令和6年3月3日〔日〕【第2599号〔本年第66号〕】

  中学校二年生の夏に・・・墓参りの際に、以下の碑文を書き写して、そして、中学校二年生~三年生の「一年半」だけ、剣道に励んだコトは、かなり前に書いたような? (記憶は、どんどん薄くなる。)

    中学校入学~二年生の夏までは、仁淀川・渡し舟に頼っていたコトは、先日のリブログのとおり。

 

   中学校三年生になった春・・・高知県大会に出た!!  高知城の横の「致道館」?(記憶は、どんどん薄くなる。)で  高知中学校にボロ負け。

 

   でもでも、

 

   高校一年生、2クラスで、私が、№ 1 だった。う~ん、もしも、自分より強い人がいたならば、「剣道部」に入部していたかなぁぁぁ?? どうやら、私には、昔から、天邪鬼気質があるようで。。。

 

   ともかく、曾祖父太三郎の凄さは、明治生まれのお袋(親父とは、一歳年下、幼馴染み?)から、その夏、つまり62年前の夏に聞いたように覚えている。「米俵を棒の先に引っ掛けて、ヒョイヒョイとやったので、人の、三倍・四倍、仕事がはやかった」と。(記憶は、どんどん薄くなるが、この記憶は確か!!)

  曾祖父太三郎への憧れは、このお袋の言葉に依る。。

 

   以下の碑文は、従兄弟の子 = 洋一君整理(平成21年、先祖の墓の移転に際し、伊野町史ほかとても丹念に調べてくれた・・・)  から、

ーーーーーー

  弘化2年(1843年)生まれ~大正10年(1921年) 没。ーーーーー

【先祖勘兵衛ヨリ累代ノ武家ニシテ貞次ノ嫡男ニ生レ明治二年五月剣術砲術ニ精勤熟達シ剣術指南ニ命セラレ年々御米ヲ拝領ス其後御維新トナリ本県茶業組合混々社ヲ創立就職スル□年アリ会社解散シ刑務所吏員ヲ拝命老弱シ多賀教会ニ奉職中家ニ没ス】

 

 洋一君は以下の解説をつけてくれている、 

 

  先祖勘兵衛より累代の武家であった、貞次の長男に生まれたが、明治2年5月剣術砲術に精勤熟達したことにより、剣術指南を命ぜられて年々御米(領地)を拝領した。

 その後、御維新となったので、高知県茶業組合混々社を創立して就職し□年たったが、会社が解散したので、刑務所の職員となった。

  老弱したので多賀教会に奉職したが、在職中に家で死亡(行年78)した。

 

  洋一君の解説、「※」が 四点 続いている。略して書くけれど・・・

  ① 勘兵衛 = 覚兵衛

  ② 明治2年6月に藩籍奉還 、土佐藩 → 高知藩

  ③ 御維新 =  廃藩置県(明治4年7月)

      ④ 多賀教会 = 多賀神社(高知市宝永町)

ーーーーーーー

 覚兵衛(明歴3年?[1657年?]~享保12年[1727年]) は、宇喜多秀家の勘定奉行 だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   前に・・・イツだったか、先祖没落の話を書いた時にも、洋一君まとめを参考にさせてもらったのかなぁぁぁ?!?!

 

   まっ、曾祖父太三郎に関して、自身を振り返ると、ひょっとしたら、私も高知刑務所に勤めていたかも、というのは、「大阪大学」より、先に「高知刑務所」から、就職案内が来ていたから、お袋からせっつかれているのに、逡巡していたから。室戸の灯台からも来ていた。もう一点、もう少し遡って、中学生の時には、「教会」即ち、「キリスト教会」と解していたので、とことん変わったひい爺さん、と思っていた。太三郎が、剣術指南を務めた期間は、「二年間」というのは、洋一君調べで解った。しかししかし、洋一君、丹念に調べたものだ!!