ここのところ

一周忌が近づいているからかな。

相続税申告が終わったからかな。

連休だったからかな。



遠ざかってた希死念慮が顔を出す。

夫がいない世界に何か意味があるのかな。

それでも、空はただ青くて。

あの頃の辛さがまた蘇ってくる。



今の日本に生きている人は
どんなに貧しくても、数100年前の王様も経験できない豊かな暮らしをしている。


なのに、なぜこんな気持ちになるのだろう。
贅沢だ。




生きていることに意味などない。



少なくとも私はそう思っている。

だけれども、生きているからには、その天寿を全うしなければならない。



ある人に言われた。



『普通は死別して、一年たってようやく立ち直るのに、なぜあなたは早い段階から動かれようと思ったのですか?』



彼女から見ると、私は “立ち直っている“ ように見えるらしい。これは喜ぶべきことなのか、怒るところなのか、分からない。



ブログでも、たまにコメントに書かれる

『人間いつかは、必ず死ぬ。それが早いか遅いかだけ。』



正論ではあるのだけれど。

わざわざそれを私に言う意味はなんだろうか。



死別後すぐ、突然死の情報を検索しまくった。

そこで出会った情報に、すごく救われた。



特に、同じ時期、同じ年代、同じ病名または突然死で配偶者を亡くした方へは、勝手に自分を重ねて、戦友のように思っている。



勝手にブログをフォローし、

たまに私のブログにつけてくれるその方からの『いいね』は、生存確認だった。



若くに配偶者を亡くし、

希死念慮に駆られることは珍しくない。



だから、生存確認。



いいね。だけの繋がりだけど、生きていてくれてありがとう。と思っていた。



しかし、最近になって、アカウント自体が消されていた。これで、彼女の生存確認はできなくなった。



だれも、そんなことを頼んではいない。

私の自己満足。私が気になっただけ。

アカウントを消す行為ができるということは、生きている証とも取れる。



私はただただ彼女に生きていてほしかった。

だから、私も生きなければならない。

と、思ってはいる。



でも、私の生涯で、家族3人で過ごしたあの日々ほどの幸せが訪れることは2度とないだろう。



ただただ、この辛さが薄まることを願う。



願わくば出会うものを美しいと思い、新たな技術に触れ感動し、人を助けられる人になりたい。



こんな気持ちの時はなんにも言葉が出てこない。

ネガティブな内容が続いてごめんなさい。

でも、この気持ちもちゃんと記録しておこうと思った。



私と、これからもしかすると死別を経験するかもしれない誰かのために。



今はただ、ニュートラルな日々に戻りたい。