1985年に「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」を読んだ。それが自分が初めて読んだ村上春樹の書いた小説で、そこからファンになった。「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は小説としても冒険的で肌触りのよい小説だった。アメリカの小説の感触に似ていた。「サイダーハウスルール」とか、「ガープの世界」とか。

 

あとがきを読むと、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」は、その前に書いていた中編の「街と、その不確かな壁」という小説を書き直すことによって生まれたという。本書もまた、同書を書き直したものだというが、2つは大きく印象が異なる。同じ素から伸びた枝葉は異なる表象へと進んでいる。

 

というか、「1Q84」とか「海辺のカフカ」のあたりはすでに「ハードボイルドワンダーランド」のころにあった80年代の高揚感や手探り感はなくて、むしろ緻密な計算のほうが前に立った印象がある。本書は、その技術がさらに深化してより細やかに神経が行き届き、非現実世界がより自然に、地に馴染む洗練を感じた。

 

比較のために先に挙げた3作はどれも、2つの話が交差し、終盤で溶けあう。このような作風を得意とする作家であると知っての(あるいは、それを魅力としてさえ読むのであるが)、2つの話を自分の頭で編集するのに些か疲れてもいた。そのようななかで、本作は2つの並行世界がリニアに書かれているところが新しく、読む負担が格段に減った。


表裏ふたつの世界があったとしても、本体(影でないほう)が体験できるのはいつもそのどちらか片方しかないのだから、それが自然だ。読者は伏線が開かれるまでふたつの世界の関係性を薄々感じながらも説明のつかぬまま、語りに沿って物語の最後まで連れていかれる。

 

物語のトーンも、より落ち着いて冒険が冒険らしい高揚を以て語られないのが特徴的だ。福島のとある町を舞台に現実と非現実が交錯し、さらなる謎に迫りゆく世界観が展開されるのはエキサイティングでしかないと思うのだが、主人公たちの控えめな語り口と暮らしぶりからそれをそれと淡々と受け入れてしまう空気がある。

 

あとがきに「ハードボイルドワンダーランド」との関係性が説明されていたため、このような雑感からこのブログを書きはじめたが、以下、本作は何を描こうとしていたのかについて、書いていきたいと思う。

 

中心的に語られているのは、なんらかの理由で現実に適応できない、と感じている人間の「居場所」についてである。主人公たちは、自身に存在意義(生きる理由)を持てないままに、現実と離れた世界を創造しそこを「居場所」として影を住まわせる。その場所は高い城壁に守られていて他者の侵入を拒み(許可された、資格のある者以外は)時間の影響もなく、刺激は少ないが安全な場所だ。

 

主人公は、一度はその国に足を踏み入れ虚構のなかに暮らすことを決意する。しかし、もうひとりの自分である「影」が現実(と考えられるもうひとつの世界、そこも幽霊が出るなど超現実が存在する世界なのだが)に帰ることを主張し、「影」だけが戻るという顛末で第一部は終わる。


第二部は、「影」だけを帰したはずなのに現実へ戻ってきてしまった主人公が、擬似的な城壁に守られたような安心をもてる「居場所」を町立図書館に見つける話である。成り行きからすると、彼は「影」でなければならないと思うのだが、彼はむしろ並行世界の「本体」となり、これが、第三部で本体と影の一体化が実現される予兆となる。

 

第三部こそ、この本のクライマックスであり、本作は永遠の愛を描いたマルケスの本へのオマージュであったことが明かされる。本体と影とが分離しないではいられないほどの自身の存在意義の喪失は、唯一の愛を捧げた人の死にあった。生きる意味(「居場所」)を見失った彼らは自分の意思で築いた壁に守られる街(内的世界)に閉じこもり、記憶を封じて今を生きる。

 

村上春樹はマルケスが描く愛をこうした形で解釈し、作品として再構築したのではないかと思う。しかし、本歌取りであるがゆえに、つまり、彼はそのアイデアに共感はするけれど、彼自身から生まれたのではないテーマを扱うことになったからではないかと察するが、第三部はちょっと浮いているような感じも受ける。

 

これまで彼が描いてきたのは、人間の奥の奥を見極めようとする目だった。人がわかり合えるいちばん底の部分の言語化を試みる。しばらく彼は暴力性について描いていたと思うが、本作は、至高の愛が失われたあとの、あるいは生きる意味を失ったあとの寂寥とそれでも生命ある限り生き続けなくてはならない人間の「居場所」のありかたについて描こうとしたのではないか。

 

自分としては、正直、その、一度燃える恋をした人間はそれ以上の恋はできない(する気を失う)、というのはあったとしても、人生全体にまで意味を失うというところに通底する普遍性を見ることができなかった。たしかに追随を許さない良いものを経験してしまうと、何もかもが不満足に思えて続ける気を失くすという心情は分からなくもない。でも、自分は失意のあとはジャンルを変えて、違うもののなかでまた至高を求める「ハードボイルドワンダーランド」を続けてきた。

 

体験していないことなんてやまほどある。もう恋なんてしないと思っても、また、いままで知らなかった別のなにかにまた、専心して、究める楽しさを味わっていける。

 

もちろん、御年70余の著者とは見る景色が違うだろう。いつか読み直したら違う感想を持つかもしれない、この600頁余の本を読む時間があれば。たぶん、別の世界でね。