皆さま、こんにちは!雨ですね。というか、台風ですね。私は雨が降り出した初日にバイクに完全防水のカバーをかけそびれてそのまま祈るように雨上がりを待っています。一応、屋根付き半カバーではあるのですが、足回りが錆びついたらきっと泣く。


とはいえ、今はひたすら待つしかないと気持ちを切り換えて晴耕雨読、今日は本のレビューです。

 

 

著者マイケル・カニンガムは現在 74歳、イエール大学の教授です。本作『めぐり合う時間たち』(原題『The Hours』)は1998年、46歳のときに発表されました。内容は 1920年代のイギリス文学「ダロウェイ夫人」の本歌取り。


彼は 15歳のときにこの本を読んでダロウェイ夫人の屈折に「気持ちがものすごく分かる!」と共感し、ダロウェイ夫人は根暗でペシミスティックだという世間様の評価にはげしく憤りを感じてその本質を伝えるべく、彼の解釈で作品を上書いていったのでした。ピューリッツァー賞を受賞してしまうほどの精緻さで。


この『めぐり合う時間たち』のもっとも大きな特長はその構成美です。すでにクラシックのオマージュであることに加え、時代の異なる3人の女性をイメージのなかに巧みにシンクロさせて違和感をもたせず、しかも最後に潜ませた伏線の回収があるという、複雑なストーリーラインを好む勢のツボを押す。


表現が優美で語彙もアッパー、イメージがさざめき合う、英文学(欧米文化)の素養がないと何を言っているのかもはや意味不明なのにもかかわらず、音の響きのよさでまた連れて行かれる、エンタメとして瞬間に消費されるにはまったく似つかわしくない、味わいて噛みて噛みてまたチューチューとエキスを染み出す、そういう系の作品でした。日本で言ったら芥川賞系ね(それにしては長すぎるが)。


それで芥川賞系というくらい、スタイルに意匠があるのみならずテーマがよい。15歳の多感な少年を教化する(共感させる)ほどの品物だからな、つまり、少年が言語化できないモヤッとを伝えたのだからな、これは相当なものである、というか、普遍の分かりみがすごい。


わたしが受け取った分かりみはこうだ、つまり、「それでも私たちは生きている」。そうじゃないですかね、私たちはけたたましくも不完全な私たちを生きている。世の中には正しき道があると言われながら、主人公はゲイであり、かたや、元恋人はエイズに侵されて余命幾ばくもない。


いや、ゲイの中にもまた、ブルジョワに甘んじるゲイと無頼のゲイがいて、ブルジョワの側は本筋ではないと責められる気持ちにさせられるのだ。繊細で気持ちが行き届いてこそ、生きづらくなる苦しみのうえに、ぐるり一巡してやはり今日という日は美しく愛さずにはおられず、隣にパートナーがいることを喜んで今日を生きるのだ。


カニンガムが伝えたかったのは、根拠もないけれど、なんとなく、『ダロウェイ夫人』を書いたヴァージニア・ウルフが自殺したことについての再解釈だったのではないかと思う。


『めぐり合う時間たち』のローラという女性は作中で『ダロウェイ夫人』を読んで自分は死ぬのを思いとどまる。分岐するパラレルワールドで死ぬという選択も、生きるという選択も、シンプルに二択に過ぎない。私を生きるか、生きないかだ。


生きている方のローラは、あるいは、リチャードに先立たれたクラリッサはまためぐる明日を、今日を生きる、あの日選ばなかった、もしくは選ばれなかった過去の分岐を後ろにして。


村上春樹なんかはストーリーライン2つが撚り合っていく複雑な話が好きな人たちを鷲掴みにしているけど、3つは日本にはなかなかないかも。カニンガムは 2024年にまた時間軸3つの作品でブッカー候補になったというからこの作品で3つで作るというお家芸を確立させたのかもしれない。


まあ、ときどき、こういう凝った頭を使うような読書があってもよいかも、と思いました。


ではまた!ビバ雨の日!皆さまもよい週末を。