令和6年5月6日〔月・振替休日〕【第2672号〔本年第139号〕】

 

  60年前の春・・・・・コカ・コーラを初めて飲んだ。

 「マズッ!!」という強烈な印象がある。

 

  兄・良夫の入院していた高知市民病院で飲んだ。(誰が買ってくれたかは覚えていない・・・) 高知市民病院は、はりまや橋の南の桟橋通の西側に面していたように覚えている。 地名=「潮江」? だったか・・・いやいや、相当に薄い薄い・・・遠い遠い昔の 記憶。

 

  兄は、60年前の今日・・・逝った。

 

  この三月下旬に逝った義姉(文子姉さん)と再会できたのか?まだなの か?

 

  自身、小さい頃、おフクロから「良夫のニイちゃんは、偉かった」と言われ続けて育った。確かに、下駄を履いて、伊野の鉄橋を渡って、JR伊野駅(※ 七十云年前は、JRじゃアリマセン・・・) → 伊野駅 → 高知工業高校。通学も簡単じゃなかった。

  そもそも、ココ、鉄道専用なので、人が通るトコロではないが・・・兄は 通学路として ココを利用していた。正規の路より、たぶん、2㎞ ほどのショートカットになっていただろう。

 

  おフクロが言っていた。 「(その)履いていた下駄を河原に落として、拾いに行ったこともあった」と。 ヒェェェェェ !?【 兄は、私より18歳、年上 だったので、生涯で それほどの回数は 会って いない。

 

  兄の高校生の頃のノートを見たコトがある。ザラザラ紙を糸で綴じてあって、小さい字で ビッシリと 書いて あった。要するに、教科書は、無し=級友の教科書を丸写し、そして、ノートはおフクロの手作りだった。おフクロは、和裁に長けていたから、ノート作りは、造作なく こなしたコト だっただろう。

 

  イツだったか前に書いたけれど、この兄のトコロを三兄と一緒に訪ねて、自身、溺れかけたコトがあった。小学校五年生 だったか? 川は、吉野川の支流 だった。渦に巻き込まれて渦の底から脱出して命拾いをした、という記憶は残っている。

 

  中学校二年生の時 だったかなぁぁぁ? 帰省した兄・良夫から「腕相撲をしよう!」と言われて、畳の上で 互いに 腹ばいになって・・・兄・良夫は、負けてくれた。でも、既に、体力低下があったのかも。

 

  何せ、兄は、肺活量、7000ccを優に超える 猛者 だったので、・・・「兄、というよりは、他所のおじさん」みたいな 怖い人、みたいな印象しか、その頃までは 無かった、親近感は 無かった故か、この「腕相撲」も 脳裏に残っている。

 

   兄の死は、私をニヒル にした。

 

  私自身の中学生生活を「陽」とするなら、高校生生活は「陰」。

 

 

   高校一年生になってすぐの、兄・良夫の死をどう見たか? 兄の葬儀の折、兄の【四国電力】同僚・同夫人たちに対して、私は、「怒り」のような感情をぶつけていた。私は、その日、まったく泣いていなかった。。「怒り」というのは、「何故?もう少し、兄を助ける、という姿勢を取ってくれなかったのか?」という私の思い込みもあるけれど、丈夫な兄だからこそ 人一倍 働いていたのは事実なんだろう。昔は、「過労死」なんてコトバはなかった。

 

  ほんと、自身、中学生の頃は、入学と同時に、「放送部員」というコトで、教員室・用務員室に普通に出入りし、朝礼には出ないで、校長先生に キュー・サイン出してたし、運動会の時は、テントの下で、机 付き だったし、剣道にも打ち込んで、と活発だった。三年生の時には、担任・副担任の両先生から、授業の進め方で相談されたし。。一方、 高校に上ると、まっ、すっかり 内向的に なった なぁぁぁ! 高校では、日本育英会と学校の双方から奨学金をもらいながら、ただただおとなしく過ごした三年間 だった。あれから ちょうど 60 年 !! 今、思えば めちゃ 若いけれど・・・33歳。。。