写経屋の覚書-はやて「今回は労働賃金についてやね」

写経屋の覚書-なのは「うん。賃金じゃなくて賃銀って表記されてるのは、江戸時代の上方の銀本位制の名残かな?」

写経屋の覚書-第85号12
写経屋の覚書-第85号13
写経屋の覚書-第85号14

 次に労働賃銀を見るに職業によりて多少の高下は存するけれども大体男子一日平均一円乃至二円女子は稍安く七〇銭乃至一円であつて、一ヶ月労働日数は二三日乃至三〇日といふことになつてゐる。而して彼等の生活程度は頗る低く一家屋に十数人多きは二三十人も雑居し、その下宿代も一日四〇銭乃至六〇銭といふわけであるから、かくの如き低廉な賃銀で十分生活し尚幾分余裕を存するのである。この点を内地人労働者と相関連せしめて考ふるときはこれがやがて、将来の労働問題に一特殊相を形成せしむるに至るのではあるまいかと思はれる。

   労働賃銀調(大正十四年末現在)

職業別性別日収或は月収一ヶ月労働日数
最高最低普通
  
紡績工女 1.800.401.0027
莫大小工男 2.000.701.2027
  
女 1.200.400.7027
金属工男 2.500.801.4025
女 1.200.400.7025
鉄工男 2.501.502.0027
染色工男 1.801.001.5025
女 1.300.600.7022
ミシン裁縫工男 1.801.001.5028
女 1.300.801.0028
店員男 30.0010.0020.0028
市電従業員男 2.701.502.0027
仲仕男 4.002.003.0023
土方男 3.001.201.6025
飲食店雇人男 1.000.300.7030


写経屋の覚書-フェイト「当時はまだ休日が日曜だけだから1ヶ月の労働日数が20日以上あるんだね。日額が一番高いのは4円の仲仕、次に3円の土方なんだね。やっぱり重労働ってことなのかな」

写経屋の覚書-はやて「一番安いんは紡績工・女性の莫大小工と金属工の40銭やな。普通の欄を見ると各職工で男女差がけっこうあるんやね」

写経屋の覚書-フェイト「下宿代が1日40銭か60銭だから一番安い賃金だとかなりきついよね。どうやって生活していたんだろう?兼業したりしてたのかな?」

写経屋の覚書-なのは「どうなんだろうねぇ…下宿じゃなくて借家とか工員寮に住んでいるのかもしれないね。次は保健状況についてだよ」

      C 保健状況

 最後に彼等の健康状態について見るに不衛生極まる生活をなしながら罹病者は割合に少いやうであつて、これは生来の頑健と物にこだはらない精神とに起因するのではなからうか。ただ注意に価するのは彼等のうちに「モヒ」中毒者のかなりあることで、それらの徒が淪落の生活を続けつつ市中を徘徊して自暴自棄に陥つた失業者にその悪癖を伝播せしめる虞があることである。
 昭和三年二月末の調査によれば七十六名の中毒者が存しその大半は西成区釜ヶ崎方面で発見せられた。当局にあつても夙にその絶滅に意を注ぎ大正十五年六月より昭和三年二月までに百八十四人を収容治療せしめたが、何分彼等は浮浪の徒であつて広く各府県を流浪し神社仏閣の縁日を見込んで浮草の如く転々移動するのでその根絶はなか〱困難な状態にあるといはねばならない。

写経屋の覚書-はやて「『不衛生極まる生活をなしながら罹病者は割合に少いやうであつて、これは生来の頑健と物にこだはらない精神とに起因するのではなからうか』って褒めとるんかどうかわからへんでw」

写経屋の覚書-フェイト「モヒってモルヒネのことだよね。しかも中毒者の大半が西成区釜ヶ崎で発見って…」

写経屋の覚書-はやて「今のあいりん地区やね。現代でも覚醒剤や大麻の密売者がよう逮捕されとる場所やん…」

写経屋の覚書-フェイト「へぇ、そうなんだ…『広く各府県を流浪し神社仏閣の縁日を見込んで浮草の如く転々移動する』っていうのは、テキヤや香具師のような職を持ってるから縁日目当てに移動するって話なのかなぁ?」

写経屋の覚書-なのは「うーん、違うとは思うんだけど、そのへんはちょっとわからないね…ちなみにこの史料の記述って、かつてエンコリで弓月教授が紹介していた酒井利男の「土幕から見た朝鮮人住宅問題」(『社会事業研究』第17巻第12号 1929)の記述とかぶっているものが多いんだよ」

写経屋の覚書-はやて「『社会事業研究』も大阪市が編纂発行しとったんやね。ほんで引用とか転載しとったんやろ」

写経屋の覚書-なのは「筆者あるいは編者の酒井利男は大阪市社会部調査課長だったからね。じゃ、これで『社会部報告第85号 本市に於ける朝鮮人の生活概況』を終わるけど、最後に末尾の附録「在阪朝鮮人諸団体一覧表」を見て」

写経屋の覚書-第85号附録

写経屋の覚書-なのは「最初に出ている「内鮮協和会」なんだけど、設立年月日が大正12年(1923年)11月5日になってるでしょ」

写経屋の覚書-フェイト「えーっと、そうだね」

写経屋の覚書-なのは「だけど、他のサイトなどでは大正13年(1924年)6月5日だったり、4月あるいは5月としているんだよ」

写経屋の覚書-はやて「グーグル先生に訊いてみたら…あーほんまやね。大正13年(1924年)の4月~6月にしとるとこばっかしやね」

写経屋の覚書-なのは「そうなんだよ。大正12年(1923年)にしているのはこの史料だけっぽいんだけど、作者は他のサイトがどんな史料に拠っているのか興味があるんだよね。というわけで『一九二〇年代、大阪における「内鮮融和」時代の開始と内容の再検討―朝鮮人「救済」と内鮮協和会・方面委員』(塚﨑 昌之 2007 『在日朝鮮人史研究 №37』所載)を読んでみたの」

写経屋の覚書-はやて「ほんでどうやったん?」

写経屋の覚書-なのは「第1回事務局会議の開かれたのが1923年(大正12年)11月で、財団法人として発会式をしたのが1924年(大正13年)6月だったの。ってことで、1924年(大正13年)6月が妥当かな」

写経屋の覚書-フェイト「いつかは協和会についても突っ込んで見てみたいね」

写経屋の覚書-なのは「余裕ができればそうしたいね。じゃ、今回はここまでにするね。次回は朝鮮人の住宅問題について大阪市の調査報告を見る予定だよ」

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