21時を回った頃の本渡バスセンター向かい「B&Cホテル」、その駐車場にいるのはエアー北海道ファンクラブ代表と執行委員合わせて4名。レンタカーを駆るWO委員の決定は「集合は明朝午前5時、場所はここ」、残る3名はそれに同意して本日は散会。
 OK委員というか相模原南西空友会OK会長と私は近所のマクドで食事へ、そこへNH委員というか石神井南西空友会NH会長が「大井たちならあそこにいるだろう」と見当を付けてマクド来店、3人で夜食会となった。
 この3人は2000年3月23日の天草エアライン就航初便乗客であり、そして本日同社DHC-8ラストフライトにも乗って天草入り。そして2002年1月には琉球エアーコミューターDHC-6ラストフライト搭乗のため多良間島へ向かった面々でもあり、さらにWO委員を含めたら2005年12月エアー北海道DHC-6ファン感謝DAYまたは2006年3月さよならパーティ参加者で、要は我が国のDHC/デハビランド・カナダ機と縁が深い(?)者たちが本渡の街にいる訳。
 この後NH会長は天草プラザホテル、OK会長はB&Cホテル、私はネットカフェ「自遊空間」で一夜を明かし、そして翌朝5:00前に雨天の中NH会長・私が歩いて来て、OK会長・WO委員もチェックアウト。
 所定通り5:00に全員が揃い、前日に続いていざ天草空港へ!。

 2016年2月20日(土)、我が国でATR機が初めて定期便に就航する記念すべき日の午前5:15頃、私たちは天草空港に到達。「いや~、WO委員のおかげで歩かずに済んだ~」「16年前歩いたら2時間かかった」「こういうところを歩くなんて狂気の沙汰」等々の台詞が飛び交うが、実は門が閉まっていて車中待ち。
 2台目の車がもう来た、と思ったところ、それに乗っていた人が門を開けて私たちはターミナル前へ。「整理券配布」入り口前に新聞紙を敷き、座って6:30の開館を待つ。
 16年前の天草空港開港・AMX就航に際しては前日22:00頃にバスセンターから徒歩移動、月光を浴びながら2時間歩き当日未明0:00頃到達、守衛車両の中で居させてもらい5:30頃からターミナル前で立って待っていた。対して今日は雨、レンタカー便乗、新聞紙を敷いて待つ、これらが往時との違いだ。今回座って待つのはかなり楽だが、OK会長は寒そう。
 後にタクシーで乗り付ける人たちも来るが、私たちは悠然とその到着の様子を眺める。「5:00集合でよかったでしょ」がWO委員の台詞だが、ここ10年での同委員の初動の早さにはまったく感心する。2015年4月の成田空港第3ターミナル供用開始に於いて一番にテープを切るニュース映像は記憶に新しいが、2009年6月静岡空港、2006年神戸空港一番入館でもWO委員はおり、何かあればこの人物!となっている。なお、そういう方向へ向かわせた張本人は私かも知れないのだが、WO委員自身が言うには「年齢とともに行動が過激になっている・・・」。
 また他ではNH会長が近年ではANAボーイング787-8定期便初就航を報じるニュース映像に、OK会長がPeach那覇発国際線初就航を報じるものに出ている。私のは略。

 雨足が強くなる中で航空スタッフも到着する。「おはようございま~す」と頭にタオルを巻いて駆けていくのは・・・AMXのHYさんやないかい!他のAMXスタッフも館内へ入っていくが、開館待ちの行列も伸び新聞紙をドア側へ寄せ再度腰を掛ける。
 あ、JAL会長、昨年の関空初日の出以来という訳で挨拶するが、思えば現会長との初対面はJAL社長時代で、同社ボーイング747-400ラストフライトでホノルルから成田へ着いた時だった。それに乗る前も私はホノルル空港で一晩明かし、5時台には新聞紙を敷いてチェックイン開始を待っており、何やらATR初就航の今日はJAL747-400ラストフライトとのつながりを感じさせる。
 空は明るくなるが低い雲、けれどもターミナル前は熱気に包まれているかのようで、AMX CAも館内から待ち客へ「頑張れ~」と応援の声を掛ける。それは新制服をまとったOMさん、執念を見せる趣味者・搭乗者への気遣いが嬉しい・・・と記したいが、単に俺の様子を見に来ただけだったりして。
 これとほぼ同時にMM CAもターミナルへ来たが、行列先頭で新聞紙に座る私たちに大ウケ。NH会長は「CAから大笑いされる客、というのもあまり例が無い」。
 ところで当初予定ではOT委員が一番にこちらへ着いている予定だったが、実際にはこれまでの記述通り私たち。単なる遅延と思うが、加えてKH顧問もこちらへ来る予定であり、今朝の天草空港にはエアー北海道ファンクラブメンバー即ちDHC趣味人が少なくとも6名が集まることになっているのだ。

 2015年12月31日夕刻の伊丹空港1階カウンター、私はJAL KDへ「天草エアとのコードシェア便で絶対取りたいフライトがあるのだが」と相談を持ち掛ける。
 当該便は翌年2月19日のJL3898・3899便、20日の3890便で、要はAMX DHC-8ラスト往復とATR就航初便。アドバイスは1月19日にAMX枠で取れるのは取る、残りをAXESSで一発送信して確保というものだった。
 けれども1月10日の天草空港マルシェでAMXスタッフと話した結果、搭乗方針変更。「僕なら201~801便に乗りますね。長いこと乗っていられるから」と言われ、なるほどそうか。それに801便ならATR初のドリンクサービスも見られるし、熊本の出発行事も見られるし伊丹でも見られるかもしれない。101便なら福岡へ着いた後で伊丹へ乗り継ぎで飛んでもATR伊丹発行事を見られない、やはり801便!
 欲をいえばATRデビュー往復も加えられたらよかったが、朝から4レグはしんどいし何より出費がきつい。よって天草空港で初便を見送った後で熊本行きから乗るというプランを立てる。
 そして1月19日(火)、午前8:50に伊丹ターミナルに着いた私は1階で公衆電話を探し、緑色のそれから9時丁度に0969-34-1515へ電話。
 案の定つながらなかったが、ここから私は周りに公衆電話使用希望者が他にいないか確かめつつプッシュボタンを押し直し続ける。9:05につながり「可能な限り安い運賃、大人1名」を前置きし希望の4便を告げると、あ、フルフェアだがすべて確保。
 だがJAL株主優待で買ったほうが安いものもあり、9:30の予約開始に備えカウンター申し出。ところが、天草エアコードシェア便は本日11:00から。「天草エアライン」の文字は無いけれど「2月19日~3月19日搭乗分」と申込用紙に記入、整理番号は1番、それを出して11:00を待つ。
 結果は株優運賃では空席待ちとなり、それも6日以内に空きが出なかったのでAMX運賃での購入と相成った。

 さてJAL予約では事前座席指定が出来るがAMX予約では当日チェックインで座席を指定、ATR初便の席を巡っては2月20日6:30からターミナル入口で整理券配布、その番号順に搭乗手続きを行うというもの。
 だが先頭に位置する私は初便即ち101便客ではなく、では何故早々と来たかは初便行事を良い位置で見るべく早くターミナルへ入りたかったから。後で判ったのだがそういう来館者は他にもいて、その人たちはくまモン目当てだったようだ。
 新聞紙を片付け6:30開館、WO委員を先に通した後で私も入り、ATR42-600就航セレモニーの準備が整えられている会場へ、来賓列直後に座ってやれやれ。その後も少々館内を見て回るが、来賓・報道受付の所に総務スタッフと2人のCAがいて、改めて新制服を見る。
 エプロンには未明の中にJA01AMが駐機、けれども客室には明かりが灯っており、定期便初就航に備えているという雰囲気が漂っている。
 6:50に搭乗手続きが始まり、WO委員たちへは報道がカメラを向けていた。見渡せばOT委員・KH顧問も到着しており、この場にエアー北海道ファンクラブメンバー6人が集結、うち5人がATR日本初就航便に搭乗することになるのだ。
 来賓・関係者・搭乗手続きを終えた客が着席し、「20分1本勝負」と告げるプロDJの司会進行で7:00にATR42-600就航セレモニーがスタート。言葉を述べるのはAMX社長・熊本県知事・天草市長で、知事が立った時にはくまモンも隣にいた。そして知事から社長へ記念品贈呈、それに続いて9人が並んでのテープカットを以って終了。

 16年前の開港・就航式典では一般客は館外待機だったので、私がこれ程の大きな規模のセレモニーを天草空港で見たのは今回が初めてだったが、それを間近で見られたのもまた良し。

 社長と顔を合わせ、私が101便ではなく201便搭乗を告げると悲しそうな表情に。それは私が初便に乗らないからではなく、201便が欠航になる怖れがあるから!
 う、やはりそういう状況か、だが「その時はしゃあないですよ」と答えたものの・・・私の内心は凍り付いていた(爆)。尤も雨に加え低い雲なら経験的に降りられないのは判っており、問題は福岡から102便が戻る頃で、そこで回復していたらいいのだ。
 搭乗開始までの間、2階に貼ってあったATR42就航記念横断幕を下ろし、その前で乗客がサンタさんと記念撮影に興じている。やがてオフィスからNJさんたち101便クルーが出て来て保安検査場を通り、そして乗客の保安検査が始まると、検査場前で社長が1人1人に記念品を手渡していく。いっぽうカウンター前には私以外にも趣味人がおり、その方は当日101便空席待ち、結果は乗れることに。他にも何名か乗れることになって、それなら私も福岡へ飛んでそして帰阪、という案が浮かんだけれど一か八かの当初予定通りにしておく。

 101便乗客が皆保安検査を通ったところで私は2階デッキへ、ところが雨足が強いままで傘無しでは居続けられない程だ。ひとまず今朝は空港に来ない予定だったのにこの場にいるJちゃんと離陸を待つが、JA81AMデビューフライトCAと2Dに座っていた客がJA01AMデビューを見送るというのも、傍から見たら感慨深いシーンじゃなかろうか。
 そのいっぽうJA81AM初便乗客でもあったNH会長・OK会長は只今JA01AM機内におり、16年前に続いて天草エアライン初就航機種初便に搭乗。さて2人以外にそういう客はいるかな?
 出発を待つ01AMの左側スポットには定期便の任から退いたDHC-8-103の81AMが駐機中。昨日までの01AMとの駐機位置が逆転し、主役交代を強く印象付ける。そしてランプアウトした01AMは右折して滑走路をタキシング、つまり初便はランウェイ31上がりだ。なおも雨が降っておりその中を滑走、離陸は8:03だった。

 さあ9:35には帰って来いよJA01AM、というところだが到着口前には102便条件付き運航そして降りられなければ201便欠航の旨の掲示が立てられている。同便搭乗者には前社長もいるけれど苦笑いしながら「飛ばなさそう・・・」、私は勤務先に欠勤連絡を入れるタイミングを思案する。
 その後も空を見たりしたが霧は生じていないが雲が低い、さてどうなりますか。就航式典会場の後片付けが始まり、3人のCAもそれに当たり、暇な私も「あまそら生チャンネル」オンエア後の如く少々手伝っていた。
 テーブルが元の位置に戻されたところで朝食、そこへスタッフが来て私に天候状況の説明。「前線は通過しました。小雨になって、もやがかかってきたら怪しくなりますが、今の状態だったら降りられます」、私は「やったー」と両手を挙げた。
 外を見たら現状維持どころかどんどん視程が良くなってきて島原半島をも視認、何か気分が高まって来て再びターミナルの様子を見て回る。航空メディアがCAへ向けてこれでもかといわんばかりにシャッターを押し、昨日のDASH8ラストフライトに集まった天草エアライン趣味者の熱心さを見て以前の層との変わり様に感嘆したが、メディアのCA撮影スタイルも変わってきたなあと思う。いっぽう他のCAはケーブルテレビのインタビューを受け、ATR就航の感慨を語りそして「あまそら生チャンネル」を振り返っていた。

 201便乗客や102便出迎え客がロビーへ集まってきたが、そういうところへ102便到着遅延のアナウンス、おいおいその間にまた天候が悪くなって・・・なんてなるなよ。けれども視界は良くなるいっぽうで、遅れ102便も9:56着陸、条件付きの旨の掲示も取り払われる。
 降機客の中にはWO委員もいるのだが、その前に到着口から出て来たのはエアー北海道ファンクラブAM顧問。NH会長・OK会長・私と同じくAMX就航初便乗客でもあるが、今回は「101便を取れなかった」とのこと。
 201便保安検査が始まり、私は他の初便往復客を待たずにそちらを通る。エプロンへ出る時に記念品を受け取り、そして少々雨が降る屋外でATR42出発準備を眺めるが前方貨物室への積み込みシーンが新鮮だ。その光景を見る客の中には前社長・会長たちJALメンバー・福岡往復に続いて乗るサンタさん・一部取材陣がいた。
 さていよいよ私がATR42-600・JA01AMに乗り込む時が来た。私が知るメーカー名はアエロスパシアル・アレーニア・・・「アエロスパシアル」といえばコンコルドのメーカーではなかったか、等々考えていたのは2000年10月のATR72搭乗前。
 この年元日に私は琉球エアーコミューターで旅客19人乗りDHC-6に初搭乗、2月にはJ-AIRで19人乗りジェットストリームスーパー31に、そして3月23日にはAMXで39人乗りDHC-8-100にそれぞれ初搭乗。前々年にJACでSAAB340BそしてJTAでYS11Aに乗っていたが、RAC・J-AIR・AMX搭乗を通じて100席以下コミューター機への関心が個人的に俄然高まっていく。
 その後6月に中日本エアラインでフォッカー50に搭乗。またANK YS11の後継機種が話題に挙がっていた時期でもあり、10月には台湾を訪ねそこで復興航空で70席台ATR72、立榮航空で50席台DHC-8-300に乗っている。即ちDHC-8初搭乗の7ヶ月後にATR初搭乗を果たしていたのだが、加えてDHC-8-300初搭乗もATR初搭乗直後に松山空港で乗り継いでのものだった。
 さらにこの年8月にはフェアリンクで50人乗りジェット機CRJ100にも初搭乗。天草エアラインが飛び始めた2000年は、私にとっても指向が変わる年でもあった。

 エプロンを歩き後方ステアを上がってJA01AM機内へ。乗客を迎えるCAは前便から替わったINさん、前夜のDHC-8ラスト往復の後でもうATR42に乗務かいな。
 私の席は入って左折すぐ、即ち最後列通路側の13B。頭上のストウェッジは奥行きがありそうで、旅行バッグがすっぽり収まる。赤い革シートにはカバーが掛けられ、その裏面が黒。我が国国内線ではこれまで例を見なかった配色で、客室内壁面の白色と相まって個人的にはゴージャスな感じがする。
 そういうシートは13列、ただし1列目と13列目が片側2席だけなので合計48席なのだが、とにかく13列あるのはIBEX・J-AIRのCRJ200と同様で、39人乗りDHC-8-100または200より長く、実際に見た目も同様、これまでに無かった天草エアラインの旅を味わえそうだ。
 ドアクローズ時の乗客は40名、INさんが腰巻バッグを装着して後方ギャレイから前方へ行き、そしてバッグからエマデモグッズを取り出して非常時案内。救命胴衣のひもは右手だけで引っ張るもので、私が見る限りではJ-AIR・FDAに続いて3社目だ。それが済んでINさんも着席、その位置は通路の後方突き当りで、ANAウイングスQ300でCAが座っていた所と同様。
 ATR42-600天草空港発定期便初便の離陸はランウェイ13となり、エンドからスタート。DHC-8での押し付けられるような加速ではなかったが、滑走がスムーズ且つ速く感じられあたかもQ400の如し!? 10:29に宙に舞い上がり、客室では拍手の音が響く。
 私は旅客48人乗り双発機材が1000m滑走路で運用できることに改めて感心、このキャパシティで1000mランウェイという組み合わせはDHC-7を彷彿させるが、あちらは4発機で800mランウェイも可。いやいや双発ATR72-500は2008年に890mの佐渡でデモフライトを実施、等々STOL性能を思い返す。そして離陸後もその速度感は維持され、Q400並みかどうかは判らんが少なくともDHC-8-103との違いは明らかだった。

 ん、ベルト着用サイン消灯の音?いや、そうではなく電子機器使用可能を知らせる音で、これは目新しい。いっぽうベルトは着けたままなので、ここはATR42-600の乗り心地を味わうことに徹するが、高度1300m・時速480kmの飛行はどこかDHC-8-103とは異なる感が漂う。
 かつて琉球エアーコミューターとエアー北海道で19人乗り客室非与圧のDHC-6に乗り、その後で壱岐国際航空で同様のドルニエ228に乗った時に離陸滑走時・巡航時の違いを感じたものだが、今回も往時同様の感覚を抱いた。
 しかしながらこういう感慨は16年前の復興航空ATR72搭乗時に持つべきところ・・・だが当時は乗り心地より機内サービス重視で、私は花蓮→松山で紙パックジュースとケーキを飲食することに頭が一杯で、ただ70席台キャビンに「YSより幅が狭い」と思っただけ。
 その後関心を持つようになった乗り心地については、ATRでは2014年に日本国内で味わえるかもしれなかったのだが・・・。ATR72-600を用いて福岡~宮崎などへ2014年春参入予定だったLINK、こちらが本邦初のATRオペレーターになるところで、トゥールーズでは実機も出来ていたのに資金面の都合で飛ばず。もしLINKが予定通り就航していたらAMXのATR42導入もスムーズだったかもしれない!? 加えて私のATR搭乗も16年の空白が14年に縮まっていたかも。いっぽう同じ年に乗り始めたDHC-8は、昨日までの搭乗で200回を数えている。
 

 陽光を浴びることなく熊本空港進入、ランウェイ07に10:42着陸、42マイルの飛行時間は13分なり。当便搭乗エアー北海道ファンクラブメンバーは私だけだったが、その私が続けて伊丹行きに乗るので、「天草エアラインATR42-600各線就航初便にエアー北海道ファンクラブメンバーがいる」状況を作り出せることになった。ただしここまで来るのは冷や汗ものだったが。
 一旦待機する熊本空港ロビーへ上がれば、そこにいるのはYA CA。これで本日朝から5人のAMX CA全員と顔を合わせたこととなった。1日でCA全員と会うなんて、当時在籍CAは3人だったけれど2001年3月23日の就航1周年に於いて3人全員と会った時以来だった。