久々に歴史編に戻り中国古代のお話しをしましょう。まだ漢の時代(2千年前)を旅しており、日本から「遣唐使」の友人が来るまであと700年あります。この頃の日本は弥生時代、中国とは属国関係にあり、中国史書には日本の色んな国名・地名・人物名が出て来ます。代表的な名前に「倭奴国(わのなこく)」、「邪馬台国(やまたいこく)」、「卑弥呼(ひみこ)」などがあり、学校の歴史でも学んだと思います。でも実に変な漢字を使用しています。「」は背が低い部族、「邪馬台国」のは“よこしま”で不道徳の意味、「卑弥呼」のは“いやしい”身分で良くない意味を持っています。以前「匈奴(きょうど)」の意味は“死者を抱える奴ら”の意味であることを紹介しました。当時、日本は文字を持たなかったので、中国が付けた名前をストレートに受け入れましたが、なぜこんな変な名前を付けたのでしょう。

この時代の中国は世界の中心と言う中華思想の考え方があり、古代中国の文明度は他国を圧倒していました。文明圏以外の国は後進国の匈奴と同じように、野蛮を示す漢字を当てられ下劣な存在と位置付けられ、他の漢字でも“南蛮人”とは南の野蛮な人たち、他に“東夷北狄”など他民族を卑しめる語が使用されました。中世の京都の人でも、東国の武士を東夷(あずまえびす)と呼び野蛮人と見做しました。

ところで日本では外来語をカタカナで表記しますが、中国では同音異義語を当て字に用います。例えば「ケンタッキー」は“肯德基”(ken3deji1)、”ゴルフ“は(gao1er3fu1)などです。現代はピンイン読みを採用していますが、古代の中国は中古音と呼ばれる読み方でした。漢和大辞典(学研)には古代の中古音読みが併記されており、例えば卑弥呼を中古音読みするとpie3mie3ho、カタカナで読むとピーミーコー、即ちヒミコです。弥生時代の日本はまだ文字を持たず、中国で名付けた漢字「卑弥呼」をそのまま素直に受け入れました。なお史書によれば卑弥呼は呪い師と記されており、一般に古代の指導者は呪いで人々を導いたようです。この事からヒミコのミコは、巫女(みこ)の語源に繋がったと言う説もあります。ではヒはどんな意味が有ったのでしょうか。一説によると卑弥呼は古事記に出て来る「天照大御神」ではないかと考える学者がいます。年代的にも一致するらしく、ヒミコのヒは日となり太陽を表し、日巫女(ひみこ)つまり太陽に仕える巫女という説が有力です。

一方“倭”を中古音読みすれば、ur3、カタカナ読みすると「ワ」、同じように奴は「ナ」です。倭奴国王は即ち「ワのナの国王」です。一方、初期の邪馬台の漢字は“邪馬臺”となり、古代ではヤマトと読んでいました。このように古代日本で漢字を導入する以前、「やまと言葉」としてヒミコ、ヤマト、ワナ国と呼ばれていた発音を、「倭・邪・卑」などの変な漢字を当て字として用いました。

ワナ国は福岡地方にあった佐賀県吉野ケ里地域を指すようです。時を経て日本人が倭は良くない意味を持っていることを知り、当て字を漢字の「和」へ変更し、さらに「大」を加えました。この「大」は立派の意味を持つ修飾語です。例えば中国では“大保定市”(河北省保定市)とか小さな都市の名前に大を付けて権威付けする呼び方があります。このようにして「ヤマト」の漢字を「大きな和」と書く「大和」へ変更し、既に用いていた倭も同じく「ヤマト」と呼ぶようにしました。なぜ卑弥呼の文字も修正しなかったのでしょう。

他国を低劣な存在として位置付けるため、このように品の悪い字を当て字として用いました。その他にも日本神話が誕生した背景など、弥生時代には良く分かっていないことがまだ沢山あります。文字を持たず記録が残っておらず、解明が進んでいません。卑弥呼に興味がある方は、『日本史最初の女王「卑弥呼」とは何者なのか?』のURLを訪問下さい。詳しく記載されています。

写真は筆者が3年間過ごした西安市、漢の長安城を復元した一部です。周りには漢時代の陵墓も点在しますが、当時の建物は残っておらず今では麦畑となり、漢は遠い過去の出来事となりました。

(写真左:長安の都の変遷、写真右:地図中の黄矢印から西北地方を眺める)