2006 年新潮社より刊行。京都の芳蓮堂、という古道具屋がでてくる一連の怪奇譚。

 

雰囲気のある世にも奇妙な物語として、まとまっている。同じ荒唐無稽でもユーモアの有無でこんなにトーンが変わるものだなと感心した。

 

初期の作品なので、作者自身もどのような作風が受け入れられるのか、どのような作品が書けるのか試してみた部分もあるのではないかと思う(「太陽の塔」「夜は短し歩けよ乙女」に続く3作目という話だ)。

 

狸を主人公とした「有頂天家族」はこのあとに書かれることになるが、この辛気くささとは逆側に振り切った明るい奇想譚になっている。作者としても思うところがあったのではないかと邪推する。森見作品のなかでこういう暗い話はどの程度を占めるのか興味を持った。

 

以下、具体的にどのような話だったか端的にまとめる。

 

「きつねのはなし」バイトの男の子の彼女が幻燈にトラップされる話。「果実の中の龍」虚言癖のある先輩の四方山話を聞く大学生の話。フィクションは聞き手がウソだ、と相手に言う時点で終了する。「魔」 京都の夜の通り魔に自分がなってしまった話。「水神」葬式で庭の池の水が溢れて屋敷を壊す話。

 

「果実の中の龍」を受けて、壮大なウソについて考えた。

 

p141 「やがては先輩もその年代記が祖父の妄想に過ぎないことを知ることになったが、その荒唐無稽な物語に魅了された」

 

ウソはひとつ吐くと連鎖的に次のウソで補強されて展開されていく。最初のウソに一貫性を持たせるためのつじつま合わせとして、「フィクション」は作者の想像力によって作られ、事実(現実)とは異なる物語が紡ぎ出されていく。その語源は、ラテン語で「形作られたもの」を意味する “fictio” だという。

 

ふと、演劇をしていたとき、脚本を整えてくれた男子(ユーヤくんだったかな、もう名前忘れたな)を思い出した。彼はご都合主義のストーリー展開をご都合に見せない理由を考える天才だった。必要なエピソードを「そうでなくてはならない」と繋いでいく、彼は偉ぶらない東大卒だった。モリミーも京大だし、頭良いヒトのロジカルはこういうところでも発揮されるんだな。

 

さて、話を戻すと、上記、本作品の紹介で、先輩の語る物語を「虚言癖」と一蹴してみた。「あの人はつまらない人なのよ」とナツメさんはいう。だって、彼の語る体験はすべて四畳半から生み出され、何ひとつ裏づけられる事実は起きていなかったのだから。

 

しかし、たとえ事実がなかったとしても、信じさせてしまうほどのつじつまは、真実だ。仮説が説得力のある理由で、真実と考えられるものが演繹される、そのロジック自体が強固な証拠となるからだ(でなければ、わたしたちは宇宙の果ての事象を教科書で事実として学習しない)。

 

「フィクション」は、私たちが見通せない先まで眼の前の仮定を展開し、経験しないことをわたしたちに経験させてわたしたちの頭を開く。背伸びしても見えない場所を見るための高下駄、だから楽しい。

 

p159 「しかし先輩が姿を消してこの方、私は彼ほど語るにあたいする人間に一人も出会わない。

 

「フィクションがわたしたちにもたらすものは何か」その答えを身をもって教える先輩に、主人公が価値を見出すのは十分に妥当性があるのだった。