大陸からの渡来人のもう一つのルート 長江流域を紹介します。

秦は(BC473~BC226年)に、現在の江蘇省と浙江省の“呉”、“越”、“楚”を滅ぼします。その度に呉 越楚(現在の蘇州・上海・宇波地域)の難民が舟で、日本列島に逃れ、実に日本人の75%は渡来人の血が流れていると言われています。

呉 越 楚という国は、中国第一の大きな川である長江の流域に位置しており、稲作、漁労、操船技術が発展していました。その頃の日本は弥生時代、“日本”という国ではなくて「小国がいくつも集まっている」状態、日本という統一国家ができる一歩手前の段階で、集落をムラとかクニと呼んでいました。その中でも有名なクニが、福岡県の博多にあった「倭奴国(わのなこく)」です。倭奴国の遺跡で有名なものは、佐賀県にある「吉野ケ里遺跡」です。王のもとに国がまとまり、中国とも交流、 身分制度や税制、市などもあったようです。この弥生時代は紀元前後の数百年間も続きました。

日本で小国が乱立しているころ、中国では朝鮮までも勢力下に収める“漢”という大きな国が統治していました。倭奴国は『おいらは漢と関係を持っており、他のムラやクニとは格が上なんだぞ!』と箔を付けてもらうために漢に使者を送りました。中国史書には、紀元107年には「倭国王の師升(すいしょう)らが、中国の皇帝・安帝に生口(奴隷)160人を献上した」とあり、倭奴国はこの後何回か使者を送り、その見返りとして、紀元57年 後漢皇帝・光武帝が倭奴国に使をよこし、倭奴国に金印を綬与、中国の従属国として認めたのです。江戸時代 福岡で農民によって偶然発見された金印には“漢倭奴國王”という刻印があり、これにより倭奴国の実在が証明されました。この「師升(すいしょう)」が初めて外国へ渡った日本人と考えられていますが、果たしてどのような人物であったかなど良く分かっていません。

中国の歴史は大変解明されています。日本ではまだ文字を持たず古代に関する文献がなく、日本の歴史は良く分かっていません。紀元3世紀にやっと邪馬台国の女王 卑弥呼が登場しますが、その邪馬台国はどこにあったかも結論が出ておらず、まだ古代の歴史が解明されていません。

当時の日本は中国の属国関係に近い状況で、中国史書にこの時代の色んな国名・地名・人物名が出て来ます。「倭奴国(わのなこく)」、「邪馬台国(やまたいこく)」、「卑弥呼(ひみこ)」などです。しかし見ての通り、実に変な漢字を使っています。「倭」は背が低い奴ら、「邪馬台国」の邪は“よこしま”、不道徳な馬の意味、「卑弥呼」の卑は“いやしい”、身分が低い意味を持っています。以前「匈奴(きょうど)」の意味は“死者を抱える奴ら”であることを紹介しました。何でこんな変な名前を付けたのでしょう。理由は次号で紹介しましょう。(写真:蘇州市の運河)