医療訴訟と「科学」「医学」専門的知見など


医療訴訟に対する裁判批判は、医療側からも患者側からも相当激しい。


患者側からの批判は、「公正でない」「被害者の気持ちをわかってくれない」


医療側からの批判は「科学的でない」「医学を理解していない」


などにそれぞれ代表される。


患者からの批判は、医療に特殊なものというより、他の訴訟でも敗訴者側からよく聞かれる内容である。


それに対して、医療側の批判は、一見医療訴訟ならではのようにも思えるが、他の専門知識を要する訴訟にも共通する内容である。


ここに専門知識を要する訴訟というのは、訴訟審理並びに判決を下す際に、法律以外の問題になっている分野における専門知識がないと公正な判断が困難な訴訟のことを総称する。


いうまでもなく、医療以外にもそのような専門知識を要する訴訟は多くある。典型的には特許権などもそうである。交通事故でもブレーキ痕の付き方などは専門知識を要する。税金関係でも帳簿が読めなければならないし、左官その他の職人仕事の契約不履行が問題になれば、それぞれの仕事の専門内容の知識を要する。

専門知識を要する訴訟は多いが、そのすべてに裁判官が専門家同様の知識をその都度身につけられるかといえば、想像しただけで到底不可能である。

訴訟を進行させる上で、最低限の知識を何とか学習して裁判を進めることになる。

専門家にとっては不満が多いであろう、とりわけ敗訴した側はそうである。

しかし、「専門知識」において納得してもらうには、専門知識を要するすべての分野について、その道の専門家でかつ「公正な」判断ができると思われる人物に裁判をしてもらわなければならない。専門用語でいえば,「審判廷」である。しかしこれもあらゆる法律以外の専門知識を要する分野に,といえば不可能である。


おまけに審判は憲法上は終審裁判所にはなれない。


ここで憲法改正の話までは抜きにする。


不満な方はいるだろうが、医療裁判も、職業裁判官が裁くことを日本の法制度は前提にしている。

そのことは法の下の平等につながりはしても反することはない、と考えられている。



職業裁判官が裁く上で、医学や科学の専門知識、理解能力に、医師から見れば不満が起こるのは当然である。何故なら職業裁判官は,医学教育を受けていないし、科学にしても医師よりは理解能力が劣ることが多い、多くは文化系である。


しかし、日本の法制度は、その職業裁判官が医療も例外なく裁くことを前提にする。


その場合、最低限必要な知識が判断に不足していると裁判官が考えた場合、補助的に鑑定制度を利用する。あくまで医学的知見の補助であり、判断するのは裁判官である。

裁判官は、鑑定結果を踏まえた上で自由に判断するし、踏まえ方もその理解の範囲で十分である。


裁判は、科学的真実を解明する場でもなければ、医学論争の場でもない。

現実の医療紛争について、裁判官はその理解の範囲で、自らの法律家としての経験則に基づき、公正と考える判断を下せばよい。

自らの医学知識や、科学が苦手なことに何ら臆する必要はない。

それが日本国憲法下での裁判制度である。



もう少しだけ具体的に検討すると、過失の判断においては、ある程度専門的知見が重要になることもある。もともと、その時どういう治療をするのが標準的であるのかの理解がなければなければ、過失かどうか判断のしようがないからである。

しかし、因果関係においては救命可能性など所詮は天気予報程度で、神のみぞ知る。その時それをしていたら助かっていたかどうか、それをしなかったら死ななかったかどうか、議論するのも無駄なくらいに不正確な話である。神様以外予想し得ない未来の占い師になれというような話である。


私は、過失が明確であれば、現実に起こった事実について、他の原因で起こったと強く推定される事実がなければ責任は免れないと考えている。

もちろん相手は病人である、病気で放っておいても死ぬ可能性はある。しかし、極論すれば、人はいつかは必ず死ぬ。この点異論はない。したがって、たとえ病気が重くても、現実に過失で死亡したときよりも一瞬でも長く生きたであろう時には死亡させたことの責任を免れない、というのが最高裁判所の考え方である。

病故の能力の低さや、余命の短さは、逸失利益や慰謝料の額すなわち損害の大きさを左右するものであって、責任の有無とは別である。



医療の不確定性、ということが良くいわれる。裁判官はそれを多くは程度は変われど認識している。その上での判断である。間違うことはある。人間お互い様に。裁判官の場合、司法の独立を守る必要から、間違いに対し原則として法的制裁はない。司法の間違いは、三審制度と再審制度により担保される。これも日本国憲法の定めるところである。



医師の中には、一部ではあるが、医療を神業のように神聖なものととらえ、そもそも医療者以外から裁かれること自体に拒否反応を示す人もいる。

しかし、これも法の下の平等である。

















































世間知らず。


これはどう考えてもネガティブな意味で用いられる。しかし、多かれ少なかれ、物事秀でるためには、ある程度世間離れした学習や鍛錬が必要な側面も否定はできない。



医者は世間知らずの代表選手。

しかし、医者が世間知らずで多くの人に具体的な被害をもたらすことはそうないように思う。せいぜいその言動で誰かが気を悪くする、特に患者とその家族は、弱い立場にあるので通常以上に傷つくことはある。しかし、具体的被害とまで言えるかというと、少なくとも法的責任につながるほどのことは稀。所詮は「振る舞い」のレベルである。

特に、メスで食べる医者の場合、腕がよければ多少世間知らずで傍若無人な振る舞いがあっても世間的には許されるというか、患者にとって腕さえよければ我慢できるだろう。

弁護士の場合も、医者ほどではないと思うがたいがい自分で自覚している以上に世間知らずである。

しかしこれも多くの人に具体的な被害をもたらすかというと、疑問。せいぜい依頼人が気を悪くする程度である。

いずれも共通しているのは、それ以上に自業自得、世間知らず故自分自身が損をすることの方が圧倒的に多いと思う。

特に、医師が株や先物で損をした話、あるいは「世界に一つしかないオルゴール」のたぐいを法外な値段で買わされたという話はよく耳にする。いずれも本人の自業自得。

弁護士の場合、依頼人が呆れ果てて離れていくかもしれないが自業自得。


同じようによく言われるのが裁判官。果たして世間知らずか?

少なくともつきあいのある人は少ないので、マスコミが作った印象に思える。

裁判官はほとんどが社会経験がないまま若くして司法試験に受かり裁判官になったので社会経験がない。その意味では間違いなく世間知らず。しかし、他の職業に比べ、実体験はなくても疑似体験はありとあらゆる職業についてこなしていると言っても過言ではない。特に判事補を経験して単独の裁判官になる頃には。事件を通じ、様々な職種の話を聞き、それこそ異常体験に至るまで、通常の人がおよそ経験するはるかに多くの疑似体験をする。いわば、懺悔を聞きまくる牧師にも似ている。その意味で耳年増ではある。中には驚くほど世辞にたけた人もいる。少なくとも空気が非常に読める人は結構いて、そういう人が和解も上手く、出世もするように思える。

裁判官が世間知らずな場合、経験則が偏り裁判を受ける人が誤った判断で損害を被る。

この場合は、医者や弁護士の世間知らずよりも被害がずっと大きいと思う。


教師はというと、これまた世間知らずが多い。

教師が世間知らずだと、影響を受けやすい年齢の未来を担う子ども達に被害をもたらすから、被害はより大きいかもしれない。


しかし、世間知らずな政治家も多い。松下政経塾というのがある。特にその塾について詳しいとか、何か好き嫌いがあるわけではない。しかし、その塾を出てほとんど社会での勤労経験がない政治家が結構いるようだ。

あるいは、誰かの二世で、生まれたときから政治家になるべく育てられた政治家。伝統芸能ならそれでも良い、本人と家族はともかく国民は被害を被らない。

私は、政治家こそ世間を知っていてほしい。少なくとも勤労経験は持っていてほしい。ある意味他のどの職業よりも、世間知らずであってもらっては困る。世間知らずなままでは、国民の側に立てないと思う。

全国民が迷惑を受ける世間知らずは一部の政治家ではないか、と考えている。









冤罪と合併症


 合併症ってそもそもなんぞや。なんともちんけな日本語に思えてならない。


 合併症というのは、何かの病気に合併して何かの困った症状が生まれることかな、と文字からは想像できる。

 糖尿病の患者の足が壊死したとか、目が見えなくなったとか。


 それとは別に明らかに医原性の事故。たとえば未破裂脳動脈瘤の手術で動脈瘤が破裂し、くも膜下出血。あるいは外科手術後の縫合不全。ERCP後膵炎など。後者を同じ「合併症」という言葉でくくる根拠がどうも理解できない。

 

 後者の場合、不幸な結果であるが、医療行為の不確実性故、確実には避けられず、統計的に何例にいくつかは発症する。たまたまそれに当たったが不幸で、誰の責任でもない。


 冤罪を考えるとき、似たものを感じる。私の感覚が変わっているのかもしれないが。


 刑事裁判においては、冤罪は不幸な結果であるが、疑わしきは罰せず、無罪の推定、とはいうものの他方で犯罪者を赦してはならないという要請もあり、人が裁く中で冤罪を完全に防ぐことは不可能である。いわば不謹慎な言い方かもしれないが、刑事裁判の合併症。民事裁判での誤審も冤罪のようには報道されないが、最高裁で差し戻しになるのはいわばそのたぐい。


 合併症も冤罪も、決してほめられたことではないし、法的責任はともかく、結果に対する反省が必要なのは当然である。


 他方、法的責任は、合併症である即無責。とはいえない。合併症はあくまで医療の中での評価。法的過失の有無を評価しているわけではない。合併症は、総じて、結果は不幸であっても結果故に法的責任を問えるものではない、それは間違いない。しかし、逆に合併症である、というのは法的に無責任であることの根拠にそれ自体ではならない。あくまで具体的な事案に過失があるかないかの判断である。具体的な中身を検討すると、許し難い手抜き、過失と評価されるレベルの行為であることもある。


 冤罪も、冤罪である、という結果自体からはストレートに裁判官を非難できるものではない。もちろんほめられたことではないし、そのことによる結果の重大性に深い反省は必要だが。しかし、具体的な事案を検討すると、許し難い手抜き、経験則違反、ひどい場合は、手続き違反もある可能性があるし、その場合は、当然非難に値する。