2003年 日本ファンタジーノベル大賞受賞作品。森見登美彦の一作目にあたる。再読。

 

「熱帯」まで読んで、もう一度、森見登美彦らしさ、彼が本来的に持っている問題意識やテイスト、なぜ彼の作品が受けたのかを確認したくて読んでみた。

 

内容は、京大の5回生のオトコ汁あふれる主人公が生涯初めてできた彼女にフラれたあと、日常にわちゃわちゃしながら失恋の悲しみから立ち直っていく過程を描いたものである。

 

さて、早速、わたしが過去から現在に至るまで、共通して森見作品に特徴的なのは、市街を説明する言葉の密度であるではないかと思うに至った。たとえば、叡山電車が走る様子を「私の立っている場所から右を見ると、叡山電車の線路が北東へ延びている。少し先で東大路通と交差し、一乗寺方面へと向かうのである」(p22)と描く。場所の説明だけで文庫で3行もとっている。そのあと、どのような動きがあったのかの説明に入るのだから、場面の情報密度が濃い。「一乗寺方面に向う電車を見た」で済む話が、この描写で読者の頭に京都の地図を立ち上がらせる(だからアニメを彷彿とさせるのかもしれない)。

 

こうした描写が、「夜行」「熱帯」では全国区に広がり、たとえば、「熱帯」で「沈黙読書会」は赤坂で行われるのだけれど、その奥まった瀟洒な住宅までの道すじも似ているふうに描かれる(残念ながら、似ていても、京都の描写には匹敵しないのだが。私的には、京都以外の場所で同様の書き込みがかなわないのは、彼の京都の描写には文字情報以上の情報があるからだと思っている)。

 

では、東京を描ける作家はいたかなと思い巡らせてみて、池袋を書いた立教大学の学生だった新井素子を考えた。(自分の読書経歴がバレる)。「…絶句」で神楽坂をうわんうわん歪ませ、主人公らを此処其処の東京の某通りを縦横無尽に走らせる(読後40年は経っているので記憶は定かでないが)。わたしはそれを読んで是非とも東京に聖地巡礼に行ってみたいと思ったものである。

 

彼女は17歳で同じくSF関係の賞をとって人気を博したのであった。あれはコバルトというジャンルの話で、あのとき、わたしの卒業した高校のSF研の皆さんはみな真似をして「あたし」を一人称とするメタ小説を書いたものである。そういえば、彼らは会話の中でも二人称は「おたく」と言っていた。「おたく」という人種の黎明期であったな。亜紀ちゃん元気かな。おたく女子の極みだった亜紀ちゃんはその後、地元で幅を利かす大きな私立大学に進んで、おたくグループの紅一点としていきなりモテ期を迎えるのである。

 

脱線甚だしくあいすみません。とにかく、学生時代に自分が自由に闊歩した街のライブ感の向こうには若者特権のあればこそ通り抜けることのできた隘路がある。だから、行ったことがある路、経験したことがあることでも、経験の質が異なるのでそう簡単に書けるものではなく、言葉にする力のあるものもまた限られるので、彼の描写には価値がある。

 

次に、本作の秀逸なところ、おそらく、現在にも通用するであろうよさは、非モテの主人公のありようでないかと思う。それをよく表すのが主人公の友人、飾磨の自分を形容する言葉である。彼は同輩を牧場の羊に譬える。さまざまな性格の羊たちがいるなかで、自分は一人でぽつんと立っている羊で、「ぱっと見るだけなら、そいつは他の羊とあまり変わらないように見えるだろう。でもよく観察してみると、そいつはひたすら黙々と、すごく凝った形のうんこをしているのだ」(p78)。

 

もちろん、これは友人の形容だが、同時に、森見さんが言わしめた言葉であり、森見さん自身だと考えて差し支えないと思う。そして、私たちモリミーファンはこの「すごく凝った形のうんこ」に惚れていると思う。非モテ男子の男汁したたる作品は数あれど、この偏執的な凝り具合ができる職人はそうそういないと思う。

 

それを説明するために、また、別の部分を引用してみよう。友人のひとりが「明治時代に高等学校の物理講義で使われていた実験器具の模型」(p132)を趣味で作るのだが、それは木でそれらしく作って絵具とニスをつかって、まるで金属製品のような光沢を出させたものだ。実用性はまったくない。このような無益なものの細部まで精魂込めて制作するような無駄な細やかさ、これにキュンするセンスをもつのが森見ファンである。

 

非モテの主人公のほぼほぼ私小説という点で、似ていて非なる作家に、漫画で恐縮だけれど「アフロ田中」シリーズと比較してみる。高校時代から作者の成長に合わせて、非モテ男子の生活と素直な気持ちが描かれていく。読者の共感度は抜群に高い。今回、参考のためにネットで「結婚アフロ田中」を読んでみたが、「女性にとって結婚式選びは男子が1回300万の高級風俗店を選ぶに等しい」という表現があり、名言哉と思った。しょーもない男子の生態を拾って笑いに結びつける。


「アフロ」の方はこうした至言、メッセージに作品の価値を集約させているが、モリミーはそれにとどまらない。最後に、技巧(レトリック)を彼の特徴に挙げたい。これこそが、この本が売れた上に賞を穫るという評価を得た最大の理由だと思う。太陽の塔が存在する水尾さん(主人公をフッた元カノ)の内的世界につづく叡山電車や、クリスマスに法界悋気を込めて四条河原町交差点で起こした「ええじゃないか」のシュールレアル(なにしろ、ファンタジー大賞だからな)が群を抜く。妄想なら誰でもする。だが、それを言語化し、違和感のない世界を他者の眼前にも見せるとき、私たちは世界の創造者となる。

 

まとめて言うと、「狭いが深い世界(知識)を言語化する力」、「非モテの親近感(自虐的なユーモア)」、「作り込まれた世界観(レトリック)」の掛け合わせが初期から見られる彼の独自性なのではないかと思う。

 

というか、本作は、最初に読んだときは高学歴自滅系の男汁したたる武士は食わねど高楊枝の姿勢(無駄に難解な熟語の多用とか、美文調の語り)こそがキュンの源泉と思ったけれども、しかも今回再読して、多分きわめて私小説に近く、それだけをセールスポイントにするなら作家としてずいぶん危なっかしい滑り出しだったのだと気がついた。

 

自分のことを書くのは、書けることを書いているので、ものすごくリアリティがあり、コンテンツがストレートにこちら側に飛び込んでくる。内容だけの質量だけで押してくる感じがする。だが、質量しかないなら自分の人生いっこだけで勝負することになる。それは、風俗嬢の人が自分の身体を切り売りするようなものだ。自分自身は消費される商品になってはならない。

 

同時代には西尾維新という作家もいる。森見さんとほぼ同世代なのだが、彼は多作で知られる。残念ながら、未読なので多くを語れないが、ジャンルは同じファンタジーで、作品によってはアニメ化もされている。彼は如何にそれほど多作であれるのかというと、わたしはプライバシーを公開していないからではないかと踏む。学校は立命館大学らしいが、顔、性別などが伏せられている。そうした場合、架空の出来事を書くにも、「邪眼」の存在を意識せずに書けるのではないだろうか。

 

一方で、新井素子とかのりつけ雅治とかのように顔を出し、自分の人生の春夏秋冬、冠婚葬祭を自分の筆力に合わせて描き出し、同時代の人の代筆をすることに吝かでない作家もいる。それができない森見さんの「書けない悩み」。

 

小説は、普遍の問題意識において人と共有されていくもので、その方法は消費されるどころか、その探究を深めるものでなければならない。この、デビュー寸前の先行き不透明な作家の卵の作品は、審査員にそれができる、と思わせるものだったからこその受賞だったからと信じたい。そして、また、その後の彼の作品の試行錯誤に、そこに逗まらない彼の矜持がそれを証明する。

 

そうだな、「太陽の塔」をこころの中心におく彼女の理解不能ぶり、つまり、他者と通じることのない世界というのも萌芽として見ることができる。さまざまな可能性が、整理されず、力まかせにごった煮になっている本作は、そんな愛すべき処女作だったのだとまとめてよい。ただ太陽の塔のように原始的なエネルギーが混沌としている、そこが魅力だったのだとまとめておきたいと思う。