五反田駅近望」でもご紹介した昭和7年(1932年)撮影のこの写真から見てみよう。

 

 

目黒川改修工事後ではあるが、現在見ることができる目黒川よりも川深は浅い。左に見えるのは五反田駅で目黒川を渡る橋は大崎橋。もうちょっと右側が見えるとよかったが、注目は写真中央に見える鉄骨の橋脚の右側にある鉄筋コンクリート(RC)造に見える橋脚である。この写真では白っぽく見えるRC造の橋脚は、位置から見て五反田寄りの目黒川端にあり、これが「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真に写っているかが重要なポイントになるが、さてどう見えるだろうか。そう、まったくRC造の橋梁は見えないのだ。

 

 

続いての写真は、戦後間もない時期に撮影された五反田駅上空のもので、池上線の高架等の構造物が長い影を落としていることが確認できる。この影を見ると目黒川の上に橋脚はなく、また橋脚も二本足で鉄骨組上げでないことがわかる。さらに注目は、橋梁上(目黒川上)の線路は二股に分かれつつ、右に曲がっていく様子もわかる。さらにさらに、昭和7年(1932年)の写真でも、戦後まもなくの航空写真でも、橋梁の東側(右側)にあたる目黒川岸は船が接岸できるように低くされている。これらを「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真と比べれば、いずれもそうはなっておらず、明らかに違う場所だと思われる。

 

さらに直感で、あれが池上線の橋梁にはとても見えないと感じたのは、線路のある位置が低すぎるからである。五反田駅は、当時東洋一の地上からの高さを誇り、地面からは15メートルほどの差があり、目黒川を渡るあたりはここまで高くないにしても、それでも軽く地上から10メートルはあるはずだ。さすがに現地に行っている時間はないので、手抜きで恐縮だがGoogleストリートで確認してみた。

 

 

川の柵はおそらく160cm程度の高さなので、池上線の高さが結構高いところを走っているのがわかるが、これと「目で見る品川区の100年」70ページ掲載の写真を比べてしまうと、

 

 

う~~~ん…。低いよなぁ、これ。では、目黒線の目黒川を渡る橋を同じくGoogleストリートで確認すると、

 

 

目黒線(元 目蒲線)の橋梁は改良工事でだいぶ変わってしまったけれど、橋梁の高さはあまり変わっていないような…。どちらが近いと問われれば、池上線の方でないことは確かだろう。若干、心残りは古い時代の目蒲線が目黒川を渡る写真を探しきれなかった(時間があれば探す)ところだが、池上線でないという傍証が得られたから、それで十分かと考える。よって、疑いは晴れることなく、誤りであると結論づけるには十分な理由があり、いかに本書の70ページがとんでもない間違いだらけであることを確認しつつ、今回はここまで。