予報どおりに台風来ましたね。昨日はあんなに晴れてたので予報が信じきれず、もう少しで補習の予定を入れるところでした。よかった。


ところで、卒検速報なんですが、補習と聞いてお分かりのとおり、第1回目落ちました(1回落ちるごとに補習が1時間つきます)。5人受けて、自分だけ。理由はわかりやすく「一本橋」を脱輪したので妥当な結果です。検定では定められたコースをいくつかの課題をこなしながら走るのですが、一定の長さの平均台をゆっくりまっすぐ走る課題があり、途中でこぼれ落ちちゃったのです。


合格発表の掲示板に合格者の受験番号が光り、4人が誇らしげに階段を上る、その足下でさっそく補習と、日曜日(今日は木曜日)に2回目の検定を申し込みました。あんしんパックという料金設定で契約しているので、検定料と1時間の補習は追加料金がないよう、ぜんぶ料金に含まれています。


が、どうも受かる気がせず、たった今、土曜日に有料の自由教習も予約しました。なぜ受かる気がしないのか。試験官にやって見せなければならないどの技の成功も「運だのみ」くらい不確かだからです。


その見通しの暗さに、いつもはくっきりとクセツヨ濃いめの自分のキャラも気体のようにガス化して、かぎりなく透明なブルーな空に溶けいり、ちょっとは汚れればいいのに空はあまりにも広くて無力に消えてなくなるだけだった、と美文を書いて気化した自分を集めて太字の輪郭のなかにぎゅうと圧縮させて形状を取り戻してみた。がんばれ。


思い返すと、みきわめの日、50時間中の43時間目、わたしをあまり好意的に見ていない遠山(仮名)という教官が「検定に行っちゃっていい?」と尋ねてきたのだ。ふつう、教習生はみきわめをもらいたいものだ。それが、なぜ、もらいたいと思っていないふうに聞くのだろう。


「もちろんですよ」と即答したが、検定に落ちて、自分の前に立ちはだかる次の壁がとつぜん見えるようになった。あと7時間は無料の講習が余計についていたのだ。その7時間を、検定合格を運だのみにしない、もしくは検定合格後の安全への自信に使うこともできたのだ。教官は、私の目を見て恐ろしい声で(ものすごく真剣な声で)こう言った、「11月までだからな」と。


わたしが考えていたのは、基本的な動きは教わったのだから、あとは現場でこなれていくしかない、現状では免許がないので教習所以外での練習は基本できない、まずは免許を出してもらってバイクに乗り慣れ(サブスクで)、その傍ら、大型に進んでバイクテクを継続して学ぼう、というようなものだった。とにかく早く免許が欲しかったのである。早く取りたかった理由には、もちろん日程的な問題もある。午前半日かかる検定は実施日が限られ、夏休みが終わるとかなり受けにくくなる。


だが、気持ちがあわてても、卒業できる技術がないなら、卒検のステージに移るというのは、自分の希望の形はとっていても、むしろ見限られたも同然ではないか。世間様とはおそろしい。渡る世間は鬼ばかり。


という絶望が存在を薄くした原因だったのだけれど、一夜寝て、ちょっと見方が変わってきた。43時間、わたしは何をしてきたのか、を振り返ったのである。


1段階(9時間だった)は27時間で通過したが、だいたいはその段階でマシンの操作とセンスを養う(のを目的にしていると思っていた)。そこのあたりが、やっぱりまだ弱い。何が悪くてそんな人の3倍もの時間がかかったのか、手がかりを得ようと教習簿を開く。そのときどきのできなかったことが短くメモ欄に書かれている。そのなかで「話を聞いてください」というコメントが急に意味を帯びてきた。くだんの遠山氏(仮名)が書いたものだ。


わたしはあまり教習簿を開かないので(たいていのコメントは次に担当する教官への申し送りだ)、気づいたときにはずいぶん日にちが経っていて、そのときはいったい自分は何を聞かなかったのだろうと首をかしげた。しかし、いまなら分かる。わたしはたしかに話を聞かなかったのである、彼だけではない、他の教官の言うことも。どういうことかというと、なぜそう言っているのかが分からなくて、大切そうでもないと自己判断したものは華麗にスルーしていたのだ。


たとえば、ながらく親切系の高井教官(仮名)は「もっと元気よく」とコースのただのぐるぐるまわり(周回)を指導していた。わたし的にいうと、構内を速く走らなくてはならないというのがよくわからない。そもそも、スピード違反で捕まる車はあれど、遅くて捕まる話は聞いたことがないではないか。教習所のコースは短いのでギアを3速に入れるとなるとそれなりに忙しい。ほぼ2速の「自転車にも抜かれる速度」で走っていたのは、直す気0だったわね。公道でも交通量のない道をこれくらいで走ればよいと本気で思っていたのだ。


それがそのあとどのように今の困難に繋がっているかというと、速くないとブレーキをかける場面が減る。「一本道」のゆっくり走行や「クランク(狭い曲がり道)」や「スラローム(蛇行運転)」での身体を傾けての走行など、微妙な感覚を要するブレーキ技術が練習中に育っていなかった(「急制動」の何をか言わんや)と言える。


それをいまから身につけようとすると、これはセンスなだけに、あるいは暗黙知なだけに、ちょっと、たいへんだ。こういう目にも止まらぬ初期のころに注意された細かな注意の発展形にかかるミスがバンバン多い。


教官がわたしの力量を慮って、割り引いて教えている技術もある。「急制動」という、ものすごいスピードで走ってきて止まる、という課題では3速までギアを上げるのが基本らしいが、短い間に操作が多いと失速するので(第1段階で身に付けなかった)、教官と2速までで行うと合意している。


「スラローム」でも、わたしの前の順番の受験者は途中途中でアクセルを吹かしていた。独自でやっているのかと思ったら、受験後に見たユーチューブでは短時間で区間を走り切るために吹かすことになっている。これについても、多少の減点はあっても難しくなく通過できるように指導されたらしい。


初めて見る検定の教官は「今日は落ち着いていつもどおりにできていたようですね」とコメントをして、内心「ぜんぜんそんなどころではないのだが」と自分はさまざまなウインカー、曲がり角での戸惑いなどを思い返したものの、あーまあ、みたいなフヤケた返答をしてしまった。これは教官に匙を投げられてここに立たされてしまったという境遇を確かめたかったのだろうか。


しかし、とにかく、教習中はさまざまことにいっぱいいっぱいで、もうちょっとがんばれば言われたとおりにできた(聞けた)のかもしれないが、それ以上の負荷、その時点でできないことを省いて走った、それが1回目の結果として現れたのだった。


優しい系の先生はしきりに小さいことを親切に教えて、完成度を上げて前に進ませようとしていたが、それは伝わらなかった。1段階のみきわめのときも、卒検のみきわめのときも、これ以上言っても伸びしろがない、と厳しい系の先生は教習をさっさと見限り、本番を突きつけてきたと説明できそうな気がする。


現況はこんなところです。夏休み中取得とにかくがんばります。