今回の地震

被災しておりました。

電気は何日か前からつきましたが、水がまだでず。終わりのないトンネルの中にいるようです。

道はかなり影響をうけており、モンハンnowをしながら、夫と毎晩毎晩うろついたあの道もこの道もかなり悲惨な状況。

本当に同じ街なんだろうか? とぼんやり思った。

 

 

避難所に逃げた1月1日の夜。

母校をうろついていて、ぽつりと夫がつぶやいた。

まだ昼寝から覚めてないんじゃないかと。

 

1月1日の15時過ぎまで夫は昼食を食べていつも通り昼寝していた。

そこからようやく目を覚まして、親戚の家に会いに行くぞ! ってことで被災した夫は。

まだ夢は続いていて、目が覚めたらいつものベッドの上でこれから親戚の家にいって。

子供は大騒ぎする中、私がビール飲んでワイワイするのをスマホいじってこれから眺めるんじゃないかって言い出して、泣きそうになった。

 

こんなことが起こるとは想定していない規模の災害に、夢ならよかったのに。

夢が終われば、お正月の続きをしてなんて頭によぎって先の見えない不安と、子供をどうしようという不安の中避難所にいた。

 

最初震度4くらいの地震がきて、友達に大丈夫か! ってやったやり取りは確認が取れたけれど、それ以降電話関係は全く繋がらず。

幸い避難訓練を何度もしていたこともあり、私の家族や親せきは無事でほっとしたものの、連絡のつかない友達。

そしてテレビの電波も一切×。

慌てて逃げたのでラジオなんかもなく、情報が一切入ってこない夜だった。

 

2日目の朝になれば、これだけひどかったんだから、救助が来るはずと思ったのに。

救助どころか、救急車の1台も来ないことがものすごく怖かった。

子供が不安にならないように親の私がいつも通りを心掛けていたけれど。

誰も来ないことが不安だった。

 

元旦ということもあり、避難所にはいつもなら考えられない人数がいた。

帰省してきた人たちだ。

赤ちゃん子供とにかく普段は街にいない数がそこにいて、避難訓練をしていた私は知っていた。

普段の住民の数を想定しているから、水が止まっているけれど、備蓄された食料や水はすぐに尽きるだろうことを……

 

道はどうなっているか全く状況がわからないなか、避難所生活では行き届かないことを感じている帰省してきた若い人が2日の朝から動きがあった。

粉ミルクなんかない、オムツもないんだもん、ここには赤ちゃんは普段家にいないような人はいれる環境じゃない。

店もこの分じゃ当分あくことはない。

2日の夜は、赤ちゃんずれや若い人がぐっと減っていたし。

子供たちと一緒にどこかに逃げられる人は、道がわからないけれどとにかくこの地から逃げ出し始めたのだ。

私の親戚ももともと4日に帰る予定だったけれど、私の祖父と退院したばかりの私の母もつれて早めに帰ろうと思うと言い出した。

他の人がいなくなるのは何とも思わなかったけれど。これにはかなりこたえた。

 

避難所の私と子供と旦那の親がいるスペースは広くなるけれど、これまで親戚がいたから、子供を預けて家の様子を見に行ったり、片付けできたところがあったから不安だった。

余震も何度もあり、親戚や母もいなくなることがすごく不安だった時に。

夫が自分は仕事で離れられないから、子供をつれて自分の姉のところに逃げたらどうか? といわれ。

旦那の母に話をして、急遽私の親戚と共に旦那のばあちゃんも連れて私たちは街から非難した。

 

私が非難するころ、なんていうか逃げられる人は前日や私が逃げる日に移動する予定のようで。

最初ボランティアをしていた動ける人が同じように親戚をたよって街をさりいなくなり避難所の高年齢化がかなりやばいことになっていた。

 

子供たちは長い車の中でいつもなら遅いだの大騒ぎなのに、すごく静かに静かに宝物のスイッチを握りしめて窓から外の様子をみて静かだった。

ラジオできいて半信半疑だった、輪島の大火災をはじめとする津波のことや富山の様子がどんどん入ってきてその規模に震えた。

 

 

数日後電気が来たとの報告をうけ、私は子供を親戚にあずけて、義母とともに自宅に戻った。

私の住んでいる地域は道路はひどいけど。大規模な倒壊の被害はかなりましだったせいか、電気がついていた。

電気がついたことで、水問題はあっても避難所よりたぶんましなのだと思う。

戻れる人は家にもどってかなり治安もよくなっていてほっとした。