令和5年12月23日〔土〕【第2524号〔本年第363号〕】

   前号の続き・・・・・中嶋唯二先生から。ーーーーーーーーーー

 

  「カ」が立つ事、つまり  「カタチ」とは、エネルギー(カ)が見えるモノになる(タチ)という事です。すべての「カタチあるもの」は、このようにできている。

  この先(サキ)にカタチが現れる。というわけです。

  このサキ、とは6首の事でもあり、6首では現象界の構造や様々な姿が語られます。  5首の段階では、小さな粒子(小さきカタ)の現れまでが表現されています。

  潜象のチカラ(カ)がフトタマのミ(ミ)になり、「ナ」という現象の手前まで(ナリ)になって行く  これが5首のウタヒの流れです。  2首、3首や4首との繋がりも見えて来ると、世界観の概略が見えて来るわけです。

   とはいえ、現代人の固定的な理解方法だとどうしても「意味がわからん」
という感じになってしまいますね。    天然自然の中の、一個の魂として理解するコツがわかってくれば 色々と見えて来るのですが、、。今の所は、まあ、何となくわかる気がする。という感じでわかっていただければと思います。

  

 現代人の、感覚で学ぼうとするとまったくお手上げなのですね。

 

  草木の会話し、空と会話し、山や海と会話して、自分の心の奥にある巨大な空間を眺める、みたいな事をやる方がよくわかるかも知れません。大自然の中で生きていた原始人ような心になって読んだ方が良くわかるような気がします。


  カタカムナ版イロハ歌 のような5、6首ですが、このウタヒはなぜ二つに分かれているのでしょうか?  48音の紹介だとするなら一つにまとめれば良いのになぜ?
と思ってこの二つを眺めていると、、明らかに雰囲気が違う事がわかります。6首の特徴として、大円の存在感が弱い、という事です。最後の5音「カタカムナ」を除く、ソからンまでの音を見ると、、大円の存在感が薄いのです。

  完全な大円は「ヰ」の一文字だけです。「ヰ」だけが存在感が強い感じがします。 最初の7音は 小円が大円とも十字とも繋がっておらず、宙に浮いているようです。  最後の「ン」も。 次の5音は大円と繋がりはあるものの、、四つに割れた大円のカケラみたいですね。残りの7音は「ヰ」以外は大円が消えています。これは
「あるはずのものが見えない」という感じのように見えます。あるべき巨大なマワリ
が見えないという姿こそ僕たちの住む現象界そのものの姿のように思えます。唯一、感知できるのは、、今、ここに居る という「ヰ」の感覚だけ、というわけです。
カタチ サキ  によって出来た様々な現象の中で唯一、潜象界を感じる「ヰ」を獲得しているのは生物だけです。生まれてから、死ぬまでの時間軸を持つモノだけに
「ヰ」の感覚があります。  左回転の弱いエネルギー(ヒフミヨイ)によって出来た存在、それが イノチ  というモノです。

   巨大な現象世界の中では、ポツンと存在するのがイノチなのですね。「i」
という母音が二つあるのか、「wi」という音がほかにあったのに、現代の国語教育でこれを失くした、のか、という問題ですが、、「ハエツウィネホン」と堂々と読んでいる人の音を聞いていると、、どうも違和感を感じてしまいます。

  同じパターンで、「オとヲ」がありますが、例えば、「お魚を食べましょう。」
と言う時、「オサカナ ウォ タベマショウ。」とは言いませんよね。

50音表だと「ヲ」はワ行に入れて整理するため、現代ではスマホなどのローマ字入力も「wo」と打ち込む事になっています。しかし会話では「オ」と発音しています。
「オサカナ オ タベマショウ。」の方が シっくり しますね。
  いやいや、それを言ってしまったら、「ハ」を「wa」と発音している例だってあるじゃないか。「へ」を「e」と発音しているじゃないか。と言われてしまいそうですが、、しかし、、「ウィ」とか「ウォ」、そして「ヱ」を「ウェ」と読んでしまって良いのだろうか?  「へ」や「ハ」は正式な音がハ行として存在していますが、
「ヲ、ヰ、ヱ」に関しては安易にワ行に押し込めて良いという事ではないように感じます。

  そもそもワ行という行は存在できるのでしょうか?ワイウエオ と言う時、ほとんど母音になってしまいますね。思えば「ワ」という音の特殊性を感じます。

  ワの国の人にとって、「ワ」という音は50音表の最後の方に、、コッソリくっついているような、地味な存在にしておくべき音ではないように感じます。そして厄介者のように  ヰ、ヱ は「いらない文字」にしてしまったり、ヲ  を「不思議ちゃん扱い」にして、ワ行に押し込める。   考えてみれば随分乱暴な事をやっているわけです。


  カタカムナを学んでいると、、オとヲの違いや、イとヰの違いが、なんとなくわかって来ます。(ただし「ヱ」だけはイマイチわかりにくいです。)


 「命」は、イノチ(潜象) 「居る」は、ヰル(現象)  「i」という母音は、文字表記を(物理学的に)2種類作る必要があったのではないか?とも思えて来ます。

  宝物としての鏡は、鏡面より背面に大きな意味があるようです。八分割の紋様デザインを施した背面の姿を「カ」として、、鏡面を「カのミ」と見立てるとしたら、、鏡の背面の紋様に、「カ」というモノが表現されている事になります。
それはイノチの元であり、あらゆる存在の根源、という事になります。

  鏡面をカミと見るなら、、神社の社内に安置されている鏡の意味もわかりますね。「カミ」そのものを表すわけですから。


   聖書、ヨハネの福音書の冒頭の言葉。「初めにコトバあり」これはまさに日本の文化そのものだったのでは?  と思います。

   神様の名前  土地の名前  には、、古い言葉が使われているようです。


  今朝も良いアサです。(あ)マからノ、アカル(さ) こんなコトバがつい出ます。
ウタになると良いのですが、、わかりにくい解説文を書いてしまう時も、ちゃんと
コトホグシになってないなぁ、と感じます。

  コトホグシ、とは事(コト)をわかりやすく解す(ホグス)とも読めます。

  4首の、ヨソヤコトホグシウタというのは、、  48音による、「マノスベ」を解説した楽しくてわかりやすい歌 という意味にもなります。


  フりそそぐヒかり、ミにシミます。美しい奈良の空  奈良の空はカタカムナ的に読み解くと、やはり奈良ガ空 の方が正しい感じがします。 フンワリとフリそそいでます日のヒカリ 空を見て、ハナシかけるように、何かコトバを発する。こういうのがウタヒの原形だったのかも知れません。

  僕はこれを、バードウォッチングならぬ、スカイシーイング と言っています。
ぼんやりと空をながめるのでseeです。 仮名や漢字を使う時代(これをカナカン時代と僕は読んでいます)になって、、歌を詠む文化に移った時も、こんな感じでウタヒを真似てウタをつくったのかな?と思っています。


  仮名文字 かな文字 のカナって言う音はどこから来たのでしょう?

 仮名は中国からです。漢字が伝わった後にできたのよ。ハイ、わかってます。学校で教わりましたものね。

  仮名は漢字からできたもの。とりあえずそれはおいおいて、、カナって言葉は
どこで できたのカナ? という事です。
  それに、カタカナ ひらがな という和語は、どうしてこういう名前になったのだらう?
  僕の仮説ですが、カタカンナ ひらかんな と読んでいた、いや、カタカムナ
ヒラカムナ と命名していた時期があったのかもしれません。つまり、カムナ文字
「カムな感じの文字」として、当初は漢字を読むための補助文字として生まれた可能性は明日ります。 つまり、ないはずの補助文字が横に付いている、たからこれはまさしく カタカムナやな。みたいな感じだった。かも。


 楢崎皐月にカタカムナを伝えた人物、平十字(ひらとうじ)は代々平(ひら)を名乗る家系で、、と言っていたそうです。そもそも タヒラ(平)とは、カタカムナで読み解くと、平面化させる という思念になります。つまり、タヒラの家は、物事を2次元化させる家だった。これは文字化させる係、記録係の家だったのかも知れません。このヒラ家が、「ひらかんな」を作った、のかも知れません。カナカン時代にはもう、紙も筆もありましたから、仮名文字は筆で書きやすいカタチになっています。


 キミ読みと言っていたものを、当時はなんでも大陸風に音読みするのがカッコ良かったのでしょう。
 クン読みなんて言い方に変わってしまった。

  キミとはおそらく、キのミ(キがミ)の事で、移ろい行くあらゆるモノコトを「キミ」と読んだわけで、もちろん背後には「カ」が存在しているわけです。
  キがミの背後にはカガミがあるわけです。紙のなかった時代の文字って石に彫るしかないよね。 という事を言う人がいますが、現代まで残ったのが石に刻まれた文字しかなかっただけで、例えば地面に砂を撒いて、その上から人差し指で丸でも直線でも書けるわけです。保存はできないけど、思索のための一時的なモノであれば、難しいものではありませんね。丸⭕️や渦巻き🌀などは、むしろそういう方法でないと書きにくいでしょうね。

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いやいや、最初の仮名は、「万葉仮名」と言って、漢字の当て字を使っていたのだよ。 と教えくださる方もいます。ハイ、知ってます。この時代は、もの凄い漢字ブームが起きたようです。

  「漢字カッコイイ!」みたいな感じで、インテリ層は一生懸命漢字を学んだようです。もちろん中国語の学びにもなったろうし、数字の概念も広がり「万」というケタまで勉強したのでしょう。


  カタカムナ時代には、トハ と言っていた概念を一千倍にして 万のハ つまり
マンヨウ というこれまた音読みの言葉ができ、 


   あ!
これくらいにしておきます。僕の根も葉もない仮説ですので。(emoji)  でも
現代にまで続く 仮名、漢字の時代 以前の文化は、間違いなく存在していて、しかも言葉がかなり特殊だった事がわかります。  漢字や仮名文字を使う記録文化は、2500年くらい前から日本に入って来たわけですが、現代に至るまでそれは続き、それが日本の歴史のようになっています。この時代を仮に「カナカン時代」と呼ぶとして、、それ以前の時代(たとえば縄文時代など)はどうなっていたのでしょう?

  すでに豊かな言語が使用されていたようです。文字による記録は一部のインテリ層の間では使われていたようですが、ほとんどの人々は記録という概念すらない生活を送っていたと思われます。
  クン読みというのは、君読み ではなく 訓読み ですよ。

  ハイ、わかってます。あくまでも僕の見解ですが、、訓という字は和語に似つかわしくない文字だと思います。

 キミという音から君という漢字を当て、、さらに訓練の訓という字に変える、
という事を結構やっていたのではないか?と思います。

  ある意味おおらかではありますが、漢字が流入した時代というのは、かなり日本語寄りの感性が衰退した時代だったのかも知れません。


  クン読み についてもう少し考察してみました。マとカ、と言うと潜象になりますが、ミとキ、と言うと現象になります。
 

  イザナミイザナギの神名のように、あるいは「木の実」のように、ハッキリしたイメージが見えて来ます。目の前に現れる対象を「キミ」と言うわけです。なので「大切な貴方」の事を「君」と言うわけですね。

 国家の「君が代」の「君」とは「君主」の事だ!天皇を指すから、軍国主義だ!

などと主張する考えはあまりにも日本語と言うものの性質をわかっていない主張でして、「キミガ(の)ヨ」という音を見れば、このコトのハは、「この世に生まれてきた幸せ、この世を味わう幸せを歌うものなのだ」と言う事がよくわかります。

 でなければ、「君」という言葉を、「そこの君!何やってるんだ!」「君は学生さん?」などと気安く使わないハズです。むしろ君の事を目下に見ている言葉ですね。

  つまり


  キミヨミ(君読み)という言葉が元々あったと仮定すると、空を読み、花を読み、山を読み、虫の音を読み、人を読み、という具合にあらゆるキのミを読む事を言っている事がわかります。それに対して、漢の国の人の言葉(音)を読む時は、オン読み
と言っていたワケです。

  おそらく大陸文化(漢字)を愛するあまり、、クン(君)読みを、訓練の「訓」という字に当て、この方がカッコイイ、と感じた時代だったのでしょう。

  現代でもヤタラと外来語を多用したがるのは、日本人の言葉の吸収力の高さ、
新たなイブキを楽しむ心 があるから、なのでしょうね。


  ヨミとは、ヨをミる(世を見る)という思念のようです。


  せっかくなので 久しぶりに キ について考察してみます。


  お星さまはキラキラしてると感じるのは日本語人だけです。一体、キラキラというコトバは、いつ、誰が考えた?のでしょう? あと、「気」って何?


  気持ち とは一体何を持っているの? 木、奇、消え、切る、着る、聞く、来た、北、黄、決める、ギリギリ、オギャー、等等の言葉を見ると、
この世に見られる様々な出来事を大きな視点でとらえる言葉が多いですね。僕達はこういう出来事の中で行きている、という感じです。
  現代語では大気 という言葉が、最もこれをよく表す言葉だと思います。
声音符の姿を見ると、横二重線と縦線が大円の中に描かれています。カタカナの「キ」みたいです。


  第5首のカタチサキという言葉を見ると、潜象の力(カ)が持続的(チ)に出て(ダす)、「サ(感受)」が先に出来て、「キ(感受される対象)」が出来る。とあります。「キ」とは感受の対象全てを指します。


  身の回りに見える全ての存在ですね。それが「キ」と言うものです。


  ただしテの届かない空間、地中深い世界(ネ)や、空の彼方、つまり宇宙(ウ)は、含みません。 心の中も含めて、生物が生存を許されている範囲を「キ」というわけです。 
  キのミ  つまり、キの一つ一つをヨムことを、キミヨミ というわけで、これはまさしく 歌詠み の事を指すわけです。
  キミという言葉は 君 という漢字にあてられ、、漢学者がカッコよくこれを
クン読みなどと言っていた、と思われます。

  偉い人の階級がしっかり出来てしまったこの頃の日本では、もっと賢そうに見える訓 の字をこれに変えて、訓読み などと言う言葉を作るようになったわけです。

  日本古来の音はやはり 君 の方が似つかわしいように思いますが、、

 今でもインテリや偉い人、というのは難しい言葉を使うのが好きですよね。
突然聞いた事もない外来語を平然と使うと、、なんか賢そうに、偉そうに見えてしまいますもんね。というような根も葉もない考察をしました。(silly cat)


  カミ という言葉も、カタカムナ人にとっては、キミ と同じような、直感的な造語だったのです。

  カミは有り難い 潜象のミ、キミは、目の前の、大切な、あるいは可愛い存在、のミ。どちらのミも、なくてはならない存在ですね。

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  僕らのカラダが、ツツミだったり、クダだったり、フクロだったりしていますね。ことごとく「アマへ」の構造なのです。イキ(呼吸)が出来る タチ(自立)が出来る  ミミ(感受)が出来る  ハナ(対話)が出来る  ウルハシ(麗しい)を味わえる
ウマシ(味わい)ができる  アシ(学び)ができる  この世に平和にとどまれるように、 アマからも、カムナからも、 「ホ」が実現している。

  僕らは死ぬまでアマカラの生命力の供給をもらっているワケです。たまには、
アマカムにホホ笑み返して、、ウレシ アリガタシとスナホな気持ちになると、
アマもウレシヒ❤️‍🔥 カムもウレシヒ❤️‍🔥 と思います。ーーーーーーーー以上、コピ・ペ」」