前項の続き | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 「殺さんでも放っといたら死ぬんやで」

 と言っていたのは手塚治虫のブッダであります。

 

 

 「しかし死ぬまで長いやろ」
 「その間ずーっと『あああいつが生きていておもしろくない』と思わないといけないだろ」


 と若き日のあたしは思いました。

 今でも時々そう思います。

 

 でも殺すと多分もっとおもしろくないことになるから殺さないだけです。

 法律というのはそういうものです。

 その程度の機能しかないものだ、とも言えます。

 

 ついでに言うと、作中でのブッダのこの台詞は法律とかそういうものが通用しないアウトローな人物として描かれているアナンダ(正しくはアーナンダ。釈尊の高弟として実在した人ですが、本当はそんなおっかない人物ではなく、手塚治虫による脚色です)に向かって発せられたものであり、物語の舞台は二千五百年も前のインド、ネパールですから、現代先進国のような高度な法制度があるわけではもちろんありません。

 そういう世界で、「腹が立ったら相手を殺せばいいんだ」「ついでに金品も奪えばいいんだ」という価値観でずっと生きてきた人に向かってお釈迦様が発した言葉だってことを理解した上で読まないといけないと思います。

 (くどいようですが、本当のアーナンダはそういう人じゃないので、当然釈尊とそんなやり取りもしてないと思うので、間違えないで下さい)

 

 漫画の中のアナンダへの言葉として、ブッダは最後にこう付け加えるのです。

 「それより、おまえ自身がしっかり生きていくことだ」

 

 さて、本項では「法律や、他者による評価などが個人の行動を律するのでなければ、何がそれを律するのか」ということを考えてみたいと思います。

 

 「殺したいほど憎い相手が崖っぷちに立っている所に出くわして、その時誰も見ていなかったら、後ろから突き落とさない自信はない」
 「そんな状況があるわけないから言ってるだけ」


 と昔書いた記憶があります。
 気力ありませんが、探したらどっかにあるでしょう。

 (このブログには多分今はないので探さないで)

 

 普通の人は「殺したいほど憎い人間」なんていないでしょうから想像がつかないと思いますが、あたしにはいるのです。ここでは説明しませんけど度々書いてます。

 「なんてことを言う人なんだ」と思う方があるかも知れませんが、あたしはそんなにおかしいことだとは思ってません。だってそうなんだからそう書くしかないです。

 改めて考えてみるにつけ、やっぱり九割くらいはやると思います。
 後の一割はやりません。

 なぜかというと、あたしはカルマというものを信じているからです。
 ここでは詳述しませんが、信じるに足る根拠はあります。

 カルマ(業)ですね。元々は仏教用語です。いいことをすればいい報いが、悪いことをすれば悪い報いが、今世ではなくても生まれ変わってきっともたらされる、という信仰です。

 そもそも人間は生まれ変わるものだって前提があるわけですな。人間は死んだらそれで終わりなんじゃなく、別の世界に行くのでもなく(一旦は行くかも)、また違う人になって生まれてくる。そのまた前提にあるのが、肉体とか脳とかいうものとは別に、「魂」というものが存在する、という思想です。「生まれ変わる」主体は「魂」なわけです。そこに色々なことが記録されていて、生まれ変わってもリセットはされないのです。

 ここでは長く書きませんけれども、これらがただの「信仰」ではなくて、科学的にある程度証明なり推測可能な「事実」だとしたら、皆さんどうお感じでしょうか?

 話を戻しますと、一割くらいではありますがあたしはやりません。
 「そこで崖っぷちから相手を突き落としたら、一生誰にもバレなくても、生まれ変わっておもしろくない目に遭うかも知れない」
 という信念があるからです。

 後の九割は多分、「それでもいいや」と思って突き落とすんだと思います。

 それを言ったら「意外と利己主義者なんだ」みたいなことを言われたことがあります。
 いやそりゃそうじゃね?としか。

 あたしに何て答えてほしかったんでしょう。「やっぱり神様が人殺しはダメだと言ってるから」「やっぱり人を愛さないと、赦さないといけないから」「ダメなことはいつでもダメだ」とか言ってほしかったんでしょうか。冗談じゃねえ。そんなものクソ喰らえだ。

 

 一体全体、倫理とか道徳って何なんだろうなあ。ますますわからなくなってきた。

 

 「輪廻転生とか、そういうことを信じているならあなたはキリスト教を信じてるんじゃないじゃん」
 と何年か前、偉いお坊さんに言われました。

 それを言われるとアレなんですけど、まあでも人間は生まれ変わりますからねえ。これはもう絶対そうなんですよ。
 それで、人間が「カルマ」と呼んでいるようなものも多分あります。ある種の原則ですかね。

 魂というものはある。

 人間は生まれ変わる。
 しかも意味なく生まれ変わるわけではない。

 

 これ、どういうことだと思います?
 

 つまり、意味なく死んだり、生きていたりするわけじゃないということですよ。

 これってすごいことだと思いません?

 

 

 稲垣勝巳先生は、人類史上、その「科学的事実」に最も肉迫した方だと思っています。

 

 魂が現実にある、生まれ変わりが現実にあるということについては、稲垣先生の書籍やブログを読めば理解できます。

稲垣勝巳生まれ変わりの実証的探究 (samzense.blogspot.com)

 

 本文中であたしが「カルマ」と呼んでいる法則性については、まとめて書かれた記事はないと思います。あたしが稲垣先生のスクールで質問して、先生から直接お聞きした話です。

 何にせよ、人間は「意味なく生まれ変わっているわけではない」=「意味なく生きているわけではない」ことが、先生の著作や講義全体から伝わってきます。