先週の木曜日(11月6日)~土曜日(11月8日)の3日間、対象者は、違ったが〔人数も木曜日は60人ほど、金曜日は160人ほど、土曜日は30人ほど、15人ほどとバラバラだったが・・・〕、皆さんに以下の、ほぼ同じ話をした。一つは、「鬆」は、「懈」ではない、ということ。、「懈」の意味は、「だらける」「なまける」といったところ。実は、中国語では一般にこの「鬆」にも同じような意味があって、「鬆懈」、という熟語だってある。まず、このことを理解しておかないと、太極拳をやっていなければ中国人ですら誤解することがあるかも知れないことなので、〔『翻訳・通訳』だけが頼りの日本人〕太極拳愛好者の中には当然誤解したまんまの人も結構多かろう、とそう思う。太極拳での「鬆(ソン)」は、通常「ゆるめる」と訳されているけれども、決して潰れて、萎えてしまったり、縮こまったりすることではない。所謂、三点セット、①ゆるめて②つなげて③ひろげることが要るのであり、その拡げかたも柔らかいボール・気球が拡がるような、中心からソトへと拡がる感じが欲しいし〔6日、7日は、ジム・ボールを弾ませながら説明したんだけど、皆さん、分かってくれたかなあ?〕、なによりも、平たく言ってしまえば【意識】の働きがある場合は、「鬆」であり、【意識】の働きがない場合を「懈」、と、ちょっと乱暴かも知れないが、とりあえず、そうしておこう。以上が一つ目。二つ目の話は、ポン(扌+朋)は、決して「頂(ぶつかる、突っ張る)」ではない、ということ。本通信第34号(10月15日号)に書いたとおり、この点を間違えていたら・・・、張義敬のことばを再度引くと、「生涯、誤りしか残らない。成果は無い」という結果に終わる。一生を終えて「到老一場空」ではあまりにも寂しい、ではないですか。本通信第18号(8月3日号)にも書いたとおり、ポン(扌+朋)とは、舟を浮かべる「水」と同等である。手首をゆるゆるにして、つまり「折腕」にせず、「鼓腕」にしておけば(肘も柔らかく働くので)、相手の出した力を瞬時に(同時に)相手に返すことができる。誰のことばか知りませんが、「中節不明、全身是空」の俗語もある。これは、腰、肘、膝の運用の大切さを言っている。三つ目の話、と言っていいのか、どうか?本通信第32号(10月8日号)にも書いた、鄭万青の「湧泉(脚下)無根、腰無主」も、11月6日~11月8日、言った。確かに言いました。なにせ、「其根在脚」である。そうそう、言い忘れていたが、「鬆(ソン)」、高度な「放鬆(ファンソン)」状態を得るための方法としての「無極樁(トウ)」について〔本通信第37号(10月30日号)〕の補足だが、立ったときに、只管上から下に荷物を下ろすようにしていると、足が辛くなるかも知れない。らく~に、気持ちよ~く立つためには、「散」も大切である。魏樹人は、「鬆(ソン)」と「散(サン)」は、統一体であって、「鬆散」が「全体透空」の前提となる、と説いている。因みに、通常、動作での「散(サン)」は当然避けるべきである。胸の前ががら空き状態、即ち「散」である。まあ、しかし、理解するためには、どうしてもことばに頼らざるをえないだろうけれども、気をつけないと、ことばの表層、乃至字面だけに頼ってしまって単なる誤解に終わり、得るものが無い、上達は心許ない。。。ソレを避けるためには、鋭い感性が要る。ともかく、最終的には、「身知・体悟」である。コレも言いました。「オマエも、ちゃんとそうしろよ!!」と自分自身に言い聞かせつつ・・・