ウクライナ戦争の報道を見て成語の戦国時代の“合従連衡”が頭に浮かび、いつの時代も人間とは変わらないものだと感じました。
 かつて西安市にある会社食堂で端午の節句(5月5日)に “粽子”(zong4zi)「ちまき」が出ました。中国人同僚が詩人“屈原””粽子“(zong4zi)の関係と由来を教えてくれ、“屈原”(qu1yuan2)は戦国時代(BC770~221年)の有名な詩人でした。その後の唐時代(AC618~907年)に入ると“春望”「国破れて山河あり」の“杜甫”(du4fu3)の“静夜思“「静かな月の世に思う」の“李白”が登場します。
私が学習発表会の時、李白の“静夜思”を演じ、中国へ赴任後ある家族の前で披露したところ大受けでした。
古代の詩人はどのように収入を得ていたのか気になります。官職に就くなど二足の草鞋を履いて生計を立てていたようです。唐時代に日本から派遣された留学生の「阿倍仲麻呂」(AC698~770)は、”科举”(高級国家公務員試験)に合格し、唐の政府高官にまで登りつめたモノ凄い優秀な日本人がいました。西安市の”庆兴公园”内にに顕彰碑が建てられています。
 “屈原”の時代は戦国時代、七雄の"秦・齐・楚・燕・赵・韩・魏”が戦っていました。その中でも秦と齐が二強で他の国は五弱でした。その時代の有名な成語に"合从连衡"(he2cong4lian2heng2)があります。当時の”楚”の国は、自国の独立を保持するために、合従策を取るか連衡策を取るか国を二分する激論がされていました。合従策とは、六か国が共同して秦と戦い秦の侵略を阻止するものです。今で言うロシアに対するNATOの軍事関係のようなものです。合従策を採用し六か国が協力して大国の秦と戦うとしても、秦が一カ国に集中攻撃して来た場合、その国が秦の大軍と全面的に戦わなければならない羽目になります。結局、連衡策を採用し、六カ国が個別に秦と同盟を結びました。連衡策とは六カ国がそれぞれ秦と友好関係を結び、秦の支配を回避する策です。しかし、隣国同士の関係が弱まって、隣国が攻めて来るのではないかという疑心暗鬼に陥り、これが秦の狙いでした。隣国同士の同盟関係は弱くなったタイミングで秦が攻め入り、秦が全国統一を果たしました。古代から現代まで、何度も合従連衡の繰り返しです。
 “屈原”は国のことを深く思う高官で、秦は信用できないと考え合従策を提案しましたが、連衡策を押すメンバーの陰謀により失脚させられてしまいました。5月5日、都を追われ途中で楚の都を振り返ると都に煙が立つの見て、屈原はいよいよ秦に攻め入られたかと絶望し、川に飛び込み死んでしまいました。村人は屈原の遺体が河に魚に食べられないように、魚の餌として蒸した米を葉っぱにくるんで川に投げ込みました。また河に住む竜を追い払うために、小舟を出してその上で太鼓や鐘を鳴らしました。その伝統が横浜ドラゴンレースや長崎ペーロン競漕に繋がっていきます。因みに中国の子供の日は旧暦5月5日、新暦6月1日となります。この日の中国のデパートでは、イベント会場に笹の葉っぱ、もち米と杏を無料で用意し、来場客はちまきを作っていました。日本ではちまきを食べる風習も廃れましたが、中国の一般家庭では今でもちまきを作ります。自分で作ったものよりお母さんが作ったちまきの方が美味しいと皆が一様に言うのには感銘します。子供の時に食べた懐かしい味、ほっとする安心の味を感じます。小さい時に経験した味は一生忘れないものです。
(写真:保定市万博デパート広場;ちまき作りのイベント)