星垂れて平野闊く 月湧いて大江流る

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 頑張って作ったので貼っとく。

 

 

「きよしこの夜」

 

고요한 밤 거룩한 밤

ゴヨハン バム ゴルッカン バム

(静かな夜、聖なる夜)
어둠에 묻힌 밤

オドゥメ ムチン バム

(闇に包まれた夜)
주의 부모 앉아서

ジュイ ブモ アンジャソ

(主の両親が座って)
감사 기도 드릴 때

カムサ キド ドゥリル ッテ

(感謝の祈りを捧げるとき)
아기 잘도 잔다

アギ ジャルド ジャンダ

(赤子はよく眠る)
아기 잘도 잔다
アギ ジャルド ジャンダ

(赤子はよく眠る)

 

고요한 밤 거룩한 밤

ゴヨハン バム ゴルッカン バム

(静かな夜、聖なる夜)
영광에 둘린 밤

ヨングァンエ ドゥリン バム

(栄光に包まれた夜)
천군 천사 나타나

チョンゴン チョンサ ナタナ

(天の軍勢の天使たちが現れ)
기뻐 노래 불렀네

キッポ ノレ ブッロンネ

(喜んで歌を歌った)
구주 나셨도다

グジュ ナショッドダ

(救い主がお生まれになった)
구주 나셨도다
グジュ ナショッドダ

(救い主がお生まれになった)

 

고요한 밤 거룩한 밤

ゴヨハン バム ゴルッカン バム

(静かな夜、聖なる夜)

동방의 박사들

ドンバンイ パクサドゥル

(東方の博士たち)

별을보 고 찾 아와

ピョルルボ コ チャジャワ

(星を見て探しに来て)

꿇어 경배 드렸네
クルオ キョンベ ドゥロンネ

(跪いて敬拝を捧げた)

구주 나셨도다

グジュ ナショッドダ
(救い主がお生まれになった)

구주 나셨도다
グジュ ナショッドダ

(救い主がお生まれになった)

 

고요한 밤 거룩한 밤

ゴヨハン バム ゴルッカン バム

(静かな夜、聖なる夜)

주 예수 나신밤

ジュ イェス ナシンバム

(主イエスがお生まれになった夜)

그의 얼굴 광채가

クイ ウルグル クァンチェガ

(彼の顔の輝きが)

세상빛 이 되 었네

セサンビチ イ デ ヨッネ

(世界の光となった)

구주 나셨도다

グジュ ナショッドダ

(救い主がお生まれになった)
구주 나셨도다
グジュ ナショッドダ

(救い主がお生まれになった)

 

 

 メリークリスマス!(≧▽≦)

プロンプト:

 

 彼らは人の共感を求めないし、彼ら自身、人に共感することがないので、孤立する傾向があるように思います。しかし、それでは大きな組織力は得られにくいと思います。たった一人で大きな組織を破壊してしまうパワーは凄まじいと思いますが、彼らはそれを自分の強さ、賢明さのように誤解している所が厄介です。

 

 

 

 おっしゃる通り、好訴症(querulous paranoia)の人々は、他者への共感が著しく欠如しやすく、自分への共感も求めない傾向が強く、それが深刻な社会的孤立を招きます。これが彼らの行動パターンをさらに悪化させる一因となっています。一方で、ユーザーが指摘するように、一人で大きな組織や機関に執拗に挑み続け、時には業務を混乱させたり多大なコストを強いる「破壊力」 は確かに凄まじく、それが彼ら自身を「賢明で強い戦士」と誤認させる点が、問題の厄介さを増しています。以下で心理的な背景を整理します。

 

 

共感の欠如と孤立の悪循環

 

 好訴症の人は、妄想性パーソナリティの特徴として、他者の感情や視点を理解・共有する能力(共感性)が低下しています。研究では、パラノイア(妄想傾向)が高い人は、他者の感情を正しく読み取れず、敵意や脅威として誤解しやすいため、社会的引きこもりや孤立を招きやすいとされています。これがさらに妄想を強化する悪循環を生みます:

  • 共感を求めない・与えない理由: 彼らは「自分が絶対的な被害者で、他者はすべて敵か無能」と信じ込んでいるため、他者の共感を必要とせず、むしろ「味方になるはずの人が裏切った」と解釈します。家族や友人さえも遠ざけ、孤立を深めますが、それを「正義のための孤独」と正当化します。
  • 孤立の結果: 社会的ネットワークが小さく、サポートが得られないため、追求がますます個人的・執拗になります。通常の人なら周囲の説得で止まるような行動も、孤立ゆえにエスカレートします。

 この孤立は、組織力(支持者集めや集団的な影響力)をほとんど得られない原因です。彼らは他人を巻き込もうとしますが、共感の欠如と攻撃的な態度が原因で、支持者はほとんど現れず、一匹狼のような存在になります。

 

 

一人で「大きな組織を破壊」するパワーとその誤解

 

 確かに、たった一人で裁判所、行政機関、企業などを何年も巻き込み、膨大な時間・金銭・人的資源を消耗させる影響力は強大です。研究でも、こうした「異常な持続的苦情者」(vexatious litigants)は、組織に深刻な混乱を引き起こすと指摘されています。例えば:

  • 繰り返しの訴訟や苦情で、相手側が対応に追われ、業務が停滞したり、巨額の弁護士費用が発生したりします。
  • 時には脅迫的な行動にエスカレートし、組織の安全を脅かすケースもあります。

 しかし、これは組織力によるものではなく、制度の盲点(誰でも訴訟を起こせる権利)を悪用した「消耗戦」 の結果です。彼らはこれを「自分の賢明さと強さの証明」と誤解します:

  • 妄想が「私は正義を貫く英雄で、巨大な敵を倒している」と膨張させるため、失敗(敗訴や債務)さえ「さらなる陰謀の証拠」と解釈。
  • 実際は自己破壊的で、周囲を疲弊させるだけですが、本人には「勝利感」や「使命感」が残り、学習・反省が起きません。

 この誤解が最大の厄介さです。共感があれば「相手の負担」や「無意味さ」に気づくはずですが、それが欠如しているため、止まるきっかけがなく、人生全体を費やしてしまいます。稀にナルシシズム(自己愛性)の要素が混在し、「特別な自分だけが真実を見抜いている」との優越感を強めるケースもあります。

 結局、彼らの「パワー」は本物の影響力ではなく、システムの隙を突いた持続的な迷惑行為に過ぎず、最終的に自分自身を最も傷つけるものなのです。こうした人に関わる場合、周囲は境界を設定し、専門的な介入(精神科)を検討するのが賢明です。おっしゃる洞察は、まさにこの状態の本質を鋭く捉えています。

 

 

プロンプト:

 

 好訴症の人が何年も前のことを何度も蒸し返して昔の知りあいに訴訟を起こし続けるのはなぜですか?どう考えても無理筋の訴えを起こして敗訴し続け、莫大なお金を費やし、逆に巨額の債務をしょいこんでもちっとも学習しないのはなぜですか?彼らは「人に愛されたい」「嫌われたくない」「自分の評判を落としたくない」「そもそも無闇に人と争っても無意味だ」とは思わないのでしょうか?

 

 

 

 好訴症(litigious paranoiaやquerulous paranoiaとも呼ばれる)は、精神医学的に妄想性パーソナリティ障害やパラノイアの一形態として扱われることが多く、個人が現実的な根拠が薄いにもかかわらず、過去の不満や被害を執拗に追求し、繰り返し訴訟を起こす状態を指します。このような人々が何年も前の出来事を蒸し返し、無理筋の訴えを続け、敗訴や巨額の債務を繰り返しても学習しない理由は、主に心理的なメカニズムに起因します。以下で詳しく説明します。

 

 

なぜ繰り返し訴訟を起こし続けるのか?

 

 好訴症の人は、強い被害妄想や不正の確信を抱いており、これが現実の証拠や失敗を無視させる根本原因です。具体的に:

  • 妄想の強固さと先入観の支配: 彼らは初期の「被害」(実在する場合もあるが、しばしば誇張されたもの)を起点に、妄想が徐々に拡大します。失敗や敗訴は「さらに大きな不正の証拠」と解釈され、むしろ追求を強化します。例えば、裁判所の決定を「陰謀」や「無知」として退け、自身の正義感を絶対視するようになります。このため、何年も前の出来事を蒸し返し、知り合いを巻き込む訴訟を繰り返すのです。
  • 執着と持続性の心理: 人格的な素因として、極端な自己中心性、疑心暗鬼、完璧主義が挙げられます。これにより、追求が「人生の正当化」や「公的認識の獲得」といった目的に変わり、解決ではなく紛争の継続自体が目標になります。家族や仕事の崩壊、経済的破綻を招いても、こうした「使命感」が優先され、止まらなくなります。
  • 研究では、こうした人々が40〜50代で発現し、男性に多い傾向があり、事前の精神疾患歴がなくとも突然エスカレートすると指摘されています。
  • 学習しない理由: 通常の人は失敗から学びますが、好訴症の場合、反芻思考(同じ考えをぐるぐる繰り返す)が強く、敗訴を「自分の誤り」ではなく「他者の悪意」と見なします。これが債務の蓄積や社会的損失を無視させるのです。無意識的に、心の「しこり」を除去しようとする動機が働きますが、それが逆効果となり、さらなる追求を生みます。

 

なぜ「人に愛されたい」「嫌われたくない」と思わないのか?

 

 好訴症の人は、こうした社会的欲求をほとんど考慮しません。むしろ逆の心理が働きます:

  • 敵意と孤立の傾向: 彼らは他人を信用せず、行動を「敵意」や「陰謀」と誤解しやすいため、親密な関係を築けません。侮辱や軽蔑を感じると長期的に恨みを抱き、すぐに逆襲します。結果として、家族や友人を遠ざけ、孤立を深めますが、それを「正義のための犠牲」と正当化します。
  • 社会的意味の無視: 追求の過程で、評判の低下や無意味な争いを避けたいという意識は薄く、むしろ「復讐」や「公的暴露」を求めます。これは、妄想が社会的なつながりより「正義の達成」を優先させるためで、無闇に争う無意味さを認識しません。愛情や承認を求める欲求は、被害妄想に埋もれてしまっているのです。

 このような行動は、遺伝的要因や環境的ストレス(例: 過去の失望)が絡む場合が多く、治療が難しく本人に病識がないことが課題です。最終的に、彼らの人生は自己破壊的になりますが、それが妄想の論理内で「意味がある」と信じ込んでいるのです。

 「これはどういうことだ!説明しろ!」

 

 「ええ、ですから私は・・・・」 

 

 「そんなことない!悪いのは全部おまえ!どうたらこうたら!」 

 

 「話を聞けよ!わからん人だな」 

 

 「今、私のことを『わからん人』と馬鹿にした!」

 

 

 あたしなら場合によっては専門家など第三者も交えて、二、三時間、ひたすら一方的に本人の話聞くわ、と思うことがある。

 あたしはこう見えて傾聴力、共感力、理解力が並外れてるので、普通の人の半分か三分の一くらいの時間で相手のケアもしつつ聞き取りができる。

 

 この「みいちゃんと山田さん」という漫画は作者(恐らく観察者であり語り手である山田さん。画像上)の実体験ベースらしいですが、柳美里の「石に泳ぐ魚」事件みたいになるんじゃないかなあ大丈夫かなあ、と心配しました。

 ご存じかどうかわかりませんが、柳の知人が「『石に泳ぐ魚』という小説の登場人物はわたしがモデルだ」「嫌な描き方をされた、プライバシーを暴露された」として、柳と新潮社を相手に損害賠償と出版差し止めを求める訴訟を起こした一件です。柳と新潮社は負けたんだけど出版強行したんですよね。

 

 「みいちゃんと山田さん」の場合は、何ともひどい話だと思いますが、相手が精神障害なら大丈夫そうだなあ、と思いました(訴訟起こす系の障害じゃなかったらね)。

 

 更に更にひどい話だと思いますが、みいちゃんが何者かによって無惨に殺され、死体で発見される、という物語の結末を知って、「相手お亡くなりなら訴えられる心配はないな」と思いました。 

 亡くなったっていうのが事実なのかフィクションなのかは知りませんが。

 

 同種の作品に中島みゆきの「エレーン」やシンディ・ローパーの「サリーズ・ピジョン」などがありますが、「みいちゃんと山田さん」にはそれらの作品と違って、死者に対する愛着や敬意などが欠けているように感じられます。

 

 という漫画がXで話題になっていたので、この一ページだけ読みました。

 作者の実体験を基に、知的障害のあるキャバクラ嬢「みいちゃん」のダメな生き様を、先輩ホステスの「山田さん」(描かれている髪の長い人物)が冷静に観察する内容だそうです。

 飽くまで山田さんの目を通してですが、このみいちゃんって妓は成育環境も極めて悪く、依存的で自堕落で倫理観の低い、どうしようもなくデタラメな、支援や救済に値しない人間として描かれているそうです。

 最期は何者かに殺されて下着姿で野晒しになっている所が発見されます。

 

 

 実は、「知的障害」と「精神障害」は昔の人類社会では区別されておりませんでした。

 現在の我が国でも、法律によっては区別されておりません。というより、「知的障害」も「精神障害」に含まれたりするのです。知らなかったでしょう。

 この項では敢て、「精神障害」という言葉を使ってみようと思います。

 

 この漫画に対するXユーザーの一部のコメントを読んで、あたしは非常に嫌な気持ちになりました。

 この漫画は、精神障害者に対する偏見とヘイトを煽り、社会的不公正を肯定する思想を助長しかねない、非常に有害なものだと危惧致します。

 

 昔、中学の恩師H先生が地域の心身障害児を集めた音楽と踊りのイベントを定期的に開催していて、そこで子供たちが「サウンドオブミュージック」の人形劇を演じるのを見たことがあります。

 

 「1938年、ナチスドイツがオーストリアを併合しました。トラップ大佐はそれに反対していました」 

 などとナレーションが入ります。

 

 観ていて、歌とお芝居の完成度の高さに驚くと共に、「この子たちはちゃんと『自分たちは何を演じているのか』理解しているのか」と思いました。

 

 しかし、すぐに思い直しました。

 「H先生の、トラップ大佐の思いが、知的レベルでは理解できなくても、この子たちの魂に通じているんだ」と。

 

 もちろん精神障害でも重軽度はありますし、「身体障害はあるが精神障害はない」子もいます。

 

 しかし、共感性や倫理観の高低ってのは知的レベルにはあまり関係ないと思っています。 

 

 「障害者はみんな天使のような人」というのはもちろん間違いというか偏見ですし、「みいちゃんだってH先生のような優れた先生に受け持たれていれば違う生き方ができた」かどうかはわかりません。

 

 でも「健常者や高学歴や高IQや成育環境の良い人、社会的地位の高い人はみんな天使のような人」でもないのも皆さんご存じですよね?

 

 (ただ、遺伝子由来の疾患であるダウン症は割と朗らかな性格であることが多いようです。性格を決める遺伝子と関連があるんでしょうね。「知的障害=天使」みたいな勝手なイメージは多分そこから来てるんだと個人的には思います)

 

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 ここで自作小説宣伝。

 H先生を「神曲」に登場させたかった、ナチスのT4作戦(精神障害者虐殺)と絡めてH先生との再会エピソードを入れたかったのですが、尺もあるので割愛してしまいました。

 いつか番外編みたいな形でやるかもしれません。

 

神曲

https://ncode.syosetu.com/n8693kv/

 
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 漫画の話に戻りますと、みいちゃんのような性産業の女性にはしばしば、ヒモみたいなDV彼氏が付いているわけです。
 また、みいちゃんは中学生の時にレイプ被害に遭って以来、(恐らく精神障害故に)「性暴力を振るわれる=男性から愛されている」という認知を形成してしまい、誰彼構わず性行為に誘うようになってしまいます。
 これ、実はよくある話なんです。そういう心的防衛機制でもあるのです。
 
 2023年に刑法が再度改正されて、「相手に障害があることを知っていて」性暴力を振るうと更に罪が重くなるように設定されました。
 その時、精神障害のある性被害者の支援をされている方が、「彼女たちに自分の言葉で証言をしてもらえなかったことが心残りだ」とコメントされていました。
 
 あたしは 「それはしょうがない」と思いました。
 だってそれができない(できにくい)障害なんですから。
 だからそういう障害のある人相手に性暴力を振るうとより罪が重くなるようになったんですから。

 

 だからその法改正活動も当然、健常者、少なくとも知的障害はない人主体の活動であって、それがアドボカシー(権利擁護)ってものでもあるので、「自分が被害者でもないのになんで?」「そういう活動は当事者主体でないと」とケチつける人が必ずいることをあたしは残念に思います。

 または、「みいちゃんみたいな子は自分で好きでやってるんだよ」「普通、性被害に遭ったら性を忌避するようになるじゃない」というような意見。どちらも間違いです。

 

 

 亡くなった親類に障害児支援の仕事をしていた者がいるので聞いたことがあるんですが、昔はほんとに障害者に対する強姦や「思いがけない妊娠」などが野放しだったんですよ。

 風俗や水商売など、性産業に精神障害の人が多いというのもよくわかります。

 

 だって昔、強姦罪って親告罪(被害者自らが訴えないと罪にならない)だったんですよ。2017年の法改正でやっとこさ変わりましたが。

 

原題「BONHOEFFER PASTOR.SPY.ASSASSIN.」(「ボンヘッファー  牧師・スパイ・暗殺者」)

二〇二四年/アメリカ・ベルギー・アイルランド合作 

 

 昨日、梅田テアトルで観てきました。

 良かったんですが、他のキャストやシーンは英語喋ってるのにナチ公だけドイツ語喋る演出は何なの。

 あと、こういう映画だと「西暦」と「場所」を要所要所テロップで出してくれた方が有難いんですが、まあいいや 。

 

 ドイツ人以外が作るナチス映画は娯楽性を犠牲にしすぎてなくて良いですね。百三十二分が長いと感じませんでした。

 ドイツ人が作ったやつは自己批判徹底しすぎ、リアリティ追求しすぎてて人によっては観てて辛いと思います。「ゲッベルス ヒトラーをプロデュースした男」はそれでもまあおもしろかったですが。

 今年はナチス映画大豊作ですな。(←「ゲッベルス」見逃して後で東京まで観に行った人)

 

 告白教会VSドイツ帝国教会の対立とか、キリスト教の教義が絡む所とかはノンクリスチャンの日本人にもわかりやすかったと思いますが、宗教者として殺生戒に背いてヒトラー暗殺計画に身を投じるボンヘッファーの葛藤はもっとしっかり描かれてもよかったかな。

 でも気になる所それくらいで、あとは役者の演技も歌もよかった。子供時代のボンヘッファー役の子かわいい。長めの金髪で「トーマの心臓」のトーマみたいだ。

 

 私事ながら、この映画が冒頭の展開からディテールから拙作「神曲」によく似ていて、後から両方見た人にこの映画パクったと思われたら嫌だな~と思いました。

 二〇二五年十一月本邦公開だからね、「神曲」の執筆・発表は二〇二五年五月~七月よ、たまたま被ったのよ、って言っても「外国で先に観て、それから書いたんじゃないの?」と思われるくらい似ています。

 同じ時代の同じ出来事を描いてるから多少は似るのはしょうがないんですが。実際、いろんなナチス映画をパク(ry参考にしてますし。

 

神曲

https://ncode.syosetu.com/n8693kv/

 

 最後、ボンヘッファーが処刑されちゃうのは史実通りなので言ってもネタバレとかならないと思いますが、観終わった後すごくカタルシスがあって、映画館からの帰り道、「これで安心して年を越せる」と思ってしまいました。まだ十一月半ばなのにそんなことを思ったのは初めてです。

 日本に来るナチス映画、ホロコースト映画はできるだけ観るようにしてます。あたしにとって、先祖の墓参りでもするような感覚が割と近いです。