2010 年にアニメ化したときの公式読本である。これまで、「森見登美彦のぐるぐる京都」「有頂天家族公式読本」とガイド的な本を読んだが、この本がもっとも初々しくてキューティかも。


たとえば、後者2冊では、森見さんが自分を語るときの一人称は「登美彦さん」になっていて、ちょっと客観的に自分を語る様子が、ちょっと正直さに欠ける気がして、ちょっとつまんない感じがする。それが、この本では初の物語の裏話本とあって、ものすごく率直に、なにをどう思って、どういう経緯で本が書かれてきたのかみたいなのを教えてくれている。


たとえば、森見さんの絵面はアニメ的だなあという印象があったけれど、「押井守のアニメのレーザーディスクがレーザー光線ですり切れるほど繰り返し見るのが楽しみという日々だった(p10)」と言われると、ああなるほどあの時代なのねと説明がつく感じがする。


「わざと重厚を装ってホラを吹き、相手の突っ込みを待つという私立男子高校生的な語り」(p11)というスタイルについても、ちゃんと分かって計算で書いてたのか、突っ込んでよいのね、と理解する。


ほかにも、彼の持ち味についての考察が、いままで思っていたことに言葉を与えてくれるようでとてもおもしろかった。


「我々は相手の語る妄想をさらに膨らまして投げ返すキャッチボールを続け、二人の男が煙草を吹かす四畳半の天井に果てしなく無意味で奇想天外な妄想の橋がかかった」(p11)「私は妄想の膨らまし方というものを四畳半における彼との長い夜から学んだのである」(p11)「ただ文章のリズムに乗り、妄想を膨らまし、ことさら尊大な顔をして相手から突っ込まれるのを待つ文章を使うことにした」(p18)


「ロックよりも絶対、ポップなんです。マジメなメッセージとか気持ちからちょっと距離を置いて、ひとつフィルターをかけて出す」(p70)


「そもそも森見さんの作品って文章自体は難しい言葉なんかも出てくるし、理屈っぽかったりもするんですれども、それを暗い方向に向かわせない。(中略)明るい世界観であの文体を使ったっていうのが、森見さんの個性というか、強さなんでしょう」(p82)


こうやって、あれらの作品を生み出した人物の人となりへの理解が深まっていくのがまた楽しい。わたしは彼に限らず、人間の組成が好きなんだなと再認識する場面でもあった。


現実の人たちもそれぞれが個なので全員違った入力と出力がある。その良し悪しを問わず、その仕組みはどのようになっているのか知るのはとても興味深い。しかし、現実の人たちは、思っていることの半分も正直に表さない(と、いう印象がある)。説明を求めても、言語化できるほどの国語力に欠けている場合が多い。そもそも言語化できるほどの自身の輪郭を持っていないこともある。なぜ、と問うよりじっと観察し、統計による傾向をその人と思うよりほかないとあきらめている。


そして、じっと観察し、内面に迫ろうとすると勘違いされることも多い。草木は毎日観察しても気にしないが、人間には誰彼なく中身を見せろというわけにはいかない。そこまで迫るなら人としての責任を取らないと失礼にあたることになることは学んでいる。


そうしてみると、作家の人たちは言葉に長けていて、芸能人たちよりもっと中身を公共に晒している。文は人だからである。そして、執拗にその人間理解の核心に迫ろうとする出歯亀たちを鷹揚に受け入れる。そして、この本はそのひとりである私にとって、森見さんという人への好奇心にものすごく貢献する本だった。