【第十一夜:遊女セーヤー】
今夜は早めに上がらせてもらったので、子供を預かってもらってるヴェスタの事務所には午前零時をちょっと過ぎる頃に着いた。
門の所には、二、三回顔を見たことのあるあたしと同じ年くらいの用心棒が立っている。挨拶して、門を開けてもらった。
この時間になるともうノンナ・ベルラは帰っていて、他の人がいることが多い。玄関を通り抜けて「翼の間」に向かった。
あたしの子供、四歳になる男の子のテソロは、当たり前だし、いつものことだけどもうすっかり眠りこんでいて、ぽつんと灯った明かりの下に金髪の男の子が一人で座って番をしてくれていた。
「ダイヤじゃないか。奥で仕事してなくていいのかい?」
と呼びかけた。話したことはないけど、名前は知ってた。用心棒やってる連れの茶色い髪の子の方の名前は思い出せなかったけど。なんかややこしかった気がするし。
「よくお休みだったんですが、さっきちょっと起きて泣いてる声が聞こえたので、私がこっちに来て今寝かしつけた所です。今日は大仕事が三つも四つも立てこんでて、徹夜作業だそうで、フォーリャさんも残ってくれてるし、リュシオルさんも奥さんも、それとアリシアさんも来てくれてます。シャンさんもいたんですが、奥さんとお子さんの所に帰ってあげなさいと言われて帰られました。明日は五時起きだそうです」
あたしは鼻に皺を寄せて笑った。
「あたしの元旦那も人力車牽きだったからわかるよ。大変だよね。でも、シャンの所は夫婦円満でいいな」
「シヴィルさんもこれから来てくれるそうですから、まだもう少しゆっくりできます」
と言ってしまってから、ダイヤはちょっと口が滑ったという風にきまり悪げにした。
「へーっ!みんな仕事熱心だねえ。あたし頭悪いし、読み書きもあんまできないからなんも手伝えなくて、いつも世話んなるばかりで、ほんと悪いなあ」
「そんなことないです。セーヤーさんは洗いものや掃除やビラ折りもいつも一人でも黙ってやってくれるし、オルソさんの所の抗議行動にも何回も一緒に来てくれたし、寄付もまめにしてくれるって、みんな言ってますよ」
ダイヤが真顔で言うので、ちょっと照れてしまった。
「オルソのは寡婦と母子の家の関係もあってさ」
「テソロは今日もとっても元気に過ごしましたよ。昼間はパウラが絵本を読んだり、ヴェセルが遊戯盤で遊んだりもしてやってたみたいで」
「そうか~。よかった」
幼い息子のかわいい寝顔を見ていると、きつい仕事の疲れも吹き飛ぶ気がした。
世の中には、我が子を殴ったり蹴ったりする親がいるなんて信じられない。といっても、あたしの元旦那がそうだったけれど。挙げ句、どうせ俺の子じゃないだろうとか言い出すしさ。アホ、おまえにそっくりだっつの。
あたしはバカだけど、たとえ世界中を敵に回してもこの子だけは守ってみせる。あたしと違って、ちゃんと学校にも行かせてやりたいんだ。
「セーヤー、そのブレスレットいいですね」
息子の頭をそっと撫でているあたしの右手を見て、ダイヤが唐突に言った。
「ああ、これ?いいかい?安物で紛いものだよ。天然石ならこんなに毒々しいオレンジはないよ」
「リュシオルが着てる服みたいですよね」
「そういえば!同じ色してるね。一人だけあんな色の服着せて、体力あり余ってる若いもんに一日鋏で紙切るだけの仕事させるなんて、ほんとになんてひどいいじめ方だろう。リュシーみたいにデキる人をそんな扱いしたら、自分らだって損するのにね。実際、あたしらも利用しないように街の人たちに散々言ってるし、この件で悪評立ってるから黒蟻連の売上ガタ落ちらしいじゃん。ほんとバカ」
目を見張って憤慨しているあたしの横で、ダイヤはちょっと何かを思いついて思案しているような表情を見せていた。
「ダイヤ、まだ時間いいんだろ?あたし、前からあんたと話がしたくてさ。あんたに訊いてみたいことが色々あったんだ。もうじきあんたもこの街を出るんだし、最後のチャンスかも知れないしな」
改めて、自分と同じ年頃の坊さんの、自分と全然違っていかにも育ちのよさそうな白い顔をまじまじと見た。
「個人的なことですか?それとも、神様のこととか、そういうこと?」
「両方だよ。いや、『あんたほんとに童貞?』『女の裸見ても何とも思わないの?』とか訊かないから、安心してよ」
慌てて両手を振った。
すごく真面目に言ったんだけど、ダイヤは目ん玉引ん剝いて、真顔のまんま思いっきり吹き出した。茶でも飲んでなくてよかった。
ダイヤを取り乱させてしまったことをちょっと申し訳なく思いながら、彼が落ち着きを取り戻すのを待って、切り出した。
「ダイヤ、教えとくれ。あたしみたいな罪深い女は地獄に堕ちるのかい?」
ダイヤの表情は全然変わらなかった。いつものように、静かな微笑みを湛えたままだった。
ふと、ダイヤって前に座ってると蒲公英が咲いてるみたいな気がすると思った。
「誰がそう言ったのですか」
質問で返される、また、そういう風に訊かれると思わなかったので、ちょっと困った。
「誰ってこともないけど、いろんな人だよ」
「セーヤーはそれを信じるのですか」
ますます予想外で、ますます困った。ちょっと泣きそうになるくらいに。
「だから、それがわからないから、お坊さんに教えてもらおうと思って」
「では、私が地獄なんてない、地獄なんてないから誰もそこに往くことはないと言ったら信じますか」
あたしは黙ってしまった。
「そもそも、セーヤーは罪深いのですか。誰がそれを決めたのですか」
ダイヤの底の知れない深淵、闊い虚空そのものみたいな青い瞳が、何かの色を思い出させた。あの日、あの人が家の主人に振る舞われて飲んでた珍しい異国のお酒の色。
「ヴェスタ!あんた、弁護士のヴェスタさんだろ!?何とかしとくれよ!あたしと子供を助けとくれよ!あたしがちゃんと働いた分の給料が払われないんだよ!」
その夜、店で着るけばけばしいショッキングピンクの衣装のまま、きらびやかな装身具をじゃらじゃらいわせて、市議会議長の家で開かれていた宴会の席に駆けこんで行った。あたしとは対照的にまるっきり化粧っ気のない痩せた赤毛の女の前に突進し、足元にひれ伏し、顔だけ上げて訴えた。悔し涙が両目から溢れ出し、頬を伝い落ちた。
宴の席は一瞬静まり返った後、ざわついた。
「娼婦じゃないか」
「ヴェスタ、あんたはこんな者とまで口を利くのか」
紅一点の列席だったヴェスタはその人たちの十分の一も驚いた様子はなく、手にしていた杯から魅惑的な青いお酒を一口だけ飲み、置いた。眼差しだけでみんなを制した。
「お嬢さん、お名前を聞かせて下さい」
とても丁寧な声だった。今までこんな声、こんな言葉遣いで誰かから話しかけられたことはないくらいに。
「セーヤーです」
「セーヤーさん、どちらにお勤めですか」
「桃花殿です」
ヴェスタはあのすごく遠くまで通る、凛とした声でこう言った。
「誰ですか、今、『こんな者』と言ったのは。何がいけないのですか。この人は、決まった時間、決まった場所で、男性の相手をすることでお金を貰っています。それって労働ではありませんか」
「セーヤー、他にも訊きたいことがあるのでしょう」
ダイヤの声が、あたしを追憶から今へと引き戻した。
「そうだ。ダイヤ、あんたのことだ。あんたの両親はどうしてるんだい?いつからあのもう一人の子と、あと猫と旅してるんだい?ただの興味なんだけどさ」
「興味を持って頂きありがとうございます」
ダイヤはマジなのかボケなのかわからないような調子で答えた。
「猫は野良だったやつで、三年くらい前に私が拾って飼ってました。まだ生まれたばっかりで、母猫はいなくなってて、兄弟はみんな死んで鴉に啄まれてた所を、一匹だけ生き残ってたんです。
シャルギィ――シャルギエルとは二ヶ月半ほど前に出会って、一緒に旅立ちました。こんなのでいいですか?」
「へーっ!まだそんなのなんだ。なんか血の繋がった兄弟みたい、いや、寧ろ、長年連れ添った夫婦みたいに見えるよ。譬えが変だけど」
ダイヤはふふっという感じで笑って、「そういえば兄弟に間違えられたことって不思議とないんですよね」と呟いてから、
「両親はもう亡くなりました」
と、短く言った。
「へえ!?気の毒だね。あんたってあたしとおんなじぐらいだろ?お父さんお母さんってまだ若いだろ?一体なんで」
考えてみりゃ自分の生い立ちも大概だけど、人って自分のことは意外とかわいそうだとか不幸せだとか思わないもんなんだよな。だって、誰でも他人の人生を生きたことがあるわけじゃない、自分の人生しか生きられやしないんだから。
あたしの不躾な問いに、彼は気を悪くした風は見せず、でも、やっぱりごく短く、こう答えた。
「戦争で死にました。大量虐殺(ジェノサイド)です」
何と言っていいかわからず、尋ねたことを心から後悔した。でも、謝る言葉も出てこなくて、ただ沈黙した。
「相手の国は・・・・」
と言いかけて、ダイヤも黙った。その目が急に、殉教者みたいに、近寄り難いほど厳かな色を帯び、訳もなく二の腕に寒気を覚えた。何だか、大きな大きな岩山の、自分の手の届くほんのちょっとの範囲の表面だけを撫でているような気持ちになった。
さっき、ダイヤの目を深淵のようだって言ったけれど、静かな湖が昔は火口だったことを誰が知るだろうか?
神様を信じる人たちはよく「赦す」って言う。「赦す」ことで身軽になる、自分が解き放たれるとか言うけど、あたしは逆だと思う。
「赦す」って言うたんびに、その人が背負ってる十字架はますます重くなるような、そんな気がする。「赦す」相手や事柄が、少なくともその人にとってはとても大きなものであるほどに。
でも、あたしも神様はいるって思うんだ。これって信じてるってことになるのかな?
なんか話しこんでしまって、玄関の方で音がしたのに気が付かなかったみたいだった。
「お疲れ様で~す」
いきなり、眼鏡を掛けた爽やかな学者風の青年が「翼の間」に顔を出したのでびっくりした。
「おおっ、シヴィル、久しぶり~」
さっきまでものすごく真剣な話をしてたなんて素振りは全く見せず、いつもみたいに陽気に挨拶した。
「ダイヤさん、みんな来てるのかな」
法科大学院生のシヴィルは廊下の奥の執務室の方を見遣った。
「はい。人口密度すごいですよ」
言いつつ、ダイヤも重い腰を上げた。
「じゃ、ダイヤ、この子見ててくれてありがとね。あたし、これで帰るよ」
あたしもよっこらせとテソロをおんぶしながら、言った。