「今回は李東暉と李東輝は同一人物なんか別人なんかちゅう話の続きやな。早よいこ!」
「はやてちゃん、そんなにあわてないでよ。まず韓国の独立記念館の紹介文を見てみるね」
李東輝:1873~1935
号は誠斎。咸鏡南道端川郡出身で、ソウルの士官養成所を経て、陸軍参尉に任官し、江華島鎮衛隊長を過ごしたのち、日本の侵略が加速されると軍人を辞任して普昌学校などを建て、民族教育運動を展開した。西北学会ㆍ新民会などで、国権回復運動を展開していたのを被逮されて亡命生活を経験したりした。1913年に国外に亡命し、韓国人自治機関の墾民会と勧業会、大韓光復軍政府に参加して活動している。(後略)
「こっちも『輝』やねんなぁ。咸鏡道端川に生まれて軍人になったあと教育に関与して、西北学会の会員ちゅうのは、前回みた憲兵報告に出てきた『李東暉』と一致しとるし、同一人物と考えてええんちゃう?」
「そうだ、ウィキペディアのほうも一応見てみようよ…えーっと、李東輝の項目にはこんなふうに書いてあるね」
李 東輝(り とうき、1873年-1928年)は朝鮮の独立運動家・社会主義者。号は誠斎。
咸鏡道端川に生まれる。旧韓国武官学校を出て安昌浩の啓蒙思想に感化、新民会、西北学会などに参加した。若年より開化運動に取り組み、名声を得る。1907年に日本により韓国軍解散命令が出されるとこれに反発し、江華鎮衛隊の蜂起とともに逮捕された。1911年の寺内総督暗殺未遂事件にも関与し、その後満州、シベリアへと亡命する。独立運動の指導者として活動するもウラジオストクにて住民煽動の罪にて投獄された。(後略)
「これも、生まれとか経歴は一致しとるなぁ。やっぱり同一人物やで」
「種明かしをすると同一人物で正解なんだよね。フェイトちゃんとはやてちゃんには、作者がその結論を出すまでの過程を再体験してもらったんだ」
「えーっ、なのはちゃんは初めから正解を知ってたんだぁ」
「ほんとはね、作者はもう少し慎重で、西北学会月報や小川原宏幸の論文『日本の韓国保護政策と韓国におけるイギリスの領事裁判権―梁起鐸裁判をめぐって―』に『李東暉』ってあったのを見つけたときに同一人物と確信したんだけどね。こんな箇所なの」
義捐金濫費の噂について警察が内偵を進めていたところ、たまたま李東暉,鄭永沢,李星鏑の3人が内部大臣宋秉畯に皇城新聞,大韓毎日申報,帝国新聞の3紙と,その他の集金所の調査を請願したため,宋内相は総合所の義援金の調査を命じた。
「前回の最後で見た獄長日記やと『李東輝』で出てくるとこやね。ほんなら『暉』の『輝』のどっちかが間違った表記ってことになるやんなぁ」
「うん。官報や高宗実録を見ると『暉』で統一されてるから、そっちが正解と考えるほうがいいと思うの。ウィキペディアの李東輝の項目で参考文献としてあげられている『朝鮮革命運動史1』(高峻石 社会評論社 1983)のp64には、p23で出てきた『李東輝』の注としてこんなことが書いてあるんだけどね」
(1)李東輝(号は省斎)は、一八七三年に咸鏡南道端川に生まれる。武官出身で安東営将、江華島参領などを歴巡し、早くから反日思想をもち、新式学校設立に積極的に努力した。(後略)
「『輝』になっとるんはともかく、没年まで違うとか、号が『誠斎』と同音やけど『省斎』いう表記になっとるとか、安東営将や江華島参領なんて官職ほんまにあったん?と突っ込みどころが多くてしんどいわw」
「あと、『朝鮮人物事典』(編集:木村誠ほか 大和書房 1995)でも李東輝になってるの」
「はやてちゃん、そんなにあわてないでよ。まず韓国の独立記念館の紹介文を見てみるね」
李東輝:1873~1935
号は誠斎。咸鏡南道端川郡出身で、ソウルの士官養成所を経て、陸軍参尉に任官し、江華島鎮衛隊長を過ごしたのち、日本の侵略が加速されると軍人を辞任して普昌学校などを建て、民族教育運動を展開した。西北学会ㆍ新民会などで、国権回復運動を展開していたのを被逮されて亡命生活を経験したりした。1913年に国外に亡命し、韓国人自治機関の墾民会と勧業会、大韓光復軍政府に参加して活動している。(後略)
「こっちも『輝』やねんなぁ。咸鏡道端川に生まれて軍人になったあと教育に関与して、西北学会の会員ちゅうのは、前回みた憲兵報告に出てきた『李東暉』と一致しとるし、同一人物と考えてええんちゃう?」
「そうだ、ウィキペディアのほうも一応見てみようよ…えーっと、李東輝の項目にはこんなふうに書いてあるね」
李 東輝(り とうき、1873年-1928年)は朝鮮の独立運動家・社会主義者。号は誠斎。
咸鏡道端川に生まれる。旧韓国武官学校を出て安昌浩の啓蒙思想に感化、新民会、西北学会などに参加した。若年より開化運動に取り組み、名声を得る。1907年に日本により韓国軍解散命令が出されるとこれに反発し、江華鎮衛隊の蜂起とともに逮捕された。1911年の寺内総督暗殺未遂事件にも関与し、その後満州、シベリアへと亡命する。独立運動の指導者として活動するもウラジオストクにて住民煽動の罪にて投獄された。(後略)
「これも、生まれとか経歴は一致しとるなぁ。やっぱり同一人物やで」
「種明かしをすると同一人物で正解なんだよね。フェイトちゃんとはやてちゃんには、作者がその結論を出すまでの過程を再体験してもらったんだ」
「えーっ、なのはちゃんは初めから正解を知ってたんだぁ」
「ほんとはね、作者はもう少し慎重で、西北学会月報や小川原宏幸の論文『日本の韓国保護政策と韓国におけるイギリスの領事裁判権―梁起鐸裁判をめぐって―』に『李東暉』ってあったのを見つけたときに同一人物と確信したんだけどね。こんな箇所なの」
義捐金濫費の噂について警察が内偵を進めていたところ、たまたま李東暉,鄭永沢,李星鏑の3人が内部大臣宋秉畯に皇城新聞,大韓毎日申報,帝国新聞の3紙と,その他の集金所の調査を請願したため,宋内相は総合所の義援金の調査を命じた。
「前回の最後で見た獄長日記やと『李東輝』で出てくるとこやね。ほんなら『暉』の『輝』のどっちかが間違った表記ってことになるやんなぁ」
「うん。官報や高宗実録を見ると『暉』で統一されてるから、そっちが正解と考えるほうがいいと思うの。ウィキペディアの李東輝の項目で参考文献としてあげられている『朝鮮革命運動史1』(高峻石 社会評論社 1983)のp64には、p23で出てきた『李東輝』の注としてこんなことが書いてあるんだけどね」
(1)李東輝(号は省斎)は、一八七三年に咸鏡南道端川に生まれる。武官出身で安東営将、江華島参領などを歴巡し、早くから反日思想をもち、新式学校設立に積極的に努力した。(後略)
「『輝』になっとるんはともかく、没年まで違うとか、号が『誠斎』と同音やけど『省斎』いう表記になっとるとか、安東営将や江華島参領なんて官職ほんまにあったん?と突っ込みどころが多くてしんどいわw」
「あと、『朝鮮人物事典』(編集:木村誠ほか 大和書房 1995)でも李東輝になってるの」
李東輝[イドンフィ] 1873-1935
独立運動家。社会主義運動の戦先駆者、韓人社会党の創立者。号は誠斎。咸鏡南道端川に生まれ、旧韓国武官学校卒業後、江華島鎮衛隊参領などをつとめながら愛国啓蒙運動に共鳴、西北学会・新民会に参加して新式学校建設に尽力した。一方、1907年韓国軍解散に反対して同志とともに逮捕され、11年には寺内総督暗殺未遂事件に連座した。(後略)
「『朝鮮革命運動史1』とよく似ているね。ネタ元は同じなのかな?とにかく、公式文書の官報や高宗実録が『李東暉』になってるから、そっちが正解だって納得はしたけど、どうして『李東輝』って表記が出てきたのかなぁ?」
「んー、明確な答えは出せないの。『輝』と書いているのは臨時政府とかの関係文書だから、独立運動の関係者が誤記したのが原因じゃないかなぁって推測はしてるんだけどねぇ…そこで、作者が上海に行ったとき、臨時政府記念館に寄って調査してきたんだけど、展示中の史料のうち『大韓独立宣言書』のひとつだけが『輝』になっていて、他の宣布書などは全部『暉』になってたんだって」
1919年2月付の大韓独立宣言書:左から3列目、上から2段目「李東輝」
1919年3月1日付の大韓独立宣言書・臨時政府成立宣誓文:右から6番目「軍務総長 李東暉」
1919年4月付国民大会宣布文:臨時政府閣員の右から2番目「国務総理総裁 李東暉」
「わざわざ上海に行ったんかいな…」
「それで、これからこの李東暉さんの何を見ていくの?」
「えっとね、李の経歴というより軍歴について官報を見ながら追っかけていく予定なの。じゃ、今回はここまでにするね」
李東暉(1)