そろそろ本気出して考えてみる同性婚の意義と正当性または不当性 | 星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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前から言っております通り、男女のカップルが法的・社会的に優遇される制度、つまり結婚制度というのはそもそも何の為にあるかというと、男女がカップルになれば子どもが生まれるから。というより、元々オスとメスがつがいになるのは子どもを作る為だから。だとあたしは思います。

 つまりそこに立てば、子どもを持たない(持てない)男女まで同じように法的・社会的に優遇されるのは本当はおかしいということになります。

 しかし現行法では、とりあえずセックスの関係のある(ことになっている)男女のペアなら、子どもがいるいない、予定があるないに関わらず、結婚制度という名の優遇制度を使えるようになっています。

 だったらセックスの関係のある同性のペアに同等の権利が認められないのはおかしい、という話になってきます。愛しあっているのは同じなんですからね。

 というわけで、仮に同性婚が認められたとします。

 

そしたらまた今度は一歩進んで、じゃセックスの関係のあるなしに関わらず認めてくれ、即ち、ゲイやレスビアンの関係じゃなくただの同性の友だちどうしでも、二人で仲よく暮らしてるなら法的・社会的に優遇して、って話になりますわね。

「ただの」って言い方おかしいな。セックスの伴う愛の方が伴わない愛(友情、同志愛、師弟愛など、とにかく恋愛・性愛以外の連帯意識)よりも格が上だってことはないですからね。最近の私的見解としては、寧ろ逆じゃね?と思ってるくらいなんで(^皿^)
 

(いずれにせよ、そもそも現段階でも、べつに法的な婚姻の条件としてセックスの関係のあるなしなんか明文化されてはいない筈で、条件だったとしてもそんなもん国が調査できるわけがありません。調査できるんだったら嫌ですよねえ(-.-)
 

渋谷区・世田谷区の「パートナーシップ制度」に対しまして、仮に「フレンドシップ制度」とでも名付けますけど、で、それも認められましたと。

 

そしたら今度は、なんで二人で暮らしてるヤツが一人で暮らしてるヤツより偉いんだ、税金がお得になったりとかして優遇されるんだ、一人で暮らそうが二人以上で暮らそうが、誰が誰とどんな暮らしをしようが勝手なのに、一人暮らししたいヤツが不利になる、差をつけられるなんておかしい、って話になります。

 

「結婚」というものの持つ「公的認知」という社会的・精神的側面を考えると、同性婚は必ずしも意義のないことではなく、寧ろ大いに意義のあることかも知れません。

実際、アメリカで同性婚の認められた州で青少年の自殺率が明らかに低下したという、感動的ですらある研究結果もあります。他に、同性愛者が精神科を受診する率が低下したというデータもあるそうです。

 

でも、敢て誤解を恐れずに言うと、そもそもオスとメスがつがいになるのは何の為か?というのを考え出すと、何やら本末転倒な気がしないでもありません。

その「公的認知」ってのもそもそも、「男女の間には子どもが生まれるから」って所から始まっていると考えられますからね。子どもがいないんなら、「わたしこの人とセックスしてるのよ~」「この人以外とは一生しないのよ~」って他人に触れ回る必要は(本来なら)ないと思いませんか?

実は、「この人以外とは一生しない」と万人に(神に?)誓約を立てる必要もべつにないんであります。

 

決して、「同性婚など間違っている。そんなもの認めるな」と言いたいわけではないですよ。

 

ただ、さっきちらっと言いましたように、性別に関係なく、「性交の関係があるから深く愛しあっている。神聖にして不可侵であり、他の人間関係とは違って色々な面で特別扱いされるべきだ」という考えはケッタクソ悪いと思うだけです。