前から何となく気になっていた志賀直哉の『暗夜行路』(新潮社)を読みました。
本は例によって懇意にしてもらっている済南図書館(제남도서관)の司書の方にお願いして取り寄せてもらいました。
『暗夜行路』は志賀直哉唯一の長編小説です。
大きく「前篇」と「後篇」に分かれており、両篇の執筆時期はかなり離れているとのこと。
僕は「前篇」を読んだ時、やたら重苦しくて暗い感じなので全部読めないかもしれないと思いましたが、「後篇」に入って主人公が結婚したあたりから急に面白くなりました。
その「後篇」のさらに後半部分に「朝鮮」の話が出てきます。
とても印象的だったので、少し引用したいと思います。
[以下引用]
謙作はこの人から或る不逞鮮人の話を聞いた。閔徳元という若い両班で、その地方では相当勢力のある金持だったが、鉄道敷設の計画で、その方の役人から相談を受け、一手に敷地の買占を引きうけた。
(中略)
人々は閔徳元を裏切者として憎んだ。然し彼は自分は単に親日主義者なのだといっていた。
ところで、いよいよ鉄道敷設の買上げが始まって見ると、それは閔徳元が役人から指定され、買占めて置いた土地とは三里も四里も離れた所だった。敷設計画が何時の間にか変更されていたのだ。閔はそれを少しも知らなかった。前に相談を持込んだ役人がそれを閔に教えなかったのだ。その役人も好んで閔を窮地に陥れる気ではなかったが、勧めた手前、既にかなり買占めの出来た閔にそれが打明けにくくなったに違いない。
然し閔にとってはこれは甚い打撃だった。自分が無一物になったばかりでなく、親類縁者からも甚く怨まれ、土地の者からは裏切者のいい見せしめとして笑われた。立場が全くなくなった。役人の言葉を簡単に信じた所に自分の手落ちはあるにしても、そちらから勧めて来た話である以上、この行違いに対し、誰れか責任を持ち、どうかして呉れる者があってもいい筈だ。見す見す自分一人が見殺しにされる。閔はこの事をいって再三再四、総督府に談判した。然し誰れも取りあってくれる者はなかった。責任者を出してくれといっても、勧めた役人は今は内地に還って、いないという風で、その真偽は別として、彼に対し気の毒だったというだけの誠意さえも見せなかった。閔がこの不合理に就いて熱すれば熱する程、役人の方は冷たく取扱った。そしてそれ以上に熱するようなら不逞鮮人と認めるような気配さえ見せた。結局閔は泣寝入りより仕方がなかった。
その後、一二年して、閔徳元は札つきの不逞鮮人になった。彼は何かの意味で日本に復讐してやろうと決心した。朝鮮の独立という程の事は彼には考えられなかった。それは殆ど不可能な事に思えていたし、その夢想は彼にはなかったが、それより彼では自分から総ての者を奪って了った者に対する復讐だ。絶望的な復讐心だった。彼は近年あらゆる悪い事に関係していた。
「多分この間死刑になった筈ですが、四五年前例の窯跡探しで、案内して貰った時など、何だか非常に静かでそんなになろうとは夢にも思えないような若者でした」
[引用終わり]
このエピソードは「後篇」の「二」の最後に出てきます。
主人公・時任謙作は朝鮮旅行中に、汽車の中で出会った人からこの話を聞きます。
「不逞鮮人」という言葉が何度も出てきますが、これは日本の統治に対して反抗的な朝鮮の人たちを指した言葉です。
非常に差別的な言葉ですが、時代背景としていちおう説明しておきました。
汽車で会った人物の話によると、閔徳元という人物が日本の官僚の依頼で鉄道敷設のための敷地を買い占めました。
本人もそれで金儲けするつもりだったのだと思いますが、日本側の裏切りに遭って結局無一文になってしまいます。
周囲の人たちからも恨まれ、自暴自棄になった閔は結局犯罪者になってしまいます。
彼は独立運動家として活動するのではなく、「あらゆる悪い事」に関係するような反社会的勢力となり、最終的に死刑に処されます。
「何だか非常に静かでそんなになろうとは夢にも思えないような若者でした」という最後の一文が不思議な余韻を引きます。
これを読んで、僕は妙にリアルだなと思いました。
確証があるわけではありませんが、志賀直哉も恐らくこれに似た話をどこかで聞き、それを小説風にアレンジしてこんなふうに書いたのではないでしょうか。
このエピソードは物語の筋とは全く関係のないまさしく「挿話」です。
もちろん、この後の展開や主人公の心情などを暗示する意味があるのかもしれませんが、それにしてもやや唐突な印象を僕は受けました。
『暗夜行路』が完成したのは1937年であり、日中戦争が始まった年です。
そういう時期に、一見すると朝鮮総督府のやり方に対する批判とも取れる微妙な内容をなぜわざわざ発表したのでしょうか?
作者の意図はよくわかりませんが、とても印象的な文章だったので引用させていただきました。
できれば志賀さんに直接聞いてみたいところですが。