「RACにダッシュエイトというのが飛んでいて、これのスピードが速いんです」、JTA与那国空港スタッフから私が前日に初めて乗ったYS11A型機についていろいろ教わっていたのだが、その後継機について及んだ時にこの機種が出たと思う。
 前年RACに就航した旅客39人乗りターボプロップ機・デハビランドDASH8。この機材を雑誌やポスターで見てはいたが、この時が訪沖まだ2度目という私は実機を目にする機会を得ておらず、ただ2ヶ月前に伊丹~但馬で乗ったJAC SAAB340B同様に小さいプロペラ機と思うだけ。
 そのSAABに比してYSは大きく、CAも2人。さらにJTAからの退役も近いといわれ、私の趣味指向がYSへぐっと傾いた・・・という矢先、そこで航空のプロからDASH8のことを聴く。
 1998年9月30日(火)、その当時日本ではまだ2機しかなかったDHC-8型機の存在がこうして私の頭に印象付けられる。
 台風接近のため与那国島ステイを強いられ、午前8時台に空港へ来るも使用機材が台風を避けるため那覇へ戻っており、それがこちらへ来るのを延々と待っていた時のことだった。
 
 その日から10ヶ月後の1999年7月12日(月)、自身のJTA YS11A最終搭乗の帰りに那覇空港で夕陽を浴びる2機のデハビランド機をターミナルから眺める。
 DHC-6とDHC-8、前者は同年3月に石垣空港で実機を見たが、後者はこの時が初。同じ琉球エアーコミューターの機材でありながら大きさ・塗装が異なり、遠くからではあるけれどその並びに見入ってしまう。
 私がDHC-6に乗るのはこの日から6ヶ月後、DHC-8に乗るのは8ヶ月後、ただし後者はRACではなくAMX/天草エアラインに於いてとなった。
 
一、
 辛島町9:45発超快速便「あまくさ号」に乗り込む。2016年2月19日(金)、熊本空港から天草空港へ移動は産交バス乗り継ぎで、既に熊本空港を8:35に発っており本渡バスセンターへは11:58到着予定、そこから天草産交バスに乗って堀切バス停12:28着。天草空港ターミナルへは12:45頃到着予定だ。
 飛べば20分以内で行けるのに、こういう行き方をするというか、せざるを得ないのはAMX熊本~天草線が昨夏8月24日から運休中だから。尤も当日朝大阪発ならJAL~AMX福岡空港乗り継ぎで9:35に着くことが出来、本日行程は私の移動費削減のためでもある。
 そして今回が30回目の天草下島訪問。勿論AMXで天草空港へ飛ぶことが速くて楽だが、快速バスに乗って行くのもこれが9回目。それからAMX天草行きが熊本空港ダイバートのためチャーターバスに乗ったのが1回、長崎市茂木から富岡へ高速艇で渡ったのも1回ある。
 
 上記の内で天草エアライン就航前の下島訪問が2回あり、初の訪問は1999年7月1日(木)だった。
 与那国で話題に挙がったDASH8が天草空港へ就航、というのを「エアライン」誌で知ったのが1999年春か初夏。沖縄または薩南でしか見られないDASH8が熊本にて就航、加えて離島路線ではなく伊丹~但馬のように陸上交通もあるところへの都市間コミューターとしての就航、さらに天草空港滑走路が1000mしかないにもかかわらず、そこでもオペレーション出来る性能を有することで、DASH8及びそれを運航する天草エアラインに私は関心を抱くようになった。
 梅田の熊本県大阪事務所で天草空港概要を調べ、JALエクスプレス伊丹~熊本開設初便で熊本空港に着いた後に快速バスで本渡の街へ。市役所で開港スケジュールを聞き、商店街を回り、本渡港から高速船「マリンビュー」で熊本市へ戻ったが、往路のバス移動の時間は正直長かった。
 
 2度目は開港・就航前日で、まだ飛んでいないのだから本渡へは陸路か海路で行くしかなく、この時も快速バス。
 そして今日もバス移動と相成ったが、AMXデビューフライト且つ私のDHC-8初搭乗へ向かう時も、本日同社DHC-8ラストフライト搭乗へ向かう時も快速バス乗車とは。自分の都合でこうなったとはいえ、天草エアラインの歴史的場面を見ようという前にかつてと同じ道をたどっているかのようだ。否、たどっている。
 そう、ラストフライト・・・DHC-8-103・JA81AMが今日それを迎える。既に朝から天草~福岡の1往復終えており、この後夕刻の福岡1往復で16年にわたる定期便の任を終える。
 
 予定通り12:30頃堀切停留所で降車、ここから曇天の下を歩いて天草空港へ登っていく。毎度思うのは車道に比しての歩道の廃れ感、歩く人って少ないんだろうなあ。県道~空港を通るバスは航空便アクセスのみで、その福岡線が2往復だけとなってからはアクセスバスも2往復だけに。
 以前は本渡バスセンター~富岡港のバスも空港へ寄っていて、私は天草空港から富岡港へ直接向かったこともあったが、ともあれ航空便の無い時間帯は空港発着がなく、そういう時に空港を出入りする私がここを歩いて登り下りするのもこれが10回目だ。
 ターミナル到着は12:45頃。定期便発着が無い時間帯であり「空港マルシェ」の開催日でもなく、よってロビーはし~ん・・・が私がこれまで見て来た光景だが、今日は違う!次の107便出発まで5時間以上あるのに、数名がこの場にいるではないか!
 見回せばDHC-8退役とその寄せ書きが記された横断幕が2階に掲げてあり、そして2機種の状況が判る写真が1階に掲示。さらにみぞか図書館には2機種の精巧なモデルが展示されており、客室まで再現されていることにただただ感心するばかり。
 かくしてこの時間帯の人出と展示・掲示物を見るだけで、天草エアラインに於ける今日明日の重大性が判ろうというものだ。
 
 私がここでするのは、熊本交通センター前のセブンイレブンで買い込んだ弁当を食べることと、JA81AMラストを巡る人の動きのウォッチングだ。
 航空メディアは動きから察するに2組、旅客機趣味人も何人かおり私の知人ではエアー北海道ファンクラブWO執行委員がレンタカーでこちらへ入って空港内外で活動中、そしてカメラマンのMMさんも来ている。
 航空スタッフではAMX前社長がもとメンテスタッフと懇談、その後で前社長は私の近況ヒアリング、私への台詞は「こんなに乗ってるんですか!」。「いやいや、南大東島に関わる人なら2年もあればクリアです」、というのは自身の16年に亘るDHC-8搭乗記録を見せた時のこと。その時点において私のDHC-8シリーズへの搭乗は通算198回だった。
 このロビーにはAMXスタッフも行き来し、あれは社長!ということで挨拶。MK CAからは手を振られ、専務に搭乗御礼を言われ、TKさんとは2001年の大福餅とか2010年の神戸に於けるスカイマーク担当ハンドリングなどの話題へ。特に2001年就航1周年の話は盛り上がり、TB CAが餅を突き、CAになる前のMYさんが出来上がったそれを振る舞う。NG CAは午前の乗務後に新制服お披露目へ、私は餅を頂きまくる等々。
 
 
二、
 こちらに着いたばかりの頃のエプロンにはJA81AMだけが駐機中。それから間もない13時過ぎにエンジン音が聞こえ、様子を見に行けばJA01AMが訓練から帰ってきたところだった。
 主役交代前日、それゆえ今日の主役はまだJA81AMであり、そして同機にはこの後大役が控えている。
 しかしながら私を含む乗客とAMXスタッフKWさんそしてNK CAは、かつて「ラストフライト欠航」の憂き目にも遭っているのだ。
 2008年8月31日(日)、およそ4年に亘って飛んだ熊本~松山線がこの日を最後に休止。それの関係者挨拶で松山へ来ていたKWさんとともに私はこの路線ラストである松山発302便に乗ろうとしたが、整備のため欠航!NKさんは大井初対面の機会を逃した。
 因みにこの時松山空港で欠航証明書を作成してもらった私は4日後の熊本→神戸開設初便にそれを持参、こんなことがあったんですよと証明書をSG CAに見せびらかしていた。今日はこんなことになるなよ。
 
 その今日の福岡~天草往復で私のDHC-8シリーズ生涯200回搭乗が達成される予定だが、この間に欠航を食らって乗らずじまいになったのが4回ある。
 1回はJA8972の電気系統不具合、3回がJA81AMで上記松山ラストの前にも2回遭遇している。それは2007年3月23日・就航7周年の日、あろうことかメンテ発生で私の2レグが取り止め。Q400・JA849Aの高知胴体着陸があった直後で、全国的にDHC-8運航の安全性が問題視されている頃だった。
 それからダイバート1回、欠航後続便振替が1回、いずれも2010年3月23日就航10周年の日。原因は天草視界不良でJA81AMのせいではないが、このためクルーは朝から天草→福岡→熊本→神戸→熊本→天草という行程をたどる。そしてダイバート後に神戸へ飛んだYA CAが天草へ帰着、その時の笑顔は印象的だった。
 
 01AMが訓練に出て行けばその帰着撮影のため館内の趣味者が屋外へ、けれども私はATRなら明日以降でも撮れるわ~ということと、曇天の下ゆえ気分が晴れずこちらに居続ける。
 16年前のデビューフライトの離陸は曇天下、福岡から帰ってきたら雨。加えて就航8周年の日は雨、10周年は霧というふうに、JA81AMは優れない天気に見舞われることが多かった気がしないでもない。いっぽう2013年や12日前のプレミアムフライトは好天で、遊覧飛行のように晴れてほしい時には晴れる、そういう運の強さも持ち合わせている。
 けれども今日のような天気の時が多ければ、やはり就航初日のくすんだ空の印象がクローズアップされる。
 
 あの日8レグ乗務のAYさんが福岡から戻る102便で「私は雨女なんです」と乗客と話していたけれど、JA81AMがこういう天気に遭うのはAYさんの影響か!?
 だがここまでの天草エアライン16年の歩みを振り返った際、常に向かい風の中に立つAMXと「くすんだ空の下のJA81AM」は、「それでも飛び続ける」というイメージで合致するのではなかろうか。
 2000年代前半のビジネス需要が旺盛だった頃以外は、今日に至るまで顧客獲得に苦心し続けていたような気がする。
 天草のような所から誰が航空機に乗るのだと周りから蔑まれたこともあれば、会社自身の経営が行き詰まることがあったとも聞く。
 単なる一般旅客でしかない私にはその実情を知る由もなく、また会社のことはその道のプロに任せざるをえないけれど、ただその中でも確実にDASH8は飛び続けて乗客または貨物を運んできた。この事実は未来永劫消えることはない。
 
 17:00から満席札が掛かった107便の搭乗手続きだが、その前から館内には人が増え始める。
 107~108便往復搭乗者はここで復路ぶんもチェックイン、私は往路1D、復路10Cとした。出発に際してのセレモニーは無いと聞いているが、ターミナル来館者へHYさんがラストフライトの旨を言いながらポストカードを配って回る。私にはこれがセレモニーに映るのだが。
 天草エアラインDASH8最終往復の乗員が保安検査を通過、客室乗務員はINさんで目下のところ最新のCAがアサインされたことに何らかのストーリー性を感じる。
 CAのキャラクターに始まる人的広がりもAMXの魅力の1つであり、それが一過性でなく今日まで私がAMXに万遍無く乗り続けた所以でもある。
 
 2000年5月21日(日)、先にDHC-8を運航していたRACの那覇~久米島線に搭乗。これが私の同社DHC-8初搭乗、そして同社保安要員乗務便初搭乗でもあった。
 その日からおよそ2ヶ月前のAMX初日もようをTG CAに語れば「TSさん、緊張しただろうな」。他社CAを慮る言葉に感動する私であり、ここからRAC趣味も深まっていくことになった。
 同年7月21日(金)、RAC那覇~与那国線開設初便で自身初というかDHC-8による我が国初の300マイル超フライト。与那国空港ではDASH8のことを教わったIKさんと再会、この場で「細かくはDHC-8-103というんですね」そして同空港DHC-8オペレーションについて興味あることを訊く。燃料搭載の都合上那覇発は乗客30名まで、離島への300マイル超フライトにはこういう事情があるのか。
 翌2001年6月17日(日)、RAC DASH8で与論~那覇を移動中にCAから「天草エアラインにはよく乗られているようで」「ん!」、当該CAはONさん。はたと思い出した私は1H席で「そうだ!Jちゃんが言ってた!」、ONさんは「Jちゃん」に大笑い。なおこの呼び方を本人へしたのは2014年9月23日(火)が初めてで、それまでは「TSさん」。けれども本人の前以外ではAMXでもORCでも「Jちゃん」で、これは2000年7月2日(日)に天草空港を訪ねた際観光カウンターのKSさんが「Jちゃん・AYちゃん」と言っていたことに起因する。あと「YOちゃん」というのも「三足の靴」に載っていたが、私は未使用のままだ。
 
三、
 HDさんたちスタッフが動き、乗客も保安検査通過。曇り空で且つ日没時刻を過ぎており、かなり暗くなった天草空港エプロンを歩く。向かう先は定期便としてここから飛びたつのがこれで最後というJA81AM。
 早々に乗り込みIN CAに挨拶、後ろ向き1Dに着席。私が天草エアラインDASH8に於いてここに座るのもこれが最後。そこへINさんが「この便で200回達成ですか?」。私の「DHC-8通算搭乗200回」の件が伝わっとる!だがこれが199回目であり、「帰りの108便で200回です」。
 17:54ドアクローズ、乗客は39名、従ってもう1つある後ろ向き席の1Eにも乗客がいる。そしてこれら39名の中にいる旅客機趣味者及びそれらしき客は、WO委員・MMさん・私を含めて7~8名というところか。だとすると趣味人比率はAMX定期便としてはかなり高いほうと診るが、当便でのそういう層はおとなしめと感じた。
 
 107便はランウェイ13から18:00離陸。少し話を聴けば、ATR42-600の保安要員席はDHC-8-103とは異なって後方に位置し、そのため揺れた時がDASH8とは違うそうな。
 ならば他社からAMXへ来たCAはDHC-8-103客室にどんな感慨を持ったか、そんなことを今頃になって考える。YK CAはJACでYS11それからSAAB340Bに乗っており、SAABが客室1人乗務なのでDASH8には違和感無かっただろう。客室が大きいので戸惑ったなんてことも、YS乗務だったのでそういうのはあるまい。
 この件は教官を務めたMHさんも同様だろうが、当人は後にJAC Q400初便乗務。AMXでの経験がQ400乗務に有効だったと私は勝手に思っている。
 大きく環境が変わったとすれば、SM CAじゃなかろうか。ボーイング737-800で客室は4人乗務、そこから39人乗りで1人乗務、ってどうなん?
 
 ベルトサイン消灯は18:07、その後も客室はしーんとしたまま。大型カメラを持つ趣味人が、撮影のほうに熱心だからかもしれんが。
 INさんが「本日を以ってDASH8は引退」とアナウンス、続けて本日DASH8最終日限定グッズ抽選会実施へと進む。当選者1名にはモデルプレーンがプレゼントされるが、発表された席番は1Dにあらず。
 巡航高度は8000フィートと知らされ、これまでいつも耳にしていた高度より1000フィート低く、その訳は9000フィートなら揺れるからであった。
 18:13ベルトサイン点灯、本日は点灯してから福岡空港までが長く、最終的にはランウェイ16着陸は18:38。わ、38分も要してる。私の天草~福岡最長飛行時間を更新だ。
 さてここまでDASH8最終日としてのアナウンス・抽選会を実施したが、これに続いて降機時にINさんから記念証が渡される。
 
 107便では「天草出発便としては最終」ということが特に強調されることは無かったけれど、スタッフ・趣味人なら今さらあれこれいうことでもなかろう。けれどもこれが天草最終離陸便だったことには相違なく、記念証を受け取った人たちと同じく、私は確かにそれを見届けたのだ。
 次はAMX DHC-8ラストフライト、折り返す趣味人は通路で一旦待機。その顔ぶれは107便搭乗旅客機趣味者の一部である4名だけで、皆が皆という訳ではなく他の趣味人は107便だけで終了だった。
 即折り返し組はJAL KDに誘導されA搭乗口から待合室へ逆流、そこで待つ乗客の顔ぶれを見ると今乗って来た107便以上に趣味人が多くしかもディープな雰囲気。16年前のAMX就航初便に乗った相模原南西空友会OK会長・石神井南西空友会NH会長をはじめ、サンタさんチームや初便最終便報道で見かける顔も。
 
 私がAMX搭乗時にこれほどの面々を見るのはこれが初めてで、それだけDASH8退役と明日のATR42就航が注目されているということだが・・・16年前とえらく違う。
 その16年前のAMX就航初便の旅客機趣味者は、その日からおよそ6年後にエアー北海道ファンクラブメンバーとなるOK会長・NH会長・現エアー北海道ファンクラブAM顧問・私とそれからあと数名位で、それを思い返せば現在A搭乗口前にいる趣味人は往時よりずっと多く、過去2回のプレミアムフライトより量そして質というか濃さも上回るかの如し。
 なおOK会長・NH会長は2001年11月22日(木)の壱岐国際航空就航初便にも乗っており、OK会長は同便乗客代表として花束も受け取っている。
 
 AMXのDHC-8は私の周囲の「人的拡大」に影響を及ぼすだけでなく、我が国のDHC-8シリーズ拡大を考える際に重要な位置にあると診る。
 1社目RACでの就航が2007年4月15日、それからおよそ3年を経て2000年3月23日AMXにて就航。次がANA系ANKで2001年7月1日旅客56人乗りQ300就航、この間1年4ヶ月。そして同月15日にORCにて見掛けが100型同様のQ200就航。
 5社目はそこから1年7ヶ月を経てJAC、2003年2月1日Q400就航。そのQ400は同年11月1日にANA系A-netでも就航し、要はAMXで飛び始めて以降それまでに比して短い間隔で新たなDHC-8オペレーターが加わっているということ。
 
 さすれば2000年3月のAMX DHC-8デビューは我が国のDHC-8拡大のスタートである、そのように2016年の視点からでは位置付けられまいか。ただしインパクトが大きいのは羽田Q300就航で、ここから「ボンバルディアQシリーズ」が我が国ではメジャーになり旅客機趣味者へも「DHC-8」が浸透していったように思える。
 そして2000年度末では福岡~天草及び奄美~与那国だった就航範囲が、後に北は利尻へと拡がり全国でDHC-8を見る機会も増えていく。
 なお私は2001年6月17日にRACのDASH8に乗って以降7月1日(日)にANK Q300就航初便を含めて2レグ、15日(日)にORC Q200就航初便を含めて2レグ、16日(月)にAMXに1レグという具合に、1ヶ月で4社・3種のDHC-8に乗った。
 そのANK・ORC搭乗予定を6月RAC初代ONさんへ言った時に返された台詞は「すごい!もうDASH8マニアですね!」・・・ANK Q300就航以前にそういうふうに言われた趣味人はどれほどいるだろうか。
 
 その後AMXも範囲を拡げ、仙台・松山・屋久島へチャーター便運航、後に松山・神戸・伊丹へと定期便を飛ばす。
 特に2008年9月4日広義の大阪である神戸空港への就航は、2002年度上期にORC Q200が伊丹~福江に就航していたにもかかわらず私は「天草エアラインが!?」と衝撃を受けたが、その後の伊丹就航では「遂に来るか~」。おかげで兵庫県出身のYD CAの家があの辺に!とJA81AM客室で叫ぶことになった。
 さらにAMX就航によって、伊丹は「DHC-8の100~400型すべてが就航」という我が国唯一の記録を持つに至るが、そういう過程を経てDASH8趣味者・AMX趣味者が増えたことは容易に想像でき、それにメディア露出が追い打ちを掛け、今日のラストフライトの集まりに至ると考える。
 
四、
 搭乗改札が始まり、乗客はエプロンへ降りる。向きが変わったJA81AMに乗り込みINさんへ「ただいま」、先客は誰もいない。
 10Cへ腰を掛けてからもしばらくは後が乗って来ず、私は「10Cは狭い~」と動きでINさんへ伝達。もしかして、いや、もしかせんでも夜空の下のエプロンでは大勢が撮影会の最中であろう。プレミアムフライトではない定期便でそれだとすると、これもまたAMXでは初めてのこと。
 けれども、僅かではあるが「JA81AM客席に私が1人だけ」という時間を得ることができた。AMX DASH8最終日最終便に初日初便乗客の1人が他の客が誰もいない空間を眺める、シートモケットは替わったけれど他は初日のままのように見える客室、これを見る限りに於いてこれが最後という気はまるでしない。
 
 ぼちぼち後続客が入って来た、ありゃ、Jちゃん!就航初便CAが乗客としてAMX DASH8ラストフライトに客として搭乗だなんて!これはスペシャルゲストだ!とは当人は思っているかどうか判らぬが、少なくとも就航初便の2Dにいた私にはそう思える。
 後でJちゃんから聞いたのだが、隣席の方も就航初便乗客であり、さすればラストフライト108便には16年前の就航初便にいた者が少なくとも5名。
 やがてというか、ようやく乗客が揃い19:14ドアクローズ。どうやら満席で、1Eにサンタさん、1Dにディープそうな方、というのが前方の布陣。いやいや後方もカメラを抱えた客が多く、19:17にランプアウトしてからもシャッターを押す。INさんが電子機器についてアナウンスを入れるが、それほどカメラを掲げる乗客が多いキャビンも初めてじゃなかろうか。
 ランウェイ16から19:25離陸、19:32では高度9000フィート。なお108便ではベルトサインは点きっぱなしで、グッズ抽選はINさんが座って当選座席を告げるのみで手渡しは着陸後となった。
 
 客を乗せるフライトはこれが最後、その便では私のDHC-8搭乗は200回に到達。
 昨秋辺りにこの「200回」記念便をどれにしようかと案じ、第1回目がAMX就航初便でありこのJA81AMに乗ったことから、それでは200回目をそれのラストフライトで達成させようかな。けれどもAMX DASH8ラストに合わせるなら乗りたくても自重しなければならない場面も生じ、例えば「さよならプレミアムフライト」搭乗を我慢するとか、那覇へ行くのにJAC~RACを乗り継いでいくというプランも見合わせるとかが求められるのだ。
 このことを2015年10月10日(土)に福岡空港空の日行事でAMX TGさん・HYさんへ言ったら笑われてしまったが、けれども2人には「200回」の印象は残ったもよう。因みに「第100回」は2008年4月26日(土)のANA系羽田~三宅島再開初便、それはA-netそしてQ300にとって三宅島へ飛ぶ初めての便だった。
 
 こうして私が国内国外のDHC-8シリーズへ200回にわたって乗って来た時間はおよそ16年。細かくは15年と11ヶ月だが、この間にDHC-8就航状況も変化してきたのは先述の通り。
 勿論増えるだけではなくリタイアの場面もあり、路線に関する開設・休止も数多く見られたが、機材を見ても一例として全部で5機飛んでいたANA系Q300が2014年3月31日(月)を以って全機退役している。
 
 DHC-8を巡る私の周りの人的変化もあり、AMX熊本~神戸開設に於ける501便乗客代表となった「初便・最終便搭乗界の巨匠」は2015年2月に逝去。私へDASH8のことを言及したJTA IKさんは2010年逝去。
 2013年3月7日(木)に新石垣空港が開港したその日、私は開港を報告すべく新石垣発琉球エアーコミューター1番機に乗ってIKさんが眠る与那国島へ。与那国空港発着便は同年1月7日から定期便がすべてDHC-8に替わっていて、いわば「DASH8空港」となっており、何かDHC-8を巡る不思議な縁を日本最西端に位置する同島に感じざるを得なかった。
 
 それにしても、たった1機で16年・・・。私のJA81AM搭乗もこれで59回に達し、生涯1330レグ中同一機材搭乗は本機が最多である。
 そういう私は早期2号機導入待望者でもあったが、その理由は整備・訓練等に伴う定期便運休に備えて。しかしながら導入された際に平時の路線・便数はどうなっていたか、特に就航初期とは異なって福岡線利用が低下した最近のことを思えば、2号機は入れないほうがよかったといえるのかもしれない。また1機だけで飛ばし続けられることのノウハウを得、それが明日からのATR42へも継がれることを思えば、1機のDASH8で今日までやって来たことには感服の思いだ。
 我が国のコミューター・リージョナル航空の変遷とともにあったAMXスタッフと1機のDASH8、それは我が国の民間航空史においてこの先も輝く存在であり続ける。そして私もその様子を遠くからではあるが見て来られてよかったと思う。
 
 DASH8ラストフライトもやがて天草下島が近づきランウェイ31アプローチ、19:49ランディング、着陸滑走中私は1人で拍手する。就航初便離陸時にAYさんの前で拍手しており、今回の拍手は往時への呼応である。
 INさんが到着の旨のアナウンス、それの締めで客室全体から拍手の音が沸き起こった。
 ドアが開き最後列真ん中席から普通に降りる。こういう降り方もまた私に相応しかろう。
 ターミナル前ではスタッフが「ありがとうダッシュ8、16年間おつかれさま」と記された横断幕を掲げ、「ああ、ラストフライトなんだ」という気分が改めて高まる。
 振り返ればまだまだ降機客は機体前にいるが、私は執り行われるというターミナルのセレモニーに備えてJちゃんたちより早くエプロンを後にした。
 
 
五、
 1階では明日のATR42就航行事の準備が施されているが、DHC-8退役行事はカウンター前にて。社長がそのJA81AM退役について述べ、内容はこれまでの功績とデンマークへ売却ということ。私は社長挨拶を最前列で聞いていたが、周りにはメディアと108便乗客多数がおり、当初は簡素なものと聞いていたが熱気はその正反対。
 それからカウンター前に並んだ108便クルーに花束贈呈、これは趣味者有志の企画らしく、それなら私も何かしたらよかったかな・・・いやいや就航当初から「俺が乗ることがAMXにとってのイベント」と豪語していた身ゆえ、今さらあれこれせんでもええ。
 その並びに社長も加わり、4人へ向けて撮影大会となった。さっきも思ったがAMX趣味者もずいぶんと変わった感がある。
 
 他の場所では就航初便CAのJちゃんがインタビューを受け、DASH8惜別について語っていた。同便乗客の私もマイクを向けられるが、これまで乗り過ぎてきたからか、実はラストといっても降りてしまえばその感慨がぼやけ、お別れについても何を今更。
 えらく冷めているけれど、正直これが賑やかなこの場での感想だった。
 また上のことを軽い口調で言い放ったが、これが私とJA81AMの間柄を象徴していたことと漠然とながら思う。その間柄がどんなものだったかをはっきりと自覚するのは、この日からおよそ1ヶ月後となるが。
 おやJちゃんといるのはKBさん。就航初日メンバーがここにも登場、加えてKBジュニア君も来港していた。
 後で思えば中1生のKB君と会ったことも、就航初日を彷彿させるには十分すぎるものだったといえよう。16年前の就航初日101便で福岡空港に着いた後、私がランプバス車内で話していた相手は中学1年生の女の子だった・・・JA81AM初代塗装デザイナーのNZさんである。そのデビューとラストでともに中学1年生と会う、16年にわたる時間がきれいに収まった感じだ。
 
 WO委員のレンタカーに便乗して空港から下っていくが、初日に空港へ上がってきて101便に乗り、最終日108便から降りて空港から下る、これもJA81AM就航の16年が収まったかのようだった。
 
 定期便就航を終えたJA81AMが、売却のために天草空港を離れたのは3月18日(金)の13時すぎ。
 その様子を見に行こうかとも思ったけれど、それを送るのはやはり同機に携わったスタッフであり、単なる一般旅客にすぎない私が現地へ行くのはおこがましい。乗客は客が乗れる最終便で終わりとすべし、そういう考えゆえネットでその様子を見るに留めたが、ネットで見ると当日現地は雨。
 また雨か・・・。就航初日に101便が上がる時は曇りだったけれど、福岡から帰ってきたら雨、その時のイメージが最後まで付きまとった感があった。
 
 その5日後の3月23日(水)、開港・就航16周年を迎えた天草空港へ1ヶ月前同様に堀切バス停から歩いて上がる。
 門を入って最初に見るのは先月同様にDHC-8-103の石像であり、ATR42-600が飛び始めてもDHC-8がここから去ってもなおDASH8はここに居る、そう思わせるオブジェだ。
 午前6:50にターミナル館内へ入ればまだ私1人、エプロンを見れば日本へ来て初めて天草エアライン就航記念日を迎えるJA01AMが出発準備中、いっぽう当然だがJA81AMの姿は無し。
 けれどもその光景に私は寂しさなどは感じず、半ば見慣れた光景であるかのように映った。強いて挙げればATR42の前方貨物ドアが開いているのが従来と異なったところだったが、腰掛に座って思案するのは私自身の落ち着きって何ゆえ?
 
 HDさんがいて、TKさんがいて、KWさんがいて・・・15~16年前のメンバーがいる。
 KAさんがいて、ABさんがいて・・・DASH8就航時の地上スタッフがいる。
 NJ CAがいて、OM CAがいて・・・1ヶ月前のDASH8さよならプレミアムフライトで会ったばかりのCAがいる。
 いやいや、OMさんも16年前就航初日からの知り合いだが、その当時予約オペレーターだった当人を見て「あ、この人がOMさん」と意識した一般客も実は数少ないんじゃなかろうか。
 そんなふうに人の顔を見ていたら、JA81AMが飛び去ったことが頭から飛んでいってしまう。
 
 よくよく思えば自分は単なる大阪人一般旅客で、スタッフとは異なりDASH8は空港へ行った時とか特定時間帯に東大阪の空を見上げた時しか見ず、自宅に居たら今も天草ベースで飛んでいるような気がしてくる。
 一般旅客であることと空港から離れた所にいることが、退役しようが離日しようがJA81AMを常に身近に感じさせるのだ。
 
 そこへ来るのがKBさん。今日が就航記念日ということ等々平然と会話。先月もそうだったが十数年前ととやりとりの雰囲気は変わることなし。
 「今日ここへ来て思ったんですが、DASH8の姿がなくなっても寂しいなどとは思わないんです。それが何故かと思案していたんですが」とKBさんへ言ったのは、当人と話していると思い当たることがあったから。
 退役前後でAMXメンバーが変わることなく、先月のラストフライトも今日の16周年記念日もDASH8が飛び始めてからの延長に思え、今日もそのまま飛んでいるような錯覚を起こす。あるいは今まで乗り過ぎて、天草にはそれがあるものと心身に染み込んでいるのかもしれない。
 
 けれども私に寂しさを感じさせないことが、実はJA81AMの功績を示しているともいえる。
 この飛行機が人・物を運び続けた16年の末に今の私がある。
 それを思えば、1997年から始まって今や数ある我が国のDHC-8型機の中で4番目に客が乗れるようになった「天草のDASH8」は、使い古された表現だがやはり「心の中を飛び続ける」のである。