【2015.9.18.の記事の再掲載です】
「『配偶者』という言葉の語源、前々から疑問に思ってました。
字から類推するに『神様が貴方の相手として偶然配った者』なんでしょうか?
運命の相手と思ってるだけに、『偶』の字にひっかかります。
私は“偶然”この人と結婚してしまったの?
誰か納得のいく説明お願いします」
ヤフー知恵袋から拾ってきたんですが、変な質問であります。
一体どんな素敵な旦那様で、どんなドラマティックな出会いだったのでしょうか。
あたしの友人にも、「恋愛や結婚はしたいけど、合コンやお見合いパーティや結婚相談所には行きたくない。だって運命的な出会いを求めているから」とか言う人がいるんですが、こういう人たちって、「運命の相手」とか、「運命的な出会い」とはどういうものだと思っているんでしょうか。
神があなたの為に練りに練ってくれたオリジナルな素晴らしいシナリオか。自分が一生懸命努力して獲得した成果か。人の力で起こせる変化は何も起こそうとせず、ただ自然の成り行きに任せて行き着く結末か。
あたしの同級生で、二十二歳でオーストラリアに留学して、そこでフランス人の男性と出会って、一緒に渡仏して結婚した人がいるんですが、「運命の出会い」ってこういうのだよなあ、と思う。まるで何者かの意思が働いているかのような、出来すぎた話であります。
確かに子どもの頃から、何か神に特別に愛されているような、類稀な資質を感じさせるオーラの持ち主でしたね。
でも、「じゃ『運命の出会い』って何です?」って訊かれたら、ハタと困ってしまうんです。
どんなに優秀で非凡な人であろうが、彼女はその男性に出会おうと思って(必然的に)オーストラリアに行ったのではない。彼も、彼女に出会おうと思って(必然的に)行ったのではないんです。
お互いが「たまたま(偶然)」オーストラリアに行って、「たまたま(偶然)」出会って、「たまたま(偶然)」好きになって結婚したに過ぎないのです。
いつ、どこで、誰と出会うか、その相手と惹かれあうかどうか、これは人間の力ではどうにもならないこと(である筈)なんです。誰にも決定権や選択権はない(筈な)のです。
神がよく吟味して選んでいるのか、それとも、この質問者が危ぶんでいるようにテキトーに選んでいるのかは知りませんが、どっちにしたってそんなに変わらんと思うんですね。自分が相手を好きなら、その人と一緒になれて幸せなら、どっちだってよくはないでしょうか。
そーゆー話になると、「神がよく考えて選んでいるんであれば、なんで離婚があるんだ」なんて言い出す人が出てきて、「だから離婚しちゃいけないんだ」と反論する人があり、「離婚するってことも含めて、神がその人の為に用意した学びなんだ」と主張する人もあります。
同様に、「誰でも生まれる前に、自分の家族や将来伴侶となる相手を選び、おおよその人生設計を立てて生まれてくる」「生まれてからも、全ての経験は魂レベルで自分が選んでいるんであり、望んでいるんであり、引き寄せているんだ」という説も大変人気です。
でも、あたしはそんな無意味で不毛な論争に関わる気は一切ない。ゴータマ・ブッダの言う「無記」を貫かせて頂きます。
無神論者「だから、神とか霊魂なんかないってことだよ。全てのことは『偶然』『たまたま』起こっているに過ぎないんだ」
うん。だからね、その「偶然」とか「たまたま」のことを、別名「運」とか「運命」って呼ぶんじゃありませんかね。
ある人が「運」悪く、泥棒に入られてしまった。飽くまでも「偶然(たまたま)」泥棒に目をつけられてしまったわけだが、昨日はあんなに金庫にいっぱいお金があったのに、今日はそれを失ってしまう「運命」だったんだなあ。
確かに、合コンや見合いパーティや結婚相談所というのは、「恋愛・結婚の相手を見つける為に」行く場所であり、ある意味これほど色気のないものもないとあたしも思いますし、居心地悪いと感じる気持ちもわかります。
でも、そこで「偶然(たまたま)」大好きな男性と巡り会えて、結ばれることができればそれでいいじゃないですか。それが二人の「運命の出会い」ってことになりはしないかな。「あの時あそこに行ってほんとによかった~」ってならないかな。
フランス人と結婚した同級生が、具体的にどのようなシチュエーションでその人と初めて会ったのかは知りませんが、もしかしたら、恋の相手を見つける為のパーティみたいなもので出会ったのかも知れませんしね。
それとも、ただ生活費を稼ぐ為だけに近所の自動車工場に勤めて、毎日センスのかけらもない作業服を着て全身油塗れになってぞっとするような単純作業を繰り返して、「偶然(たまたま)」同僚のぱっとしない男性を好きになって結婚するのが色気があるとでもいうのでしょうか。小説や映画のような「運命の出会い」だとでもいうのでしょうか。
いえ、勿論それだって「運命の出会い」です。どんな出会いだって「運命の出会い」なのであり、この世に「運命の出会い」でない出会いなどはないのです。
幸せに添い遂げる男女のことに限りません。結果的に別れに至るカップルだってそうですし、家族や友だちだってそうですし(家族だって自分で選んだ覚えはない筈です)、先程例に挙げました犯罪者とか、自分にとって嫌な人、シャレにならないくらい迷惑な人やものごととの出会いだって、「運命の出会い」です。
そいで、そもそも話の発端となった漢字の意味、成り立ちに戻りましょうか。
あたしも、「偶然」の「偶」と「遭遇」の「遇」はつくりが同じだな、「遇」というのは「偶然出会う」というようなニュアンスだから、何か関係があるのかな、おもしろいな、と前から思っていて、調べたことがあったんです。
「禺」というのは、人によく似た猿を象った象形文字なんだそうです。
これににんべんが付くと、「人に似せた像」という意味になります。「木偶」「土偶」「偶像」などのように使います。
で、人と像とで、「ペアになる」という意味が派生。「偶数」はここから来てます。二で割り切れる数を偶数といいますからね。
で、「誰かと誰か、何かと何かがペアになるのはたまたまである」から、「偶然」という意味が加えられたんだそうです。訓読みだと正に「偶(たま)に」「偶々(たまたま)」ですね。
この「偶」にしんにょうが付いたバージョンが「遇」、即ち、「偶然(たまたま)出会う」ということです。
浄土真宗門徒は、「出会う」を「出遇う」と書いたりするようです。
「誰かと誰かが出会うということは、人間の力でコントロールできるものではない。全て阿弥陀如来の御計らいによるものであるから、どんな出会いも、慎み深い畏敬の念を持って受け入れよう」
という思いが込められているように思えます。
ヤフー知恵袋の質問者さんは、「『配偶者』の『偶』は『偶然』という意味ではなくて『ペアになる』という意味だったのね」と大喜びしておられますが、だからその「ペアになる」のは「偶然(たまたま)」のことだから「偶然」って意味になったんですけどね。
確かにあなたは「偶然」その人と結婚したに過ぎないのですが、でもそれは同時に「運命の相手、運命の出会い」であり、もし神(仏)というものが存在すると仮定するならば、その者の選びに他ならないのです。
一生懸命考えてるか、それこそサイコロでも振って雑に決めてるかは知りませんけどね。
ところで、もし後者だとしたら、そのサイコロの出目を決めてるのは一体誰なんだ(((((((( ;゚Д゚))))))))
「配」の方は、「酒を配る(人)」がルーツなんだそうで、「側にいる(人)」「連れ添う(人)」という意味をも表します。「側にいる女性」「連れ添う女性」は「妃」ですな。
だから「配偶者」の「配」ってのは、「神が配った」とか「天の配剤」とかいう意味ではないようです。
皆さんとの「運命の出会い」に乾杯-☆
【2020.8.20.追記】
記事中に出てくる「運命的な出会いを求めているから、合コンやお見合いパーティや結婚相談所には行きたくない」と言っていた友人ですが、その後、そういうものは利用せず、これまたファンタスティックな巡り合わせで結婚され、一児の母となられました。
あまり詳しくは書けませんが、その発言をした当時、既に彼女の「運命の人」は現れていたのだった、というオチでしたね。
若干茶化したような調子で書いてしまったことをお詫びしたい(_ _)
地元に帰ってきました(刀折れ、矢尽きたってことです(^_^;)
彼女にはまだ会えていないのですが、旦那さんと息子さんにはお会いしました。元気でよかった。
かくれんぼ
https://www.youtube.com/watch?v=Zzrzxr1_shQ
いちば~ん近くにいる君に いちば~ん隠してた~
いちば~ん早く見つけたくて 広いこの空の下~(*´▽`)ノ♪