中国の習近平国家主席(共産党総書記)は3月下旬まで4カ月以上、地方視察も外国訪問もしなかった。中国の最高指導者の行動としては極めて異例。健康に大きな問題があるようには見えないので、政局もしくは自身の安全について何らかの懸念があることから、できるだけ北京にとどまっている可能性がある。
■久しぶりの視察は首都近郊
習氏は毎年12月から翌年2月の冬の時期も地方か外国を訪れてきたが、昨年11月上旬に広東省を視察した後は、ほとんど北京から離れなかった。春節(旧正月)前に恒例となっている民情視察は北京市内、部隊視察はオンラインで行った。英仏独やカナダ、韓国などとの首脳外交も、すべて外国首脳を北京に招いた活動だった。12月上旬に1日だけ四川省へ赴いたものの、マクロン仏大統領に同行して観光名所を訪れただけで、視察ではなかった。
2023年の春節前の視察もオンラインだったが、これは、ゼロコロナ政策の撤廃で新型コロナウイルスの感染が広がっていたからだ。その前の22年12月にはサウジアラビアを訪問している。
習氏は今年3月23日、河北省の雄安新区を視察した。ただ、同新区は北京から約100キロしか離れていない。日本で言えば、東京から宇都宮か水戸に行くようなもので、地方視察と言っても、日帰りで首都郊外の様子を見に行っただけだ。
しかも、国営中央テレビのニュース映像を見る限り、前回(23年5月)の習氏の同新区視察と違って、今回は屋外での活動がほとんどなかった。前回は、高速鉄道に乗って現地入りして、住宅地で大勢の市民の前で話をしたり、各種施設の建設現場を視察したりした。だが、今回は、学校の校舎の前で生徒や教職員に対して発言したのが唯一の屋外活動だった。
■不安要素は軍の動揺か
新型コロナのような感染症が広がっているわけでも、党中央や中央政府に緊急事態が生じているわけでもないのに、なぜ遠出を避けるのか。不安要素として考えられるのは軍高官の大量失脚による軍内の動揺だろう。
軍の大粛清は23年夏に始まったが、昨年10月以降、習氏が率いる中央軍事委員会の副主席2人をはじめ多くの軍高官の失脚が正式発表された。いずれも習氏の側近や盟友のグループに属する軍人だった。習氏が「反腐敗」を口実に自ら断罪し、党の軍に対する優位を誇示した形だが、補充人事がなかなか進まず、軍の要職の大半は空席のままだ。
軍のこのような異常事態が続く中、習氏は今年3月7日、全国人民代表大会(全人代=国会)の軍代表団全体会議で「軍内に党への二心がある者は絶対いてはならない」と演説。軍人たちに対し、「政治」を重視して「党の軍隊に対する絶対的指導を揺るぎなく堅持、強化する」よう要求した。軍内に「二心がある者」、つまり、裏切り者がいる可能性を前提として、軍人たちに直接警告する異例の公式発言だった。
■異例の忠誠要求キャンペーン
この演説を受けて、軍機関紙の解放軍報は「政治建軍(政治面の軍隊組織建設)」キャンペーンを開始し、大量の論文を発表。次のような見解を示した。
一、政治建軍は人民軍隊建設の基礎だ。政治整訓(政治的引き締めと教育)を深めて、政治建軍の成果を挙げていかねばならない。
一、強軍はまず政治的に強くなければならない。政治的な強さは最も根本的な強さなのだ。わが軍は党の政治的任務を執行する武装集団であり、軍隊建設をしっかり進めるには、必ず政治的に見て、政治的に把握し、政治的に建設していかねばならない。
一、(習氏が総書記に就任した12年の)第18回党大会以後、われわれはわが軍の幾つかの根本的なものを回復して発展させ、多くの宿痾(しゅくあ)・積弊を打破し、党の軍隊に対する絶対的指導を弱める状況は解決され、一部の党組織が軟弱で力不足だった問題は改められ、わが軍における党の指導と党の建設は全面的で深刻な変化が生じ、強軍事業が歴史的成果を挙げ、歴史的変革を起こすために強固な政治的保証を提供した。これらの成績は、習主席がかじ取りしたものであり、習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想が導いたものである。
一、習近平同志を核心とする党中央は、これまでにない決意と強さで政治整訓を進めることにより、党の軍隊に対する絶対的指導に影響し、党による執政の基礎を損なう重大な政治面の潜在的危険を取り除いた。第15次5カ年計画においても、必ず政治整訓を深め、人民軍隊の絶対的忠誠、絶対的純潔、絶対的信頼を確保していかねばならない。
一、(全人代の軍代表団全体会議に参加した)皆は一致して、党に対する絶対的忠誠は必ず唯一、徹底的、無条件で、中に何の異物もなく、何の水増しもないものでなくてはならないと考えた。
一、「口先だけの忠誠」「偽の忠誠」「言うこととすることが違う」。この種の政治的に表裏のある人は、党の事業に対する危害が極めて大きい。
一、各レベルの指導幹部は率先して、習近平の新時代の中国の特色ある社会主義思想と習近平強軍思想の確固たる信仰者、積極的な伝播者、忠実な実践者にならねばならない。
中国共産党政権では昔から「政権は銃口から生まれる」といわれるほど軍事が重視されており、中国軍は「党の軍隊」なので、政治指導者が軍のコントロールを重んじるのは当然ながら、軍人に対する忠誠要求キャンペーンがこれほど集中的に展開されるは珍しい。しかも、上記の引用から分かるように、忠誠の対象は事実上、党と言うよりも習氏個人だ。異例のキャンペーンは、自分に対する軍人たちの忠誠が足りないと習氏が感じていることを示している。
■個人独裁志向の弊害
今の中国には、習氏の地位を直接脅かす人物や勢力はなく、社会主義流の政治統制でがんじがらめになっている「党の軍隊」が党の最高指導者に正面から歯向かって危害を加える可能性はそもそも全くない。
習氏の不満は「腐敗」が主な理由とされているものの、権力チェックの仕組みを欠く独裁体制で汚職がまん延するのは当たり前なので、軍人の不正だけを組織ががたがたになるほど徹底的に取り締まるのは不可解である。
解放軍報の一連の論文で一つ気になるのは、軍人の「革命化」と「専業化」に関する記述だ。前者は政治的忠誠心を強めること、後者は軍事専門家としての実務能力を高めることを指すようだ。
この二つは併記されることが多いが、必ず革命化が先に置かれる。また、同紙の一部の論文は「政治面で不合格なら、すべてが不合格になる」「人材が専業化すればするほど、革命化が必要になる。武器・装備が現代化すればするほど、革命化人材がそれを掌握する必要がある」と指摘。また、「技術を重んじて政治を軽んじる、業務を重んじて思想を軽んじる、能力を重んじて品格を軽んじる傾向」を警戒するよう呼び掛けており、革命化を優先しているのは明らかだ。
つまり、習氏に対する忠誠が何よりも大事ということである。年がら年中、習氏をあがめる政治活動に多大な労力を費やしながら、部隊の戦闘力向上を図るのは大変なことだろう。習氏の個人独裁志向の弊害である。
革命を指導した毛沢東や鄧小平と違って、ポスト革命世代の江沢民元国家主席は現役時代に革命世代の軍人たちの影響から脱することができなかった。後任の胡錦濤前国家主席は、江氏が抜てきした軍人たちに軍内の運営を事実上任せて、中央軍事委主席としてのリーダーシップをあまり発揮できなかった。ただ、党と軍の関係は安定を保った。
江・胡時代は、共産党が政治を全面的に支配する政権としては正常とは言えない状況であり、習氏がそれを是正して、党の指導を強め、中央軍事委主席責任制を徹底しようとすること自体は正しい。ただ、ひたすら忠誠を求めて、箸の上げ下ろしまで口出しするようなやり方で、巨大な伏魔殿である中国軍をうまくコントロールするのは難しいのではないか。
中国軍の現状はプロ野球に例えると、野球をやったこともない球団経営者が監督やコーチをすべて首にして、自らチームを指揮しているようなものだ。そのようなチーム運営が球団全体の経営に悪影響を与えるのは言うまでもない。習氏は政権全体の利益のため、何らかの政治的手打ちにより、できるだけ早く事態の正常化を図るべきだろう。(2026年3月30日)