星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 エリシア王国北辺の古城、ヴェルミリオーネ。
 そこに棲むのは、黒い薔薇だけが咲き乱れる庭と、七人の女たちだった。

 

 母 イザベルは、娘のセレステを「生まれながらの欠陥品」と呼ぶ。
 セレステは生まれつき右目の色が薄く、それが「王家の血を穢した証」だとイザベルは言い張る。
 だが本当は、娘の瞳が自分より澄んでいることが許せなかった。

 

 姉 ロザリンドは、かつての美貌を呪いのように保ち続けている。
 妹 カミーユは、姉の美貌を「盗んだ」と信じて疑わない。
 「あなたは私の若さを吸い取ったのよ」と、毎夜のように鏡の前で呟く。

 

 叔母 マルグリットは、姪のセレステを溺愛していた——かつては。
 セレステが成人し、城の薔薇庭を「自分の庭」と宣言した日から、叔母の目は氷になった。
 「お前が触れた薔薇はすべて枯れる」と呪いの言葉を吐きながら、夜な夜な黒い棘で自分の掌を刺す。

 

 従姉妹のリリアナとエレノアは、互いの髪を切り落としたい衝動に駆られている。
 リリアナの金髪は「太陽の欠片」と呼ばれ、エレノアの銀髪は「月の刃」と讃えられた。
 しかし二人は、相手の髪が自分の光を奪っていると確信していた。
 ある夜、エレノアはリリアナの髪に毒を仕込み、リリアナはエレノアの枕の下に短剣を隠した。
 どちらも実行しなかった——まだ。

 

 七人は毎夕、黒曜石の食卓を囲む。
 誰も口を開かない。
 ただ、薔薇の棘が刺さる音だけが響く。
 それは誰かが自分の指を故意に傷つけた音だ。

 

 イザベルが最初に立ち上がり、言った。
 「今夜こそ、誰かが死ぬべきね」

 

 誰も答えなかった。
 だが全員が、同じことを思っていた。
 ——私が殺す側でなければ、殺される側になる。

 

 黒い薔薇は、その夜も静かに散った。
 誰の血で濡れたのか、誰も知らない。
 知っているのは、残った六人が、明日もまた同じ食卓に座るということだけだ。

 締め切り前夜、レディースコミック作家のトゥナイト先生の事務所は戦場だった。
 原稿用紙が床に散らばり、インクの匂いとインスタントコーヒーの焦げ臭さが混じり、蛍光灯がチカチカする。
 アシスタント六人が、机を寄せ合って一つの大きな食卓を囲んでいる。
 女性ばかり、ほとんどが既婚。
 葵は端っこの席で、黙々とトーンを貼っていた。

 

 葵はアシスタントから漫画家デビューして、今でも暇な時は他の漫画家のアシスタントにも行っている。

 漫画家のアシスタントは締め切り近くなると漫画家のオフィスに泊まりこんで、大勢で一つの食卓を囲んだりもする。

 既婚女性が多ければ「夫との馴れ初め」とかそういう話になる時もある。

 

 「はー、今日も死ぬかと思った」
 一番年上のアシスタント、五十代後半の美紀さんがビールをプシュッと開ける。
 「でもさ、トゥナイト先生の原稿、今回マジで神回だよね。読者泣くわ」
 「泣くねえ。泣く」
 皆が笑う。
 缶ビールが回り、ポテチの袋が破られる。
 泊まりこみの夜は、いつものように「本音トーク」の時間になる。

 

 「そういえばさ、私なんか大昔に不倫されたんだけどさ〜」
 美紀さんが唐突に切り出した。
 「え、マジで!?」
 「マジ。旦那が会社の後輩妊娠させてさ。女が『産む』って言ってきたから、私、直接電話して『お金渡すから中絶して』って交渉したよ。結局別れさせたけどね」
 「うわー、最強!」
 「いや、最低でしょ。でもさ、人の亭主盗ろうとする女ってほんと最低だよね。今に罰が当たるぜ」
 「当たる当たる! 天罰だよ天罰!」
 皆がゲラゲラ笑う。
 隣の若い子が続ける。
 「私も似たようなのあったわ。友だちと一緒に出かけた時にたまたま旦那の浮気相手と出会ったから、『黒田の家内ですけど!』って呼び留めたら、『あなたみたいな女がいるから家庭が壊れるんだ!』って言われて、なんか逆にスカッとした」
 「わかるー! 壊す側が一番被害者ヅラするよね!」
 「ねえ、トゥナイト先生はどう思う?」
 バツイチの先生は苦笑いしながら手を振る。
 「わたしはもうそういう話、聞きたくないわ。描くのは好きだけどね」
 また笑い声が上がる。

 

 葵は、トーンを貼る手を止めた。
 笑顔を貼り付けていたが、頬が引きつる。
 指先が微かに震え、ペン入れがカタンと音を立てた。

 

 「葵ちゃんはどう? 何かそういう経験ある?」
 美紀さんが無邪気に振ってきた。
 一瞬、部屋が静かになる。
 皆の視線が、端っこの席に集まる。
 葵はゆっくり息を吸い、
 「…ないよ」
 とだけ言った。
 声が少し上ずっていた。

 

 「えー、ほんと? 葵ちゃんって清楚系だからなあ。絶対モテるでしょ」
 「いやいや、葵ちゃん結婚してるし子供もいるし、モテてもそういうのしないよ」
 「そっかそっか。いい子だねえ」
 皆がまた笑う。
 話題はすぐに次の人の話に移った。
 「私なんかさ、浮気された後に彼氏のスマホ覗いたら…」 

 

 葵はペン入れを握りしめたまま、視線を原稿に落とした。
 心臓がドクドク鳴っている。
 耳の奥で、美紀さんの言葉がリピートされる。
 「人の亭主盗ろうとする女は最低。今に罰が当たるぜ」
 「罰が当たる」
 「最低」

 

 彼女は、ゆっくりと息を吐いた。
 誰も気づかない。
 誰も、彼女が十六歳年上の既婚男性と始まった恋を、計画的妊娠というカードで不妊の奥さんから「奪い取った」ことを、知らない。
 知らないままで、笑い合っている。

 

 葵は、そっとトーンを一枚剥がした。
 指先が白くなるほど力を込めて。
 剥がれたトーンは、まるで自分の仮面みたいに、薄く透けていた。
 奥に隠れている本当の顔は、誰も見ていない。
 見たくない。
 見られたくない。

 

 泊まりこみの夜は、まだ終わらない。
 缶ビールのプシュッという音が、また響く。
 葵は、もう一度、笑顔を貼り付けた。
 誰も気づかない、マトリョーシカの一番奥で、空っぽの、怖い顔をした人形のように。

 葵の新刊発売日。
 親族のLINEグループが一気に賑わう。
 「葵ちゃんの新作、異世界王子様に溺愛される令嬢もの! 超甘い♡」
 「表紙の王子様、イケメンすぎる~!」
 姉がさっそく書店で複数冊買い込み、皆に配る。
 誰もが「プロの仕事、素晴らしいわね」と口を揃える。
 略奪婚の過去? そんな話は誰も出さない。
 むしろ「葵ちゃん、幸せそうだし、いい旦那さんでよかったわよね」と、都合よく美談に変換されている。

 

 

 わたしは黙ってスクロールを止めた。
 『神の手』の最新コメント欄に、外部の読者が書いている。
 「この輪廻の苦しみ、リアルすぎて胸が痛い」「作者さんの経験がにじみ出てる」「こんな小説見たことない……!」
 嬉しい。
 でも、この家では誰も触れない。

 

 夕食の席で、兄がふと漏らした。

 「葵の漫画みたいに、甘々でハッピーエンドの話がいいよな。現実みたいにドロドロしたの、読むの疲れる」
 皆が笑う。
 わたしは静かに言った。
 「葵ちゃんの漫画、異世界の王子様が令嬢を溺愛する話だけど……あの、王子様が幼い時、性的に虐待した王子様の叔母さんが不倫に溺れて子宮癌になって死ぬ話、葵ちゃんはどういう気持ちで描いたんだろうね?」
 テーブルが凍った。
 姉が慌ててフォローする。
 「まあ、そんな昔の話! 今は幸せなんだからいいじゃない」
 「幸せ……か。16歳年上で既婚の人を計画的妊娠で奪い取って、子供の産めない奥さんを追い出したのに?」
 誰も目を合わせない。
 兄が咳払い。
 「それは……まあ、運命だったんだろ。漫画みたいにロマンチックに描いてるんだから」 

 

 わたしは続けた。
 「だったら、葵ちゃんが自分の経験をそのまま描いたら? 不倫の始まり、妊娠発覚、奥さんの絶望、裏切られた怒りと悲しみ……全部入れて。
 異世界設定なんかじゃなく、現実を名前だけ変えて書いたら、よっぽどおもしろいのに。
 読んだら、きっと誰も『甘い♡』なんて言わないよ。
 でも、それこそ本当の『溺愛』の代償だよね」

 

 沈黙が続く。
 姉が無理やり話題を変える。
 「そういえば、葵の新刊の次巻、予約しとこうかしら!」
 皆がホッとした顔で頷く。
 わたしはスマホを閉じた。
 幻想は甘い。
 でも、現実は甘くない。
 葵はそれを糖衣で包んで売ってる。
 わたしはそれを剥がして、輪廻の苦しみとして書く。
 家族は甘い方を買う。
 現実の方は、怖くて読まない。タダでも読まない。

 

 いつか、誰かが、剥がした糖衣の下を見たくなる日が来るかもしれない。
 それまで、わたしは書く。
 甘くない真実を、ちゃんと。

 

 定年を過ぎた両親の家で、いつものように親族が集まった。

 テーブルの上には、この場にはいない遠い親類の葵の最新コミックスが積まれている。表紙には豪華な衣装を着た王侯貴族のような男女が描かれ、帯には「累計発行部数10万部突破!」の文字。
 「葵ちゃんの漫画、今回もすごいわねえ。エロいシーンも入ってるみたいだけど、プロだから仕方ないわよね」
 姉が笑いながら言うと、皆が頷き、誰かが「わたし、二部買って友だちにもプレゼントした」と言い出す。誰もまだ読んでいないのに、すでに「名作」扱いだ。

 

 わたしは隅でスマホをいじっていた。
 通知に『神の手』最新章の感想が届いている。外部の読者から。「こんな小説見たことない」「輪廻が胸に刺さる」「第五章で泣いた」。
 嬉しいはずなのに、胸がざわつく。なぜなら、この部屋にいる誰もが、わたしの小説の存在すら口にしないから。

 

 兄が突然、声を上げた。
 「そういえば、ナナのブログ見たよ。あれ、何だか知らないけど、私小説だか何だか……もう、ぼくたちのことを書かないでほしいなあ」
 皆がくすくす笑う。
 「私小説って何?」と誰かが聞くと、兄は肩をすくめた。
 「知らないけどさ、自分のことばっかり書いてるんでしょ? 悪口とか、変なこととか」

 

 わたしは静かに言った。
 「読んだの?」
 「……いや、読んでないけど」
 「じゃあ、どうしてわかるの?」
 「読まなくてもわかるよ、そんなの。それに、あんたの文章って難しいんだもん。漢字ばっかりで、知識ひけらかしてるみたいで読みにくいし」
 姉が付け加える。
 「それに、なんか……怖いんじゃない? 読んだら、わたしたちの昔の話が出てきそうで。性的なことも書いてるんでしょ? 葵ちゃんの漫画みたいにハードなの?」

 

 部屋が一瞬静かになった。
 葵の漫画の「ハードなシーン」は、皆が買って褒める対象なのに、わたしの小説の「あるかないかもわからない性的描写」は、触れたくない毒だ。
 プロのものは「支援」で済む。タダのものは「脅威」になる。

 

 わたしは立ち上がって、静かに言った。
 「『神の手』は輪廻転生の話だよ。過去を繰り返す苦しみと、そこから抜け出すための物語。実話ベースだけど、フィクションとして昇華してる。
 読まなければ、何もわからない。読まないで『書かないで』って言うのは、知りたくないってことだよね。
 怖いなら、それでいい。でも、『何だか知らないが』じゃなくて、ちゃんと知ってから言ってほしい」

 

 誰も答えなかった。
 兄は咳払いをして、話題を変えた。
 「さて、次は葵ちゃんの新刊の話しようか。今回のクライマックス、すごいらしいよ!」
 皆がまた笑い出す。
 わたしはスマホを閉じて、部屋を出た。
 外は静かだった。
 新しいページはまだ、誰にも開かれていない。
 でも、いつか、誰かが――知りたくて、怖くても――開く日が来るかもしれない。

 

 それまで、わたしは書く。
 読まない人たちのためにじゃなく、読みたい人のために。

 「マトリョーシカ」というものをご存じでしょうか。

 

 かわいいお人形が入れ子になったものです。

 外側はかわいい人形、開けるとまたかわいい人形、でも一番奥には「本当の何か」が隠れています。

 

 空っぽだったり、全くかわいくない、怖い顔の人形だったりするみたいです。