「好きな人に他の相手がいても、本当に好きならその人の幸せを喜び、二人を応援してあげられる筈だ」
ってよく聞きますけど、偽善も暴論も甚だしいと思っていました。
「『好き』の意味が違うやろ」「そんなことある筈ない」って。
でも、もしかしたらあり得るかも知れないなあ、と思えてきました。
勿論、人や状況によりますし、それも極めて特異なケースだと思いますから、全ての人や状況にその考えを押しつけるのはおかしい、というのは変わりないですけどね。
ウォルター・ワンゲリンの「小説『聖書』 使徒行伝」のパウロと人妻プリスカ(プリスキラ)との決して一線を超えぬプラトニックな情愛が一つの理想形としてあります。
元ネタである新約聖書・使徒言行録によると、パウロはプリスキラ夫婦(クラウディウス帝のユダヤ人追放令でローマを追われたキリスト教徒。コリントで伝道旅行中のパウロに出会う)の家に居候してたんですよね。
ワンゲリンの描くパウロがまた、カッコいいヤツなんであります(*´▽`*)
その不屈の男・パウロが拷問された傷の痛みに苦しんでいて、プリスキラが介抱する小説オリジナルのシーンがあります。
未明の頃で、プリスキラの旦那は寝てて、パウロは手当てをしてもらいながら、誰にも話したことのない、しかし彼にとって一番大切な心の秘密を彼女だけに明かすのです。
パウロがプリスキラ夫婦と一緒に暮らしてたのも、しょっちゅうボコボコにリンチされてたのも聖書の記述通りですが、小説家の妄想力ってすごいですよね( ̄^ ̄;)
前々項で紹介した日本聖書協会が出してるコミック版の聖書だと、パウロがまたチャーミングなイケメンで、プリスキラがまたかわいくて、「この絵でワンゲリンのシナリオをカバーしてほしい」と思いました。ややこしいな。
ちなみにパウロは生涯妻帯しなかったそうです。これ、当時としては結構異例のことです。