司馬遼太郎『街道をゆく28 耽羅紀行』でした。
南元の「南済州図書館」で注文してもらい、借りてきたものです。
ちなみに、同図書館には僕が注文した日本語の本が少しずつ増えています(笑)。
『耽羅紀行』は司馬遼太郎が1986年に『週刊朝日』に連載していた記事をまとめたものです。
耽羅というのは済州島の旧名です。
司馬さんが実際に済州を訪れたのは連載の前年の1985年ではないかと思われます。
今から36年前ですね。
この本には、現在の済州島を理解する上でも重要なキーワードや知識が多く書かれています。
その中でも印象的なものを、今後いくつかご紹介したいと思っています。
今日はとりあえず「済州大学」に関する記述を見てみたいと思います。
実は司馬さん、済州大学を訪れていたんです。
済州大学校の門に入ったとき、玄文叔氏における故郷というのはここではないかとふと思った。
キャンパスは、アメリカの大学のように広い。門から正中線をひいたあたりに、かたちのいい寄生火山(オルム)が盛りあがっている。小山ながら三義岳(サミアク)という名のついた名山で、それがこの大学の象徴であるかのようにして、設計されているのである。
玄文叔さんというのは、司馬遼太郎の友達で、済州島出身の在日朝鮮人学者です。
「アメリカの大学のように広い」とありますが、確かに大学面積はかなり広いです。
僕の感覚では広島大学と同じぐらいの広さです(あくまで感覚です)。
「三義岳」は済州大学後門からほど近い場所にある小山。
僕たちも2回登りましたが、北側にハルラ山、南側に済州市内と海を見渡せる非常に気持ちのいい山です。
現在は「三義岳」という名前よりも「セミオルム」という名前で呼ばれることが多いようです。
↓済州大学後門から見たセミオルム

↓済州大学正門付近から見たセミオルム(右はハルラ山)

今はこんな感じで建物が増えており、司馬遼太郎が書いている「大学の象徴」というほどの存在感は感じられませんね。
それでも形の良さやハルラ山との組み合わせは美しいと思います。
何はともあれ30年以上前に司馬遼太郎がここに来て、上のような感想を抱いていたというのはとても不思議な感じがします。
感慨深い、というべきか。
※ 次は月曜日に更新します
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