「はああああああ??」としか言いようのない怪我をしてしまいました。
地下鉄の駅階段で下り途中に爆走してきた子ども(小学高学年)に突き飛ばされて5段一気に落ちた、、、膝から。
幸い骨には影響はなさそう、、ちょっと半月板は心配。
診療時間外にも関わらず診てくれるところがあり助かった。
けど、、、。
「はああああああ?」の気持ちは収まらない親の言い訳。
障害があろうとなかろうと子どもでも大人でも人に怪我をさせてしまう可能性はあるのです。
私は最初の違和感として
「年頃なので手を繋ぐのを嫌がって、、、」という言葉。
言い訳は、
①障がいがある子どもである
(おそらく発語が難しいのでごめんなさいはなかったけれど怪我をさせたことはわかっているように思う。)
②その特性により制御不能になる
③外出はハイテンションになる
基本、嫌がろうが叫ぼうが「手を繋ぐ」それができないのなら見た目は悪いけれどハーネスみたいなものを使用する、そのほかの行動を制限する工夫をしないなら言葉は悪いけれど「ぶつかろうが、轢かれようが仕方ないんです」と思っているのでしょうか。
普段はそういうことがないなら予見できないでしょうけれど、予見に対して対策がされていなければ祈っているだけ?と思うのです。
私の怪我が、もっと階段の上の方だったら?高齢者だったら?赤ちゃん抱いてたら?
障がい者の外出支援や馬とのふれあいという私の経験から、外出はでき得る限りすることで新たな能力や感情を引き出してくれるので、他者への迷惑や事故の心配で引きこもってしまうのはもったいないと思います。
だから周りに手を借りていいと思うのです。
ちょっと邪魔だけど大人2人で挟んで歩くとか。
小さな子どもだって、泣き出して止まらないとか聞き分けがなくて外出先で身の置き所がなくなったということはあるあるですし、それに対してもそこまで苦々しい顔しなくてもーだったり、、、。
でも、それとこれとは大きく違うと思うのです。
正直、そんな「祈り」に頼った「一か八か」で怪我を負うことになるとは、、、。
「せめて手を繋いでください」とお伝えしたら「繋げるんだったら繋いでいます」と返され、、、。
もやもやもや〜。
たいへんだというのは間違いないのはわかるんですけど、、、。
しつこいですが、馬にふれさせると
まず「蹴られないために」「落ちないように」と自分を守る行動が芽生えます。
その上で糞の始末やブラッシングで自分の役割を見つけ、社会との繋がりの一歩になるケースもあるのです。
感情のコントロール以前に、生存本能としての危ないを「ホントに危ない身を守らないといけない状況」で学ぶのを試してみていいと思うのだけど、、、。
商業的アミューズメントの多くは自分が一方的に楽しむので、やりとりはほとんどない、ぜひ頑張る過程があるものとか双方向のJoyを体験してほしいです。
仕事中の怪我なので労災ですし、後遺症云々ではなさそうなので責任問うとかは別にいいのです。
でも他者への安全配慮とスタンプラリーとかでなくどーんと田舎で遊んで欲しいなあと思ったのでした。