『外人一首千番愁』(会議篇)

 時間が経っても、一番変わりにくいのは文化だと言われているが、「会議文化」も同じである。10年ほど前に書いたものだが、会議から離れた暮らしは憧れだった。
 

 「外人」か「外国人」かは、いまだによく使い分けることができないが、中国語の「外人wai4ren2」という立場なら、よく理解できる。

 

『外人一首千番愁』(会議篇)

  (2013-9-26)

 ある会議の席での出来事

外人:私はAだと思いますが、皆さんがBがいいなら、従います。

賢人:そんなことを言ったら、皆を敵に回しますから、言わないほうがいいですよ。

名人:Aと思ったら、最後までAと言わないと困ります。

外人:???!これは日本的な決め方?それとも…???

 

 意見を言ったら、その意見についての最後の結論がどうであっても、あくまでも私はその意見を持って、皆の決定に従わないと言うべき?

 

「和為貴」ということもあるし、「民主主義(民数主義?)」の国でもあるし…

 

 日本語がますます下手になったような気がしてならない。

 

 「根回しも以心伝心術もなき「外人」の吾文盲の如」

 

 これは、私のことを「外人」ではなく、日本人と同じように思ってくれたから?

 

 「読みにくき空気吸ひつつ「外人」と思われぬこと喜ぶべきか」

 

 先日、学生と異文化コミュニケーションの難しさについて話したら、先生のことを「仲間」と思われたじゃないと言われました。「仲間」というより中国語の意味での「外人wan4ren2」を強く意識してしまったのは、なぜ?

 

 「外人」は「外人」でよし軒の下頭さげでも腰まで曲げず

 

(N回目)

「そうですね」「難しいですね」「わからない」その場をしのぐ三種の神器

 

 「そうらしい」、「そのようです」、「そのような気がする」という言い回しを巧みに使う「仲間」たちが、会議が終了までに「結論」にまとまる日本式のまとめ方の凄さにただ閉口するのみ。

 

 「根回しの会議に出ればただ座り言ふに勝りて閉会を待つ」