京都に行くことになったので、森見登美彦を読むことにした。モリミーの本は京都を舞台とした小説が多い。1979年奈良生まれの彼が卒業したのが京都大学であるならば、左京区を根城とする腐れ大学生の習俗がローカルに描かれるのも宜なるかな。いざ、聖地巡礼、ワタチも仲間のひとりとなって京都の街を跳ねまわるにや!

 

本作は2005年に発表、てことは彼はまだ20代、本作は大学時代がまだ彼の人生と深く結びついていたころ、本人が語る理想にはるか及ばない自らの醜態にプライドが身悶えてまた身悶える、その男汁したたる青春の描かれようにキュンキュンしたである。ホント男子妄想ってどんだけ高く飛翔し、挫かれるもんだろう。家のダーリンも若いときも意味不明な男子妄想のファンタジーの翼を広げるのをときどき目撃し、現実的な話をして話の腰を折ると目に見えて消沈したもんだった。なんだろう、そのピュアーな漢と書いてオトコと読む世界って無駄にビッグになりたくてやっぱりとっても好きなんだった。というわけで、読書の刹那はその小説世界の腕に抱かれてとてもすてきな時間を過ごしたことだよ。

 

ストーリーについて簡単に触れる。京大の院生の男の子が一回生の女の子に一目惚れして思いを成就するために七転八倒する。己の才能の無さ、人望のなさにした煩悶の果てに行き着いた悟り、「だがしかし、唯一残されていた最大の能力を私は忘れていたのだーー妄想と現実をごっちゃにするという才能を!」。かくして解き放たれる妄想の翼。このシュールレアリズム=精神世界を表現すべく、芥川賞作家たち、気鋭の実験小説家たちは手練手管の技術的工夫を日々重ねているにもかかわらず、天然の大学生がーーもちろん、モリミーは常人ならぬ男子妄想のきわみ!だからできる偉業なのであるが、それを可能にする彼の魅力の真髄はその、とても書けると思えぬ四文字熟語ののたくりうたれた硬派な文にほのみえる、リリカルなファンタジーワールドなのだった。

 

ゆって、本当に、文芸というのは、絵画、映画、音楽に匹敵する、文字が紡ぎ出す世界に肉体的に絡めとられる体感的な経験だったと再認識。文字だけで世界を構築する、そこにありありと高橋留美子の世界に通じるような妖し、ジャポンを見た。

 

わたしも文字を書く。なにか生産者(制作者)になろうとして、絵を習ったり、体を動かしたり、何をもってしてしてもっとも自分を表現しうるのか、これからそのツールに習熟するのはなまなかなことではないよと嘆息する。なかなか理解されにくい彼がセンターに立ってそれが当たり前の妄想世界のきらびやかさ。と思わされるほどの彩りに、かつて熱狂したコバルト小説を思い出した。人の好みは変わらないものなのね。ナイスリー。