美女と野獣 (字幕版)

 

 

教育系の映画つながりで「ハイスクール・ミュージカル:ザ・ミュージカル」を見ている。シーズン2で、生徒が取り組む演目が「美女と野獣」となり、早速、エピソード1でナンバーが披露されたが、いかんせん、内容を知らないので楽しめない。そこで、オリジナルを知ってから見ようと「美女と野獣」に寄り道した。

 

視聴して、あまりの良さに腰が抜けた。びっくりした。声も出ない。映画にもいくつかのバージョンがあるが、今日はディズニーのアニメ版について書くことにする。

 

「美女と野獣」は、ざっくりいうと、美男子が醜女のポテンシャルに気がつかずに虐めをして呪いにかけられて醜男となり、その後、美女にポテンシャルを見抜いてもらって呪いが解け、元に戻って大団円という話だ。

 

この映画を見て驚いたのはまず、「自分を助けてくれるお姫さまを待つ王子」という設定だ。ふつう、お姫さまが王子を待つだろう。この話は交際の選択権は女子にある。

 

次に、主人公の愛情が「王子をわたし色に染める」ところにあることに驚いた。付き合ううちに野獣がシビライゼーションしていき、姫は変わる野獣に愛を見いだすのである。

 

「変わる」というのはドラマとなる大きなテーマなんだということに気がついた。人は変わらない。変わることは難しい。それを知るから「変容」は胸を打つ。

 

前回レビューした「スクール☆ウォーズ」でいちばん人を驚かせたのも「生徒の変化」だった。文学の古典を振り返ればカフカの「変身」、現代を見れば仮面ライダーの変身、発想を現実に広げればコスプレの人々のように「変わる」はインパクトがあるものなのだ。しかも、野獣は外見ではなく内面が変わる。

 

内面が変化した野獣が示す「愛」のかたちも深い。野獣は物質的に与えることで「愛」を示し、身を呈して相手を守ることでも「愛」を示す。しかし、もっとも相手に響くのが、相手の意思を尊重して手放してやる「愛」である。

 

手放された主人公は、裏切らずに戻ってくるのである。どうだ、このディズニー・プリンセスの男気のありよう。前にレビューした「華麗なるギャッツビー」のデイジーに爪の垢を煎じて飲ませてやりたい。

 

改めて、この話は最初から最後まで、主人公が男前だから成立したのだと思わされる。最近は「アナ雪」をはじめ、強い女子がよく描かれるけれど、これは元祖と呼べるのではないか。

 

ところで、ゆっくり考えると、現実も「女子が男子を待つ」より「男子が女子を待つ」パターンは珍しくないと思いついた。

 

「自分は禿だから」「自分は背が低いから」「コミュ障だから」「収入が不十分だから」こんな俺を好きになってくれる子はいないかもしれない…と弱気になって打って出れない男子で童貞の人ははいる。

 

「ずっと童貞だったらどうしよう」と悩む彼らは実際、女子に選ばれなくてはならない。ここに、野獣と同じ悩みが発生する。

 

この映画は、童貞の人が、条件に恵まれない男子はまったく絶望する必要はなく、女子に合わせて変わっていける柔軟さをもてばよいと知ることで女子と進んだ関係を結べるようになることを教えてくれる。

 

女子を従わせる「愛」が普通であっただろう時代に成立した昔話であるにもかかわらず、「愛」とは相互に対するリスペクトにある、という現代に通じる恋愛観を堂々と示している。ここが、この映画の評価すべき点であり、ディズニー映画の中でも高く評価される理由なのだろうと思う。