前のつづき


とにかく、トモエ館の前のベンチの風の当たらないところが1人分空いた。しれっとそこに座り込む。ここからが登山の後半、持久戦だ。


隣に座る女の子がスマホをいじっている。どうやら、天気予報を見ているようだ。彼女の反対側に座っていた男性が他所に行ったので彼女も単独であることが分かり、話しかける。「いまどんな感じなんですかね」


彼女はスマホの画面を見せて、今日の16時は快晴となることを示す。そこまでは雲のマーク。雨はない。が、風がある。「いつから座っているのですか、どのような状況になったら出発しようと思っていますか」とまた尋ねる。


聡明そうな顔をした若い女の子だ。わたしはこのような顔の女の子を知っている。彼女たちは若くてもしっかりした判断をして行動する。しかもそれは概ねのところはずれない。わたしは彼女(彼女ら)がどのような判断基準で動くのかが知りたくなった。


わたしは続ける。「わたしは昨日も上ったのだけれどひどい雨で。為すことも為さずに下山したのを悔いて再度来ているのです、ああ、人の言うことなど聞くのではなかったと。私はそのようなアプリがあることも知らなくて人のいうことを鵜呑みにするしかなかった、その点、あなたはちゃんと自分の調べたエビデンスをベースに自分で考えて行動するのですね」「トゥ・マイ・ハート」と彼女は言った。自分の信じるところを生きる。


しばらく無言で過ごしてから(その間、どれだけの人が行ったり、戻ったり、宿の玄関口に立つなと怒られたりしただろう)、わたしはもう一度彼女に話しかける。「とにかく、あと2時間もすれば日の出となり、最悪はここから見ることができるから、それはそれでいいことにするよ」


「イン・ザ・ワースト・ケース」と彼女はつぶやき、また無言になる。周囲が慌ただしくなった。暴風のなか、登頂をめざす動きが出てきたのだ。彼女がふと立ち上がった。「えっ行っちゃうの」「イエス」「なんで?だって状況は先刻と何ひとつ変わっていないよ。何があなたにそう判断させるの」「ビコーズ・アイ・ウォント」「なんも根拠ないの」「ない」


それでいいの?!こんな賢そうな女の子も結局、勘で何をするのか決めてしまうの?


だが、それに釣られて自分も登りに行くわけにはいかない。わたしもわたしのなかの理屈に納得するまでじっくり待たなければならない。彼女の消えた場所に尻を移し(そこだけ丸く雨に濡れていなかった)、また待つうちに今度はまた別の問題が発生する。寒い!汗が冷え、ウェアの中も濡れる身体は動かないと体温が低下する。


昨日、シニアの4人組パーティの人が途中、雨で低体温症になりかけたと言っていた。指先の感覚がなくなり、呂律がまわらなくなり、眠くなって意識が遠のくという。恐ろしくなって寝入りばなに検索したから対処法は知っている。温かいものを食べるのだ。


なぜそれを思い出したかというと、隣に座った男の子がカップラーメンを食べ始めたからである。思い立って出てきたわたしは朝ごはんを食べていない。彼は友達と話しているときは中国語だったが、買い物のときは日本語だ。勇気を出して聞いてみる。「日本人の人ですか」(なにしろ、そこには日本人がいないのである。聞こえる言葉はほぼほぼ中国語だった)


「いえ」「日本語お上手ですね」「4年半いますから。毎年、登っているんです」「去年はコロナだったのに?」「去年はそれでももっといました」彼は宿の前のスペースを見やる。今だって、行き交う人の道でない場所(つまり道の両側)は人が間をおかずに立っている。そうか、風のせいでこれでも少ない方なんだ。


彼に頼む。「わたしもラーメン買ってくるからこの場所取っといてもらえませんか」「いいですよ」よかった。こういう頼みごとはニュアンスが入るから英語では話しにくい。「これはわたしが今まで食べた食べ物のなかでいちばんおいしい」彼は日本語で言った。うん、本当にそうだね。


食べ終わると彼は「友達を探しに行ってくる」と腰を上げた。わたしはいつまでこうやって待つのだろう。


(INTERUDE)


さて、断崖から吹き飛ばされることを恐れてこうして待機をしているが、そういえば、下山道を上れば時間はかかるが無理なく頂上に辿りつく。つまり、本当にだめなところまで行ったら行ったでコース変更するなりの方法がきっとある。わたしはベンチから跳ね上がると登山道の階段に足をかけた。まだ間にあう。


トモエ館からの登山道の登り口には鳥居があり、ここからが神様の領域になるという。その石段を上る人、下りる人が行き違う。支えられて下りる人に話しかける。「大丈夫ですか、なぜ下りるのですか」「気分が悪くて」。屈強そうな髭面の成年男子が友人2人に支えられて下山する。わたしは着実に歩みを進める。だって、知った道だから。最後の9合目5分からが険しいことを知っている。でも、そこまでならそれほど恐くないことも。


振りかえると、曲がりくねる道の眼下にヘッドライトが脈々と続く。どのようなピルグリミッジ。この巡礼者たちはなにを好きこのんでこんな悪天候の真夜中に惨めな行列を作るのか。もしも誰かが本当に自分に優しければ、こんなところにこない。おうちでぬくぬくしている(夫のように)。だが、来ちゃっている、というのはよほどの好事家なのだ。お金を払って辛い目に遭いたいとは何ごとか(たとえ、晴れていたって山登りはそもそも過酷だ)。


夜半に移動する私たちは不法に国境越えをする難民の群れにも見える。彼らはどのような気持ちでのろのろと歩くだろう、そしてわたしたちは。うなだれ、疲労を見せながら無言で黙々と歩くわたしたちは、見た目がどんなに彼らと似ていても、「遊びに来ている」のである。


そう、わたしはとても楽しい。お金を払って、誰に強いられたのでもなく、自分の好きでしているこの体験はとても楽しい。これほどまでにモノを考えさせ、新しい刺激を与え、それでいて安全であることが(ある程度)担保されている。富士山自体が、自然を上手に利用した巨大な遊興施設なのだ。そのエンタメは、絶対に私たちに寄り添わない相手を楽しみきる術を教える。


わたしたちは登山に来て、晴れることを希望する。ところが、山はいっこうに配慮を見せない。雨を降らす、風を吹かす。晴天を見せる。その日のうちに何回も移り変わる、まるでネコか、赤ん坊か。わたしたちの希望は通じない。思いどおりになる便利を作りあげた日常の外側に、こんなにわがままでいることが許される生き物(自然)がいるとはよ!


しょーがないわねと思いつつ、わたしは赤ん坊が家にいたときのことを思い出す(あっという間に育っていってしまった)。言葉も通じないあなたにわたしは説教をしたものだ。「あのね、こちらも折れているわけだから少しは協力的な姿勢について考えてみてもらってもよいのでは」


東の空が明るくなる。そりそろ日の出だ。わたしはどうやら9合目の途中で見ることになりそうだ。わたしは叫ぶ、「見て!空が明るい!」(正確には、「なりつつある」と表現した)


太陽が顔を見せる、空は曇っているが、太陽の顔を阻むものではない。人々がカメラを取り出す、なんと荘厳なのだろう!


頂上まではいくらもなかった。ゴールの鳥居のところで中国人の男の子が写真を撮ってというのでわたしもエクスチェンジで撮ってもらう。人々がみな太陽と眼下に広がる雲海を撮っている。昨日の登頂で心残りをした神社に入り、自分が残した不出来な絵馬を取り返してもう一度書く。どうか、わたしはわたしの判断でわたし自身だけでなく、周囲の人も幸せにできますように。


それから、もうひとつの心残りであった、頂上を楽しむイベントをやる。お鉢巡りである。誰もいない道はまるで違う星を歩くようだ。映画のセットみたい。でもこれは現実で、わたしはとにかく、日本で一番高いところにいる。


途中に気象観測所があり、ここが本当にちいばん高いところだとそこにいた人がいうので、折角なので記念撮影をしてもらった(あとから聞くと、並ぶそうである)。そしてぐるっと一周、元の場所に戻ると、昨日食べそこねたおしるこを食べる。よし、これでぜんぶやりとげた!


時間は6時半をまわっていた。昨日の計算でいくと、1時間で宿に帰れる。何も言わずに荷物を残してきたが、昨日預かってくれたのだから、分かってくれていることだろう。


というか、世の中、それくらいの人を容れるゆとりがあって回っているのだ。自分だけ「間違えてはいけない」と杓子定規に捕らわれて、苦しい方に閉じ込められにいくことはない。万が一、なかったらなかったで(考えにくいが)、現金もカードも持っているから、登りきった今、これ以上の装備は要らないっちゃ要らない。心配することはなにもない。自分をよく観察して、いちばんよいように時季が整ったときに動けばよいのだ。