「これで万事首尾よく整いました。ヒトラー総統、これからはヨーロッパの平和を作るために協力して下さい」
十九世紀風のオールドファッションに身を包んだその上品で温和な英国紳士は、堅苦しいキングズイングリッシュでそう言った。
「ええ。我がドイツの要求が認められるなら、戦争など行いませんとも」
声をかけられた黒髪の男は微笑んだ。彼の故郷を流れるドナウのように青い目が狡猾に光る。
しかし、英国人は何も気がつかなかった。どんな時にもステッキ・アンブレラを手放さず、この会談以降「アンブレラ・マン」と呼ばれることになる男。ネヴィル・チェンバレン、エドゥアール・ダラディエ、ベニート・ムッソリーニ、そしてアドルフ・ヒトラー。四人の署名捺印がされた書類を嬉しそうに見つめている。
青い目の男は側に立つドイツ陸軍参謀本部の将官の耳元近くに顔を寄せ、ドイツ語で囁いた。
「こいつバカか。こんな紙を信じるなんて」
将官は、今やすっかりリラックスして自分の側近と何ごとか話し始めている英国人を見て同情した。ぬくぬくと育った二世政治家の彼などが、我々の総統に太刀打ちできるはずがない。早くに両親を亡くし、第一次世界大戦の戦火の下で砲弾を搔い潜り、上官たちの夜のお相手をして、異邦の地で一癖二癖もある荒くれどもを組織し、一代でルンペン絵描きから一国の総統にまで上りつめた男。ネヴィル・チェンバレンなど、赤子の手を捻るようなものだ。
かわいそうに、あの男。ただあまりに善良すぎただけだろうに。芯から戦いが嫌いで、我が総統にも良心があると信じているんだろう。
今後、イギリスには必ず、チェンバレンよりも強く、賢明な指導者が必要になる。その男こそが恐らく、総統の最大の敵だ。
将官は再び、総統に目を戻した。総統は手持ち無沙汰そうに、顔の前で指を組み、何か伝えたいことでもあるのか、ムッソリーニに目配せをしている。曾ての貧しく弱々しい絵描きの青年は、今や世界の運命を決するほどの胆力あるふてぶてしい男になった。
この日、チェコスロバキアのズデーテン地方をドイツに割譲することが決定されたが、会議では一言の発言も許されず、終始別室で待たされた同国の代表のことは、誰一人思い出すこともなかった。
The peacemaker has not come yet.
Ende


















