快作だった。呆気にとられた。


アラビアン・ナイトに触発された「枠物語」。物語のなかに物語を入れ込むという構造を活用し、形而上的な世界を考察する。つまり、わたしたちが見るから世界が存在するのか、それとも世界があるかわたしたちが存在するのかという西洋哲学のような問いを。そして、物語(フィクション)がもつ意義は世界の構築であると結論づける。わたしたち、すなわち自他はたがいに作用し合って世界を展開させる。この営みはわたしたちが失われる日まで続けられる。


本書は、そうした構造上の枠組みを活かすように執拗に絡み合う伏線が描かれる。わたしがあなたであなたが誰それでそれがわたしの世界なので、人物と関係性、エピソードの再演を掴むためにはメモをとったほうがよいかもしれない。でも「勢いで読む」タイプの読者としては、整合性に拘って疲れるよりも雰囲気で読んじゃって十分楽しいと思う。


この人は、森見登美彦は、こうした、鏡合わせの奥に奥にますます転写されていくような、あるいは、ぐるぐる周りの人の目を欺くエッシャーのような、こんな緻密さが好きだったんだよなと、ふと、かつて読んだ「四畳半神話大系」を思い出した。こういう個人が心地よさを感じるイメージって理屈じゃないから、これが森見さんなんだと思うしかない。


物語のなかで、天地創造の方法は、創り出すことではなく、もとから自分が持っていたものを思い出すことだったのだ、という気づきが語られる。つまり、大学を卒業して甘酸っぱい青春ストーリーは(腐れ大学生ストーリーは)もう書くことができないと主人公が思い込むスランプから始まるこの物語は、自分がもとからもっていた問題意識、書きたかったものを思い出し、その続きを書いていくことができるのだというポジティブなエンドを迎える。


わたしも、この作品を読む前からきっとそうだと思っていて、だから森見さんは恥ずかしげもなく永久に京都を舞台とした腐れ大学生話を書き続ければよいと思っていた。だって、それは彼が卒業して何年経っても新しい読者のこころをつかんできたのだから、文学的に普遍の価値がある。たとえ森見さんが自分がもう飽きてしまって新しい自分に変わっていきたい(変わりたい)と思っても、社会が与える役割、商業的なニーズ、もっと言えば与えられた存在意義を果たす義務がある。


思い出すのは、郷ひろみ。アイドルの自分から脱却しようとアメリカに渡ったり、曲調を変えたりして努力する。しかし、あるとき、自分はアイドルなのであると自覚し、その役割を引き受ける。そのとき、天然だった郷ひろみは作られた郷ひろみとしてアイデンティティを確立し、作品として洗練された。つまり、わたしたちは何かになりたいわたしたちを乗り越えて、わたしたち自身のなかにあるものを思い出すことによってわたしたちになる。


なのに、森見さんは彼の腐れ大学生の部分ではなく、複製され、反復されてバグを起こし、それがまた新しく展開する四畳半と、同じく、複製され、反復されてバグを起こし、重なり合っていく煮詰まって意味が二重に三重に付与されていくモチーフたちに変わらぬ自分を見出して作品を洗練させてきた!そうか、こちらに本質があったのか。


自分が読んでいるとき、序盤から中盤まではかなり厳し目に、特に同じく架空の世界を書く村上春樹と比較し、書き込みが足りないとぶつくさ思っていたが、第四章を過ぎてラストに畳みかけていく入れ子の展開のイメージに観念した。この目まぐるしさこそが彼なのだ。


自分はわりとメッセージやテーマを伝えようとするドラマ(それらは往々にして見た目では何も起こらない)が好きなので、この本に示された森見さんの読書傾向に示されるような、世にも奇妙な物語や技巧のある複線が利いたオチのあることが「おはなし」の評価基準として比重が高い人がいると知ったのは新鮮であった。そういう物差し(感性)で読めば、本書はとてもよくできている。特に、単行本の表紙の下に隠された装丁が佐山尚一の「熱帯」となっているというオチ(意匠)には心臓が止まる思いがした。


さて、最後に、具体的に内容はどうだったのか、前例に倣って章のタイトルごとに要旨をまとめておく。第一章「沈黙読書会」は、失われた小説「熱帯」の紹介。第二章「学団の男たち」はその重要性を共有できる仲間たちの紹介と京都へ本を探索に行くまでの経緯説明。第三章「満月の魔女」は、京都で手がかりを知る人を追う(ちょっとテイストが「夜行」に似ている)、第四章「不可視の群島」は架空の世界「熱帯」の冒険奇譚。第五章「『熱帯』の誕生」で「熱帯」が語り継がれてきたプロセスと今後の展望(「熱帯」は受け継いだ者が続きを書き、それが延々と続いていく)が示される。


森見さんは 2011 年頃に第三章までを書き、そこからインターバルを経て第四章、第五章を書いたという。言われてみればたしかに少しトーンが違うようにも思う。実際、他の人が書いたブログを読ませてもらうと前半が好きで後半がついていけないという人、前半が退屈で後半から一気読みしたという人と感想はふたつに別れるようだ。自分は前述のとおり後者で、カシャカシャと画面が切り替わる展開のテンポの良さを体感として楽しさを味わった。


読書が好きな人というのは、このように、文字で構築された「世界」を体感的に読みとる術を知っている人たちではないかと思う。楽譜から音楽を、地図から地形を、まざまざと脳裏に描くことができる人がいるように、読書する民は文字から世界を立ち上げ、それに包まれる。この本の後半にはそうしたわたしたちの住む現実にまで影響を与える「熱帯」があった。