前回のつづき


「風はあるけれど雨ではない」。この喧しい音は風なのか、なら昨日より悪条件ではない。出発する人たちの音が聞こえる。しかし、自分は至高を目指して無理をするくらいなら、十分な睡眠が取れる安寧を選ぶことにしていたのではなかったか、自分に欲をいえばきりがない。昨日が自分に与えられたものとして諦めて寝よう。


自分を納得させて眠ろうとするけれど、目が冴えて眠れない。むしろ、全身、アドレナリンが駆けめぐって、ものすごい興奮状態だ。どの時ならぬ、2度目があるなら今がもっとも絶妙のタイミングではないのか?夜中の2時に起きて上るなんて生涯、自分にはありえないと思っていたけれど、ほかならぬ今日が一粒万倍日のような気がしてきた。決めた、今日、のぼろう。


荷物を手早くまとめ、昨日の反省を生かして以下の装備を身につける。


・上下ともに、下着の上に直接サイクルウェア、その上に雨合羽を着用(どちらも汗を外に出す働きがある。昨日は寒いと困ると思ってなかにTシャツとライトダウンを着用していたが汗をかいて冷えて困った)。

・乾いた衣類の確保(今日、濡れて帰ってきても着る服がある)

・砂よけの靴カバーを正しく着用(ゴムを靴の下に通してホックにかける)

・膝のサポーターを正しくつける

・昨日と同じくザックは宿に置いていく(山頂への持ち物はポケットに入る全財産、カード類、保険証、スマホ、小銭入れ)

・同じく、昨日と同じくコンタクトレンズにする(老眼鏡も持った)


衣類を少なくすることに不安もあったが、結果的にはそれでよかった。サイクルウェアはさすがの厳寒時用の機能で十分に必要を満たした。


水も携行食もなし。自分は水をあまり飲まなくても平気なほうなので、家から持ってきた1リットルの水もここまでで半分程度しか飲んでいない。飲みたくなったら買うつもり。携行食もおやつは食べないほうなので食べたくなったら途中で補給するつもり。


次回の反省があるなら、ウエストポーチかライトザックがあれば自撮り棒が持てた。自分の腕の長さで自分と背景を写り込ませるのは限界がある(結果的に、自分の映ったまともな写真はすべて誰かとお互いに撮りあったものだけとなった)。


外に出る。ちょうど、日本人の男の子3人組と外国人女子2人の出発と重なった。ヘッドランプだけが頼りの漆黒への出発に心強さを感じる。


「行きますかね」若者に声をかけると、宿の脇の登山道の階段に足をかける。瞬間、昨日の記憶が蘇る。そういえばわたし、全行程を明るいときに見ている。これから、どこにどのような道が来て、どこを曲がり、どれくらい歩けばベンチに座って休むことのできる宿があるのか知っている!


もしも、何も知らなければ、この暗闇のなか、まったくの未知の道への出立だ。どれだけストレスが多く、怖いことだろう。そんなときに不安をコントロールし、初めての経験でも人の言うことは参考程度にして(鵜呑みにせず)自分で正しい判断をするにはどうすればよいだろう。少し考えてみる。たとえば、準備の段階でできるだけ客観的なデータを複数揃えておく。確かそうな証拠を積み重ねて、そうでなければならないと信じられる結論を導くまで一歩一歩論理的に考えを進めてみるとか。


それでも自信は持ちきれない。やっぱり自分には決められないから決めて、と誰かに言って安心を求めてしまいそうな気がする。そこにいる人全員が初心者であるときでさえ、グループの方向性は人に決めてもらうことが多い(どこにでもしっかり者はいるものだ)。


「アタシできな〜い(はぁと)」)という態度が若いときは通用したんだよな、そうやってこの歳まで碌にものも考えずに渡り歩いてきてしまった、きっと他の人のほうがアタシよりましな判断ができると信じて。好きにしてもらっていい、とものすごく譲ってるつもりなのだけど、衝突を恐れない人が相手だと「アタシばかりに考えさせて」と怒られることもある。


みんなが暗いなかに歩み出ていくとき、誰も答えを知らないとき、わたしだってできるんだったら協力したい。でも本当にみんなを巻き込む自信がないんだもん。わたしが作った計画でやってみて苦労をかけたら申し訳ない。悪い結果になっても相手が決めたのならわたしは自責の念を免れる。


というか、そもそも自分はあまり計画を立てて行動しない。とりあえず詰めの甘いままの計画で漕ぎ出し、優柔不断に切羽詰まってその場その場の思いつきでかたちを整えていく。人と一緒なら、相手を振りまわすことになる。今回の件にしても、延泊は諦めたと思う。仮に延泊したとしても、夜にもう一度登頂したいとも言わなかったと思う。


一方で、いま、こうしてその2つの判断が最終的にうまくいったことから考えると、思いつきに巻き込むことは必ずしも相手の迷惑にはならず、あまつさえ2人のよい思い出にすることもできたのだ。では、実際にその場面にもう一度身をおいたとして、わたしは何と言うだろう。


万が一、言い出せたとして、それでもわたしはいつもそうしてきたように「アタシは自分の好きなことをするからあなたも自由にしていい」と言って自分は自分、人は人という言い方をしそうだ。自由ではあるが、一緒に行動したいという気持ちが見えない寂しさが自分にも相手にもつきまとう。


ああ、友達同士で来ている3人組、4人で来ている老人のパーティ。なんと楽しそうなのだろう。私たちは団体で楽しくなることができる。先方は、私が一人で行動することに驚く。しかし、一人の気楽さに慣れているわたしはグループで来れている彼らに驚く。なぜ、そんなことができるのか。


そんなことを考えながら、山を上る。とにかく、道を知っている分だけ今度こそゆとりがある。歩みは遅いが、昨日だってありえないほど遅い進みでも3時間で着いてしまった。立ち止まらないかぎり、成功は約束されている。


8合目の宿の前で人溜まりができていた。何ごとかと登り口に向かうと人が多数下りてくる。まさかこの時間に登頂したから下りるという人はいなかろう。わたしは質問する、なぜ下りてきたのですか。


「風が強すぎて自分の力では無理と断念した」3人組のおっさんパーティはそう言い残して去っていった。ベンチに待機していた、たぶん高校生らしい団体も、先生の指示で全員下山することになった。「雨降ってないのに降りちゃうんですか」「山は雨より風がこわいんだよ」ええっ!


雨が降っていない昨日よりずっとマシと思って来たのに、今日は昨日よりもっと悪いのか。自分は強運の持ち主と思って頑張って上ってきたのに、ここまでなのか。そして、下りるときは遠回りだけどなだらかな下山道ではなく、岩肌の登山道を下りるのか。てか、そんなの無理だよー。


でも、今日のわたしは昨日と違う。わたしは人の言うことに左右されず好機を待つこともできるということを知っている。別に下りなくても、最悪、ここで日の出を見ればよいのだ。昼になれば晴れて、上りやすくなるだろう。早合点せず、待つんだ。