「おと・な・り」

熊沢尚人監督作品


梅田ガーデンシネマにて鑑賞。



主演の二人がお見事。

麻生久美子は本当に魅力的な女性だと思います。

岡田准一も抑制の効いたええ演技やった。


が、しかし実は、

主演二人の恋愛模様よりも、岡田くんの周囲の人間

(市川実日子と池内博之)のストーリーのほうが断然面白いのです。


言葉と音の充満する主演二人の物語に比して、

上記二名は重要な役割を担いながらも言葉と音が発せられることはとても少ない。

それでもとても心に残るのです。

とてもわずかな会話の端々から彼らの岡田くんとの関係性を、

僕たち観客は推測しなければならない。

それゆえに、二人の演技はさりげなさを装いつつも、切実さを乗じた

とても濃密なコミュニケーションとなり、僕の脳裏に強く残る。


池内博之の立ち居振る舞い、

市川実日子の微細な表情こそが、

「音とコミュニケーション」というテーマを

本作品において最も掘り下げたテクスチャーだったのではないかと

思ったのでした。



それにしても、この映画観てると東京への憧れがいやが上にも高まってしまいます。

かなりええ部分のみ切り取ってる感はあるけどね。

あー早く東京住みてい。


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ほぼ日刊イトイ新聞の本 糸井重里著



毎日拝見している「ほぼ日」の誕生と成長を綴った、

本人曰く「早すぎる社史」。

大学3年の時にその存在を知り、

以来「ほぼ」毎日欠かさずチェックし続け、
日々の思考や、文体、人生哲学にまで影響を受けたと言っても

過言ではありませぬ。
何がそこまで自分を惹きつけるのかを知りたくて本書を手に取った次第。


いやー、これが実に面白い。
とにかく糸井さんは
「しつこいぐらいに考える」
というのが魅力のポイントだと思っています。
そして、アウトプットはあくまでさりげない。
押し付けがましくはないものの、読者はその影響を確実に受ける。

50歳になったおっさんが、

何を感じ何を考えていたかが克明に記されており、
とてもタメになります。


一番印象的だったのが、
売れっ子コピーライターとしての地位を確保しながら、
時代の流行と広告業界の周辺事情を鑑みてある種の危機感を抱いていた

というくだり。

クリエイターは若い頃にちやほやされても、
年齢が加わると既得権をかさにして威張るか、

管理職的なポジションにつくかなどして、
いずれにしても自らのクリエイティブを発揮する機会に乏しくなってしまう。
周囲からの依頼がそのような固定化した

面白みのないものになってしまうのだと言う。


なるほど、これは考えても見なかったが
(キャリアもスタートさせてすらない青二才だから当然だけれども)、
たしかにありうる。
これは想像するだけでも恐ろしいことだ、と僕には思える。


そこで糸井氏が取ったのは、
「自らの裁量でクリエイティブすることができるメディアを自分自身の手で持つ」
という戦略だった。
50歳にして、ワクワクできるものを作り出すことにしたのだ。

うらやましい。

と、言うのは簡単だが、

これは日頃から徹底的に考えていなければ出てこないソリューションだと思う。
不断なる現状観察と、自身の感情の徹底的な尊重なくしては、

このような飛躍は望みがたい。

おかげで糸井氏は未だにメディアの世界で影響力があるし
(それはほぼ日以前とは異なる力である)
とっても魅力的な大人として若者の目に映る。

ある種の危機感を抱いていたとはいえ、

彼は一貫して楽しむことに注力している。
それが本文中どの文面からも伺えるのが心地よい。

「ほぼ日」の冒険を、ワクワクしながら堪能させていただいた。
いやー仕事って楽しみ方によっては面白そうだな。


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腑抜けども悲しみの愛を見せろ

佐藤江梨子主演の青春映画です。
これは「青春映画」といって差し支えないと思います。
「妹が自己実現を果たすために田舎町からエクソダスする物語」

として僕は楽しみました。
佐藤江梨子演じる姉の狂気と退廃が主旋律のようにも見えるが、

実は妹のほうに力点が置かれているのではないかと。

田舎にはこういう閉鎖的で病的な側面が潜んでいるもんだと思います。
自分自身牧歌的な田園地帯でのうのうと暮らしながら、

たまにヒヤッとすることがあります。
そういう恐怖感を若干のコメディを交えながらも上手く伝えてくれます。

この監督さんとか脚本家さんは田舎育ちなんだろう。たぶん。


上京へのモチベーション、都会生活へのモチベーションってのは

概してこういうもんなんですよね。
自分を抑圧する何かからの逃亡。
それへのエクスキューズとしての才能。
「リトルダンサー」や「北京バイオリン」「ニューシネマパラダイス」など、

世界的に普遍なものとして捉えることができるかと。
僕はこういう「都会へのエクソダス」ものが大好物なのであります。


さて、そのような世界的普遍テーマの中で、

日本の作品として生を受けた本作品には、

どのような日本的特異さがあるのか?
一つは、抑圧のベクトルが多方向に網羅的に存在しているところが

大きいと思います。
主人公である姉が最も多くのしがらみを関係者にバラまくが、
彼女もまた過去の妹の仕打ちによって精神的に抑圧されている。
兄も兄嫁も一家の関係者それぞれが抑圧し、抑圧される関係にあるわけです。

そして、その抑圧が陰鬱で陰湿でインモラルなものとなっている。
ここには鶴見俊輔が指摘するところの

「鎖国性」が横たわっているな~と感じた次第。
そのへんにこの作品の特異性があると言えるかと思います。


若干論理が飛躍ぎみだが、そういうことを考えましたよ、ということで。


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