雑誌「21世紀沖縄公論」1985年3月号の「南西航空は県民の翼たりえるか」という記事中で、当時の南西航空社長は「与那国にも将来は那覇から直行便が就航する時代が来ますよ」と記者に答えている。その頃の与那国空港発着便は石垣~与那国線だけで、機材は19人乗りDHC-6ツインオッター。
 のち機材の大型化、ジェット化があったものの路線はそのまま。1999年7月16日にボーイング737が就航したけれど、それまで64人乗りYS11Aの1日当たり2往復から1往復に減便。その結果「日帰りができなくなるなど、利便性が悪化して搭乗率も大幅に減少」(琉球新報2000.5.12朝刊)し、また地元から強い増便要請も出されていたという。
 いっぽう琉球エアーコミューター/RACのDHC-8-103が増備され、これを用いて2000年夏にJTAグループはその要請に応え、RACが石垣~与那国へ1往復就航する運びとなった。これによって以前の2往復体制に復帰、そして同時に那覇~与那国線も開設される。
 かくして運航はSWAL改めJTAグループ会社であるRACになったけれど、とうとう那覇~与那国直行便就航の時がやって来た。1985年の社長発言から15年が経った2000年7月のことである。
 
 1999年7月の石垣~与那国JTA YS11A最終日とボーイング737初日に与那国へ行けなかった私は、那覇からの直行便開設の日には必ず同島へ向かおうと思っていた。けれども、かくも早く実現かつ飛行機代が安くならない時期なので私は戸惑ってしまった。
 5月末では当該便に空席は有り、運賃は高いけど・・・行こう。私は腹を決めて、JALなんばカウンターで那覇~与那国往復航空券を買った。その運賃と大阪~那覇は全日空スカイホリデーBSプラン1泊2日コースの合計金額は、私のそれまでの人生で最も高額なものとなった。
 7月という時期なので台風が気になり、Webサイトで高気圧・低気圧の位置を日々確かめる。そしてもうひとつ気になったのは、先進国首脳会議に伴う特別便運航のために那覇空港発着定期便が遅れるのではないかということだった。
 出発前日の状況は、天気好し、遅れなし。そして2000年7月21日(金)、那覇~与那国開設の日、私は関西空港9:25発NH491便で那覇へ飛んだ。
 
 予定通り那覇着。3階RACカウンターにて私は搭乗手続きの後で質問、それはRAC DASH8便の旅客定員が路線毎に異なっていることの理由だった。
 那覇から与那国へは30、南大東33、久米島39。これは燃料の搭載量と関わりがあり、飛行距離が長くなれば燃料を多くせねばならず、そのぶん人数を減らすとのこと。南北大東路線では荷物の重さもカウンターで測ることもあるようだ。
 さて与那国行き初日初便は30席満席。客室の座席は9席空くが、これを空席待ちに充てることはせず空けたままにするという。そうしなければならないのだ。
 この「那覇~与那国線30席」とは、JALなんばカウンターで空席状況を訊いた時に判った。はてDASH8は39席あるのにどういうことだろうとAXESSを操作するスタッフと首をかしげていたのだが、結局は後述する給油施設とも関係。飛行機が定員一杯には乗せないこともあるということを知っていたものの、DASH8でもそれをするとはこの時初めて知った。
 
 サミットに伴う保安体制強化中、けれども手荷物検査では並ぶことはなく、12:08に1階28番搭乗口へ。この時点では就航行事用飾り付けなどは見られず。13:20発には早過ぎたか、それより行事をするのか。
 ここで天草エアライン初日の福岡線・熊本線デビュー計4レグ搭乗の旅客機趣味人と会い、またDASH8ですなあ。聞けば氏はRACの与論線・久米島線・奄美線デビューに乗っており、すごいの一言に尽きる。
 しばらくするとRACスタッフが法被を着て登場、CAの2人は那覇~与那国就航を記した横断幕を持っていた。その中の1人へ「月刊エアラインで拝見しました」と言うと当人は感激したもよう。それに搭乗していた趣味人氏も話に加わり、何やら楽しさが増してきた。横断幕の前で記念写真を撮れば拍手され、搭乗前なのに気分は最高潮に達する。
 
 それらスタッフに手を振られてランプバスが出る。そして機体前でもRACスタッフに迎えられJA8972機内へ。結局搭乗口前ではテープカットなどは無く、横断幕を掲げて乗客を送るのが就航行事だった。
 それより搭乗口前でのCAとのやりとりは面白すぎ、この後エアライン誌にしばしば登場する当人なれど、私はそのたびに乗客を楽しませているのだろうと誌面を見て思うのである。
 さて与那国行き885便では、コックピットに「南西航空10年のあゆみ」にも載る機長がおり、客室には社長をはじめとするRACスタッフもいる。
 私は4Cに座り、隣4Aは与那国出身の婦人で、初日初便で島へ帰るという。のち上空で戦後の八重山の話をしていたが、「夏の沖縄!」を微塵も感じさせない堅い話題だった。
 
 シートに押しつけられるような加速度を以ってDASH8は離陸滑走開始、13:32空へ。13:49にベルトサインが消えたが、DASH8にしてはここまでの時間が長く、はてさてたまたま揺れが予想されていたからか、巡航高度が高くそれに達するまで時間を要したからか。機長のアナウンスでは巡航高度は18000フィート、与那国まで距離520kmともあらば高いところまで上がるのだ。
 CAが動き出して、紙おしぼり・雑誌・キャンディサービス。そしてく就航記念品が配られ、その包の中はボールペンだった。
 客室には天草エアライン初便搭乗者を含む旅客機趣味者も数名いるようだが、あとは先述のRACスタッフと一般旅行者、ただし隣席の方のように与那国と縁の深い人たちもいるだろう。
 それら30人は賑やかかというと、実はその反対で寝ている人もいた。旅客機趣味者と思しき人も本当は普通の旅行者で、趣味者は天草エアライン初便搭乗の私たちだけかもしれない。
 
 外は好天。宮古島辺りから先島諸島を見るべく下に注目。多良間島はどこだ?飛んでいるオッターが見えるかもしれませんとCAに言い、社長に席を替わってもらい(!)、海・島の眺めを堪能する。
 特筆すべきは石垣島の眺めで、国内線なら石垣乗り継ぎだったのでこの高度から石垣島は見られなかったが、与那国直行・石垣通過によって高いところから見られるようになった。そしてこれはRAC885・886便だけから見られる眺めでもある。
 さらにCAが波照間ですよと声を掛けてくれた。おお、八重山南端の楕円形の島、波照間島。空から見れば石垣から近く感じられ、高速船で1時間もかかるとは思えないほどだ。
 
 14:41にベルトサインが灯り、高度を落としていけば岬が見え、それは与那国島の東崎。さらに西進し日本最西端西崎を回ってランウェイ08に進入、14:49着陸。YS11最終日近くに訪ねて以来の1年ぶりの与那国で、私が小さく手を叩くとCAが微笑んだ。
 JA8972から降り、私は「ご無沙汰しています」と毎回ここで世話になる空港スタッフに挨拶。ターミナル側へ回れば、到着歓迎式が始まっていた。
 エプロンにてRACスタッフたちへの花束贈呈。そして記念撮影シーンにカメラを向ける。到着口で与那国町スタッフから記念品(観光地図・町勢要覧・餅)を頂き、那覇~与那国デビューフライトは終了した。
 折り返しの石垣行き806便出発を前にターミナル内到着口前で就航セレモニーがあり、テープカット、与那国町長挨拶、RAC社長挨拶、与那国町議会議員挨拶と続いた。
 
 琉球新報2000年7月23日29面より、「約1時間半のフライトで与那国空港に到着したDHC機から、ファーストフライト目当ての全国の航空ファンらが降り立ち、盛んに写真を撮ったりしていた」・・・RAC与那国就航を報じる記事だが、これは私の話を受けた新報記者が書いたもの。
 それにしても「全国の航空ファンらが降り立ち」とは・・・このデビューフライトに箔が着くような表現だ。実際は神奈川と大阪の2人だけかもしれず、記者は私が読んで笑うことを想定しながら書いたのであろう。
 なお、この就航の様子を写真付きで伝えるものは琉球新報・八重山毎日新聞だけで、航空雑誌にも掲載されておらず、機内にも取材陣は見当たらなかった。
 
 806便が出て行けば与那国空港ターミナルは落ち着きを取り戻し、私は空港スタッフに昨夏のジェット化後の様子を訊く。
 ボーイング737就航による利点はもちろんあるが、滑走路長が1500mであることや給油施設が無いことで、「厳しい条件下にある空港」であることはYS11の時と変わらない。この「給油施設無し」の件がDASH8に那覇~与那国~石垣の燃料を積ませることになり、そのため人数を抑えることになっている。滑走路を2000mへ延ばせば、その就航条件が緩和されるということであった。
 いっぽう外はめちゃくちゃ好い天気だ。さっき空港進入の際には台湾が見えたんだろうな。私の与那国訪問は今回が3度目だがこんな好天は初めてで、16:55発886便で帰るのが恨めしい。
 ターミナルへ戻ってRACスタッフへそのことを言えば「すぐに戻るんですか!?」と驚かれ、その直後に「ありがとうございます!」。
 
 私が与那国へ初めて訪ねる時は、石垣を午前中に出て与那国から夕方に帰るという、いわばYS11での日帰りプランだった。
 その日は台湾東方に熱帯低気圧があり、石垣・与那国地方は大雨。午前の与那国行きも1時間半遅れというもので、とにかく私は与那国島へ降り立つ、も熱低が発達した台風のため夕方の石垣行きは欠航。想定外の与那国ステイを余儀なくされた。
 熱低を舐めていたからこうなってしまったのだが、翌日空港スタッフから低気圧などの気象判断、YS11をはじめとする機材ごとの特徴、離島空港の特殊性、さらには航空券変更などのレクチャーを受けた。この時以降私は加速度的に航空旅行のノウハウを吸収していく。
 この与那国島滞泊のおかげで私は南西諸島に親しみを持ち、飛行機に詳しくなっていったと断言でき、逆に予定通り日帰りをしていたら現在の私はまったく異なった状況になっていただろう。かくして与那国は現在の私の発祥の地でもある。
 
 空腹を感じた私は記念品の餅を食べることにしたが、当初は頂いたものが餅とは判らず、RACスタッフに訊いてそれが食べ物と判った次第。しかしこんどはどうやって食べるかが判らず、売店のおばさんに教えてもらった。
 食べ終えて時計を見るともう那覇行きの搭乗手続が始まっており、私は後ろ向き席1Hにして搭乗整理券に引き返る。それにはJTAではなくRACと記されていた。
 807便の石垣出発が遅れたので、折り返し与那国発那覇行き886便も遅れて出発。17:16にランウェイ08から離陸だった。
 
 このまま東へ向かって上昇、と思いきや左旋回しながら、島を回りながら上がって行く。こんな出発はYSの時はなかったぞ、機長の演出か?この時海に向こうに島影が見え、ひょっとしてあれが台湾か?というほどの好天、帰路も感動的光景が見られた。
 復路は往路よりも北寄りを飛んでいるようで、高度は17000フィート。西表島から波照間島までの竹富町の島々が一目で見られた。宮古島を過ぎればCAが上空を指差すので、見上げるとJTAのボーイング737がDASH8を追い抜いて行くではないか。
 与那国から初の那覇行き直行便である886便では、先の806便で出発行事をしたのでこちらでは無かったが、機内では往路同様ボールペンの記念品が配られた。ほかのサービスも往路と同じ。
 
 私が座っている1Hは乗務員席の隣で、CAからいろいろ話を聞けた。19人乗りオッターでの機内サービスは?・・・私はJTA CAからWCや高空飛行時の客室の様子を聞いているが、自分が実際にオッターに乗った後でそのことを訊くのは今日が初めてだ。
 まず、エマージェンシーデモンストレーションは無し。けれども今日のDASH8同様、おしぼり・キャンディなどは配っており、私は少し驚く。でもオッターにギャレーは無いのに、置く所はあるの?答えは後方乗務員席の下。
 それにしてもあの客室で、あの通路で・・・「すみません、と言いながら通っていました」と言うCA、でもその様子、見たかったなあ。
 
 那覇で話したCAに「綺麗に写ってる!」と言わしめたRAC CAの写真を往路885便で渡したのに続き、復路886便ではAMX初便乗務・現JTA CAの写真及び当人に撮ってもらった私の写真を見せた。すると話題はAMX CAのことへ。CA「3人ともご存知なんですか」、私は「初日は2人に会い、今月2日には残る1人に会いました」。
 この日から1年半後の2002年1月23日、私は宮古~那覇にて距離177マイル・飛行時間70分のDHC-6搭乗を味わった。1997年10月以来のCA乗務、WC設置がある長距離仕様で、私が初めて見るものだった。那覇空港の格納庫前で、私たち乗客を迎えていたCAが私に掛けた台詞は「オッターのサービスを見られたでしょ」。ツインオッターラストフライトに感動した私だったが、与那国線デビューの時から続くかのようなCAの言葉にも私はひそかに感激していた。
 
 886便も旅客数は35名に抑えられているというが、燃料に余裕があれば与那国~那覇は残り席を当日に販売することがあるかもしれない。本日この便では32人が搭乗、趣味人氏と私以外は普通の旅行客のようだが、885便に較べればこちらは賑やかで八重山の島々にカメラを向ける人たちがいた。
 那覇~与那国直行便と石垣~与那国RAC便は10月29日までの水・金・日曜日の運航で、期限付き且つデイリーにあらず。通年そして毎日運航になれば与那国へはとても行き易くなり、そのためにも多くの人に利用してもらいたい、と私も与那国町やRAC関係者と同じことを考えている。しかしながら一般旅行者には運賃の壁が・・・。
 ところが9月から「前売り21」が設けられ、南西流通企画改めJTA商事の旅行商品「J-TAP」の中にも那覇~与那国直行便利用のパッケージツアーが見られる。それらを使えば与那国へは今日より安く行けるので、私も次回には「前売り21」で行こうと思う。
 
 慶良間を通り那覇空港へ進入、着陸は18:41だった。DASH8から降りると、先に那覇へ帰っていた社長が乗客を迎えていた。スタッフが拍手する中を通ってランプバスに乗り、到着口に着いたところでスタッフへ挨拶。すると「稼がせてもらいました!」と大笑いで言われることに。
 かくして私は宿願の「那覇~与那国直行便デビューフライトに乗る」ことを果たした。気合が入った旅だった。次はもっとのんびりした気持で最西端の島を訪ねたいが。
 翌7月22日、私は那覇市与儀にある沖縄県立図書館へ交通関係の図書を探しに行った。冒頭の「21世紀沖縄公論」はそこで見つけた雑誌で、また毎回目を通す「南西航空10年のあゆみ」を見ると、1965年の与那国空港開港時には、YS11よりは小さいがDHC-6より大きい機材がエアアメリカ便として就航していたことが判る。また交通関係ではないが、与那国島の戦後の密貿易を記した本もあり、885便で隣席の婦人からそのことや戦後の与那国の人口を聞いていたこともあったので、興味深く読んだ。
 日本最西端というのは国境に位置するということでもあり、それゆえの特殊なことがまだあるかもしれない。これからも与那国へは行かねばなるまい。