ナイツ(11) | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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【第七夜:リュシオル】

 

 仕事が終わってヴェスタの事務所に立ち寄った時には、もう日が暮れていた。

 今日に限ったことではないが、きつい一日だった。「書類を切り刻むだけの係なんか楽でいいじゃない」と言う人もあるし、確かに、荷馬車に乗っていた頃と違って決まった時刻に帰れるようにはなったから、妻と話す時間も増えた。一時は危機に瀕したこともあった夫婦仲も回復した。

 しかし、給料は半分になったし、椅子もない部屋で一日立ち作業なので足腰にも堪える。細かく切り刻んだ書類の粉が空気中に舞い散り、目が痛い。喉も痛いので仕事中はマスクをしている。両手は切り傷だらけだ。

 妻のラミタは今日、私の代わりにヴェスタの事務所で裁判の資料作りを手伝ってくれている。彼女を迎えに行って、今日はそのままどこかで一緒に食事をして帰るつもりだった。

 玄関口に来客が待ったり休憩したりするちょっとした広間があるのだが、思いがけなくもそこにはもう帰り支度をしたラミタの姿があった。しかも更に思いがけないことには、見たことのない十三、四の少年と一緒に、白い猫にミルクを飲ませている。

 猫はダイヤとシャルギエルが連れているシルクだとすぐわかった。門口にシャルギエルの姿は見えなかったが、彼らも既に出勤して来ているのだろう。

 「あら、あなた、おかえり」

 二人とも猫に夢中だったが、やっと妻が目を上げ、気付いた。

 少年の方は私と目が合うと、さっと妻と猫から離れて向こうの椅子に座り、テーブルの上に置きっぱなしにしていた遊戯盤で遊び始めた。「翼の間」と呼ばれる、いつも子供が出入りしている奥の部屋にあるやつで、クローバーの園で働く若き好事家のアレティが大量に寄付してくれたものの一つだ。

 「こんばんは」

 と私が言うと、彼はこっちを見て、ちょっと頭を下げ、挨拶を返した。

 「こんばんは」

 ここには本当にいろんな人が出入りしているので、私も初めて見る人がいてもいちいち気にしなかった。それに、元々人懐こい性分だ。だから、一日殆ど誰とも顔を合わせない、口も利かない仕事は本当はとても辛い。

 気が向いたので、そっちに歩いて行って少年の前に座った。

 「ぼく、猫が好きなのかい?」

 「『ぼく』じゃない。ヴェセルです」

 彼は遊戯をやめ、いかにもその年頃らしい、素っ気ない口ぶりで答えた。

 「そうか、ごめんごめん。ヴェセルは猫が好きなのかな?」

 「うん、まあ。おじさんも?」

 実は私はシャンより年上なのだが、二十代に見られることも多いので、ちょっとショックを受けた。

 「いや、ぼく、リュシオルっていうんだけど。ぼくのこと知らないかな?『黒蟻連裁判』って知ってる?」

 彼は首を振った。

 「ううん。黒蟻連は知ってるけど」

 「あ、そう」

 そりゃ子供は知らないか。

 「ぼくも妻も――あっちにいるのがぼくの妻のラミタね――猫が大好きで、裁判に勝って給料が元に戻ったら、猫を飼おうかと相談してるんだよ。といっても、何のことかわからないだろうけど。

ぼくらには子供がいないからね。でも、ペット屋で買うんじゃなくて、捨て猫か野良猫か、他所で飼えなくなった猫を譲り受けようと思っているんだ」

 少年は何とも言わず、神妙な瞳で聞いていた。

 「ヴェセルは大きくなったら何になりたいんだい?」

 会話の間を埋めるように、何気なく尋ねた。

 「何にもなりたくない。大人になんかなりたくない」

 彼はぽそっと呟いた。

 ちょっと意外だったので、問い返した。

 「どうして?」

 彼は身を固くし、視線を逸らすようにしながら言葉を継いだ。

 「だって大人になったら、なんにも楽しいことなんかないじゃないか。自分より偉い人や強い人の決めたことなら、嫌だ、おかしい、って思ってもその通りにしなくちゃならないんだろ。なぜ?って訊いちゃいけないんだろ。したいことでもしちゃいけなかったり、したくないことでもしないといけなかったりするんだろ」

 私は少しだけ黙ったが、口を開いた。

 「そんなことはない。そんなことはないよ、ヴェセル」

 私の強い口調に、少年ははっとし、再びこちらの顔を見た。

 「確かに、そういうこともある。それはとても残念なことだ。でも、そういう大人ばかりじゃないし、みんな大人になったらそうしないといけないわけでもないんだ。覚えておいてくれ」

 声と、少年を見つめた眼差しに更に熱と力を込め、私は宣言した。

 「ヴェセル、近い内に、それを必ず君の目に見せてあげる。約束するよ。このリュシオルの名前に懸けて、約束する」