人知らぬ里に生ふる 四つ葉のクローバ 三つの葉は 希望 信仰 愛情のしるし | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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きみは愛されるため生まれた

https://www.youtube.com/watch?v=BCZ5LSc3hUE

 

【以下、2015.9.22.の記事の再掲載です】

 

 前項の記事を書いていて、念頭にあったのが中島みゆきさんの「糸」でした。
 
 「なぜ巡り逢うのかを わたしたちは何も知らない いつ巡り逢うのかを わたしたちはいつも知らない どこにいたの 生きてきたの 遠い空の下 二つの物語
 縦の糸はあなた 横の糸はわたし 織り成す布は いつか誰かを 暖め得るかも知れない」
 「縦の糸はあなた 横の糸はわたし 逢うべき糸に 出逢えることを 人は仕合わせと呼びます」
 
 国語の教科書にも載ってるらしいですが、見よ、これが文学ってものです。全く巧いことを言いおるなあ。
 
 で、ここで勿論注目に値するのは、「仕合わせ」という言葉の表記なんですね。敬称略で失礼しますが、みゆきはなんで「幸せ」という通常の表記を用いずに敢てこう書いたのか。
 その解釈はここではやりませんけども、わたくし、この歌詞を初めて文面で見た時(耳で聞いたんじゃなく)、「あ、『しあわせ』って元々そう書くのか」と思ったものでした。今でも、見る度に、「『幸せ』じゃなく『仕合わせ』なんだな」と意識しています。
 
 でも、詳しい語源まで遡ろうとまでは思わなかったんですが、今回、いい機会だから調べてみようと思いました。
 いや~、全く甘っちょろい時代になったもんですねえ。図書館まで行って重たい辞典をよっこらせと引っ張り出して机の上に広げなくても、部屋の椅子の上から一歩も動かず、たった五秒で何でも叩き出せるようになったんですから。情報の世界のどこでもドアみたいなもんです。
 
 「しあわせは、『しあわせる』(『する』+『合わせる』)の名詞形として室町時代に生まれた語。
 本来は『巡り合わせ』の意味で、『しあわせがよい(巡り合わせがよい)』『しあわせが悪い(巡り合わせが悪い)』と、評価語を伴って用いられた。
 江戸時代以降、『しあわせ』のみで『幸運な事態』を表すようになった。
 更に、事態よりも気持ちの面に意味が移って『幸福』の意味になり、『幸』の字が当てられて『幸せ』と表記するようになった」
 
 国文科だった学生時代、国語学の授業でこういうのやったなあ。いぇーい、青木先生見てるう?
 もうこうなったら学者とか失業やなあ、と思うのですが、でも考えてみたら、ネットの時代になっても正確な資料を提供する人は要るのですから、誠に仕合わせなことです。もしかしたらこのテキストを書いたのは青木先生かも知れません。
 
 ところで、「幸」とは何だ。
 
 グーグル検索で「幸せ 語源」と入力すると、予測候補で「幸せ 語源 タモリ」というのが出てくるんですね。
 あの森田一義さんが何を言っているのだ、と見てみますと、
 
 「『幸せ』っていう字は『手枷』(が語源)なの。
 昔の刑罰で。手に枷をはめる刑罰があって。
 それが『幸せ』っていう字になったんだけど、なぜかって言うと本当は『死刑』になるところを『手枷の刑』で(命を落とさずに)すんだっていうことが『幸せ』なの。
 だから幸せというのは前の上を見るんじゃなくて、後ろの下を見ること。
 望むものじゃなくて感じるもの」
 
 ホンマかいな、と追跡調査してみた所、どうやらこれは誤りのようです。
 でも、グーグルの予測候補で出てくるくらいだから、きっとこの説が巷では相当流布してしまっているんだろうなあ。
 
 いや、タモリさんの説明は部分的には合っているんです。
 「幸」という字は確かに、罪人が掛けられる手枷を象った象形文字なんですが、「もっと重い刑罰だった所を手枷で済んだ」じゃなく、「手枷を掛けられる(刑罰を受ける)危険を免れた」「手枷が解かれて晴れて自由の身になった」って意味になり、そこから「幸せ」「幸運」という意味へと広がっていった、ということのようです。
 
 だから、ちょっと強引な見方かも知れませんけど、やっぱタモリさんの言うことは違うな。
 「幸せ」というのは、「あの時よりマシだ」「あいつよりマシだ」「これ以上悪くならなくてまだマシだ」ってことではない。
 「何ものにも囚われない」「支配されない、抑圧されない、隷従しない」「何も罪を犯していない(または罪が許された)、恐れることも恥じることもない」ということなんだ。
 
 クローバーの三つの葉が表すのはそれぞれ、「希望」「信仰」「愛」、使徒パウロが説いたキリスト教の三美徳です。
 「信仰」という言葉が嫌いな人、キリスト教が嫌いな人は、「信頼」と置き換えてもいいかなーと個人的には思います(^-^)
 
 「残る一葉は 幸福(さち)
 もとめよ 疾(と)くその葉 希望深く 信仰固く 愛情厚くあれ
 やがて汝(なれ)も 摘みてとらん 四つ葉のクローバ」