近日中にレビューすると思うが、現在、エリクソンによる「概念型学習」についての本を読んでいる。端的にいうと、授業を本質的理解に導くために問いを中心にしたデザインにするための方法を説明する、先日からの自分の興味関心に沿った内容なのであるが、そこで、気が付いたことがある。それは、わたしの専門教科である「外国語教育(英語教育)」の本質的理解(汎用的に身につけてほしいこと)を自分が把握しきれていないということだ。本には、外国語の例として「主語と述語は呼応関係にある」ような内容が示されていた(今日は本が手元にないので引用が不確かだ)。つまり、「生徒が賢くなる授業」の中心におかれるのは、なにも、すごく特別なものである必要はなく、なんなら、その結論に至る思考の道筋に「分類」とか「演繹」とか「比較」とか、いわゆるコマンドタームに示される知的活動が含まれることの方が大事だということらしい。自分のルールは自分で決める、というやつだな(違うか)。自分なりに得られた「知識」に落とし前をつけるというか。

 

そこで、自分は彼らに何を学ばせたいかと考えてみた。すると、一学期は振りかえると一番目に大切していたのは「学習法」で、教科の知識は暗記と反復作業を強いていたように思われる。実際、エリクソンもいうように(言い訳めいているが)知識なくして高次の知的作業はできないから、まずその土台が必要だ。すべてを説明していたら日が暮れる。ある程度は暗記で押し切る(流す)ほうが効率的な場面もある。そして、第二に大事にしていたのは「内容理解」だった。そのトピックは何を学ばせたくてそこに配列されたのか、のような、自分なりのTOK風の問いである。しかし、自分が教えているのは言語A「言語と文学」ではなく、言語B「言語習得」である。この場合、本の事例にあるように、言葉のルールについて教えることがより本質的であるように思えてきた。では、なぜ言葉のルールの教授が中心的にならなかったのか。それは、自分自身が知識が薄いからではないのではないかという疑問がうまれてきた(というか、そうなのだ)。

 

自分は高校時代、丸暗記させられるという、いまどきとんでもない授業を受けて育ったのである。そういう時代だったし、進学校だったので、先生方も丸暗記させることができたという不幸が重なっている。わたしが英語の教員でありながら、英語の授業はつまらないと感じていたのもそのせいなのではないかと思う。人によっては、なんと、英語はおもしろい教科だったかもしれないのだ(爆)。

 

英語そのものは楽しい。コミュニケーションと表裏だからだ。英語は分かりやすく自分がふだん使う言葉と異なるので問題点を見つけやすく、気づきが得られやすい。たとえば「外国のマクドナルドのコーラってすごく大きいんだって!」というだけでもうすでに楽しくないか?その事実の背景に理由がある。理由を聞くのも、考えるのも楽しくないだろうか?言葉をコマンドするのも楽しい。スキルだからな、練習すれば練習するほど上達する。高校球児が勉強をわきにおいて練習に没頭するのになぞらえたい。ちゃんと試合の日も、その活躍が評価され、選ばれる日もくる。選ばれるほどに習熟するその方策は、ある程度のところで才能はあるだろうが、言葉だからな、日本語を通じる程度に使う力があれば潜在力はある、あとはシンプルに、着実に練習を重ねることができるかどうかだ。だから英語は、実はあたまのわるい子(わたしのような真面目系くずw)にぴったりの飛び道具であると思う。数学ができる力は人生に役に立つだろう。しかし、あまりにも外側から分かりにくい。英語はパフォーマンスだから、ぱっと見ですぐ分かる。こんなよい品物をなぜ人は「むずかしい」などという理由でアボイドするのか分からない。「分からない」というのは、要するに、シンプルに「覚えてない」だけだ。「りんご」が「アップル」とよばれることに「分からない」と言っている暇があったら、「そうか、アップルなのだな」と覚え、次からりんごを見るたびに「アップルがある」と思えばよい。このような品物に「分からない」はないだろう。そう考えるからこそ、理屈やルールを導き出す道具として文法を扱わない(扱うだけの知識がない)のは自分でも致し方なかった。

 

さりとて、それが全部暗記と単純作業となると「英語は楽しくない」という話になり、一気にモチベを下げる。というか、これが楽しいと思う人もいることも忘れてはならない。職人であるな、やるほどスムーズになる、やりながら理屈が分かってくる、まず先に身体を動かす、そんなような。というか、概念型学習とは、その「やりながら理屈」に教員が角度(視点)を与えて育ててやる、という学習法なのだと思う。だから、教員が授業全体を探究としてデザインして実践し、みなさんに一緒に体験してもらう、という言い方もできると思う。

 

探究テーマは教員の数、教科観の数だけあってしかるべきだ。なぜならば、基本、人は教えられるものを教えるときにもっとも深く教えることができるからだ。ということは、わたしは文法をオミットして、内容理解のみに特化すべきなのか?というと、またそれは、少し良心的ではないと思う。というか、プロフェッショナリズムに欠けるように思う。大切なのはいつもバランスで、内容統合型のCLILのように、「学習内容(content)の理解に重きを置き、学習者の思考や学習スキル(cognition)に焦点を当て、学習者のコミュニケーション能力(communication)の育成や、学習者の文化(culture)あるいは相互文化(Interculture)の意識を高める」CLILとは | J-CLIL | 日本CLIL教育学会)と複数の視点をもたせてやるのがよいのではないかと思う。というか、自分はCLILから再教育を受けているので、学習内容の理解推しなのも仕方がないということも気がついた。

 

というわけで、本日も2学期以降のシラバスを書くことになるが、方向性を再確認しておくと、自分の中心におかれるのは外国語学習をとおした「国際教育」であるということ(専攻は「国際教育」だったわけだから、筋は通しておこう)。「国際教育」というのは、「国際化した社会において、地球的視野に立って、主体的に行動するために必要と考えられる態度・能力の基礎を育成するための教育である。そのねらいは、自己を確立し、他者を受容し共生しながら、発信し行動できる力を育成することにある」(第1章 国際教育の意義と今後の在り方:文部科学省 (mext.go.jp))。つまり、国際理解教育の目的・ねらいは、「自己の確立」、「異文化を理解し尊重・共生できる資質・能力」、「コミュニケーション能力」を育成することであり、それが主軸となって探究テーマが描かれることになる。この達成を小項目に分類したものがシラバスとなるわけだ。そして、話が突然とぶけど、根拠はあとからついてくるとして、TOKを「自己の確立」に利用したいわけだ。文科省の資料には「自己の確立」はディベートとディスカッションの利用が謳われているが、これがまた、なんか凡庸に思われてみたり(できもしないくせに)するのでやっぱりTOKがよいなと思ったりするわけだ。

 

そこで、「コミュニケーション英語」の検定教科書を活用したTOK授業の展開、というタイトルを考えてみた。英語の授業の内容がTOKだったなんてなんてラジカルな。いくら学習指導要領の要件を満たしていても、中心が英語教育でなければ然るべき筋の人に怒られそうだ。せめて「コミュニケーション英語」の検定教科書を活用した国際教育の展開?。煮え切らない天邪鬼な気持ちを心の奥底に隠して、TOKを活用した「コミュニケーション英語」の授業の展開、というのを折衷案とするか。というか、TOKをそもそもまた、教えられるだけ理解しているかというと不安だから(上述と矛盾する)テキストを丁寧に読んでエアTOKの授業を一年分やってみて雰囲気をつかんでから言ってみろよとも思う。

 

国際バカロレア「知の理論」の手法を援用した「思考力・判断力・表現力」を育成する英語教育の実践―自由英作文の回答率に着目して-、で進めて、人に見せなくてはならないときは、多少の矛盾を見せながら調整する感じでやっていくのはいかがなものか。

 

と、締めようとして、読み返したら、論旨がどんどん自分がそうしたいと思う方向に寄ってきていることに気が付いた。結局、人は、理由があろうとなかろうとやりたいふうにやるのだ。もちろん、そのタイトルでまったく異論はないが、文法の探究はやろう。なぜなら、それを楽しいと思う人がいるくらい、たぶんそれなりに奥行きのある研究内容なのだろうし、だいいち、やはり、教科のモラルに悖るのは吝かでないからである。