昨日「公式読本」で森見登美彦があふれる妄想を計算で乗りこなす訓練を始めた経緯があることを知り、おそらく、それ系と思われる作品をチョイスした。「夜行」である。


全体像を記しておく。主人公は10年前に友人等と上った鞍馬山で同輩を行方不明にする。熱りもさめた現在、ふたたび同じ仲間で鞍馬で会い、「夜行」という名の絵画から連想された互いの思い出話をして久闊を叙す。別れて出町柳駅に戻ると10年前に失踪したのは自分である世界に迷い込んでいた。ふたつの世界は絵画を介在したネガポジのパラレルワールドなのだった。


次に、思い出話を章立てに従って示しておく。「尾道」中井さんが尾道で奥さんと瓜二つの女性と出会うがその人は故人と知らされる。「奥飛騨」増田さんが友人と4人で温泉に向かうが霊能のあるおばさんに縁起の悪い予言を言われて緊張感のある旅をする。「津軽」藤村さんが火事を見て子どもの頃の親友を思い出す。それは孤独な彼女の生み出した空想上の人物で実在していなかったことを知る。


「天竜峡」田辺さんは電車で女子高生と僧侶と車両を共にするが、その僧侶は10年前に「夜行」を描いた作家佐伯の家にいた男であった。彼は佐伯をあやめた犯人はその女子高生であることを指摘して逃げ出す。「鞍馬」下山をすると主人公は行方不明者扱いされていたことに気づく。話を聞くために行った作家佐伯の家で、自分の世界で行方不明になっている長谷川さんと会って事実を知る。


案の定、本作は構成や意図が全面に出た、ごつく骨ばった作品だった。なぜ骨ばった印象を受けるかと言うと、ふつう、森見作品は大きな物語の筋のなかのディテールの書き込みが濃い。京都の地名を克明に記した情景描写、四文字熟語と持ってまわった文体でページの表面張力がパツパツになってる上に腐れ大学生臭までする。それが削ぎ落とされ、組み立てた骨格が露わに見えるからだ。


舞台が全国に広がるはよいが(「夜行」という連作画は48あるというのだから、都道府県の数だけある)、描写が京都の臨場感に比していない。そして、怪奇な部分についても、京都が許した百鬼夜行の舞台設定を夜行列車に移そうとしたのだと思うが、京都の歴史に裏打ちされた妖しさを夜行列車は提供しきれていない。章を追うにつれて伏線が回収されて結ぶ手法も、技巧のほうが目についた。


各章が余韻を残すようによい感じに回収しきらずに終わるのをモヤッとする向きもあろうが、それはそれで森見作品を読む以上、折り込み済みで、これもまた作者の意図するところなんだろうなと思う。


これほどあらすじだけの話になって、では結局、伝えたかった内容はというと、人の闇は繋がっていて通底する、と言いたかったのではないかと思う。ここで、村上春樹を想起する。彼は自分の闇を掘り下げると地下の水脈で他者と繋がる、ような考えから暴力性や孤独について描いてきた。両者には類似点が見られる。


しかし、森見登美彦が書きたいのは(書くべきなのは)そこなのか?それが彼が本心から思っていて、人と共有したいと思うことなのか?と疑問に思う。これは、周りの影響を受けすぎちゃったのではないか、頭でこのようなメッセージにしよう、と決めちゃった結果で、彼自身の中から出てきた問題意識ではないのではないのではないだろうか。


彼が書けるのは、また、ファンとして彼の独自性を見るのは、偏屈が煮詰まった濃密な描写である。百步譲って、このテーマ、この筋立てでもいい。だけど例えば「きつねのはなし」に比類しないのは、彼作に見られた京都についての細やかな記述がなく、そのため相対的にやけに情報量が少なく、もの足りなく感じられる。


ここからどのように作風が育っていくのか、興味がそそられ、次も同じ系統のを敢えて読んでみようと思うに至った。