
それでは、だいぶ経ってしまいましたが、国宝の感想を書きます。
その前に私の歌舞伎鑑賞の経験ですが、数えるほどしか観に行ったことはありません。但し、私の家庭環境ですが、実は両親ともに邦楽家でした。父はアマチュアでしたが、母はプロフェッショナルでした。琴が専門でしたが、三味線も日本舞踊もお免状持っているし、私も家では邦楽はよく耳にしていました。昔はテレビで歌舞伎を演っていたこともあったし(いまもあるのかな?)、邦楽も正月以外にもNHKでよく観られました。点いているテレビを観ながら当たり前のように母は話しかけてくるのは、会社のエンジニアがプラントの説明を事務屋の私にしてくるのと同じく、こちらの知識を買いかぶり過ぎです。
あの人たちに共通しているのは一般のヒトも自分の専門分野の知識を最低限は持ち合わせていると思っていることです。
ということで、娘道成寺なんていうのは我が家の日常会話レベルの単語でした。
この映画は、歌舞伎役者の息子(横浜流星)と部屋子(吉沢亮)とが子どもの頃から一緒に稽古をして、切磋琢磨をして、順繰りに浮き沈みを経験しながら競争して。。という映画かと思ったらそうでもなかった。
子供の頃の修行部分から、ヒットしていくところぐらいまでは、エルビスやボヘミアン等の音楽映画と同じくワクワクしてくる高揚する部分で楽しかったです。スター誕生なんかもそうかも。でも、それだけに、不吉な予感もしてくるのですね。不幸の影が忍び寄ってくるのを感じるのは居心地が悪いのです。
でも、上がりきったら落ちるだけではなく、交互にまた上がったり落ちたり、映画と原作では原作の方が半二郎の浮き沈みを回数が多かったりしますが、これは台湾語(福建語)でいうところの「有時起 有時落」、憂歌団でいうところの「goodtime's rollin' badtime's rollin'」みたいなもんですかね。
所詮は血統か。。と思ったら(半二郎も実際にこう言いますが)、その血によって俊ぼんに災いが来るのは皮肉なものです。
「悪魔と取引」というのは、我々音楽好きにはお馴染みの台詞です。もちろん、ロバートジョンソンも映画のモチーフにもなっていますし、パガニーニもその伝説のイメージが強いです。天才的な音楽家というのはみんなそのようなことを言われるのか、果たして誰が最初なのでしょうか。しかし、この手垢の付いた「悪魔と取引」をまだ使うか? しかも歌舞伎役者が。。という感じはしました。悪魔って、洋モノだし。
この映画を観て思い出したのは、母が昔よく言ってたことばです。
練習で10回続けてノーミスで弾けても、本番では失敗することがある。(だから練習しろ、ということ。)
私のバンドの練習なんて、自分は本番に強いんだと、ノーミスで出来ることの方が少ない状態で本番に望んだりしてました。正直なところ。
芸事の厳しさについては、母もよく言っていました。
もう少し早くこの映画が出来ていれば、母と一緒に観に行きたかったな、と思いました。
ただ、まあ、文句言いの彼女ですから、観ながら細かいところをボロクソに言ってたと思います。

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