機会に恵まれたので、百年文庫を読むことにした。
木々高太郎は1897年生まれ、医学博士でありながら、探偵小説(推理小説)を書く作家の草分けとして活躍した。また、同ジャンルで初めて直木賞を受賞した作家でもある。この時期の作家には、ほかに江戸川乱歩(1894生)などがいる。
「新月」は、第一回探偵作家クラブ賞(1946年)の短篇部門を授賞した小篇である。
内容は、主人公である弁護士が、地主に嫁いだ娘の事故死に疑いをもった家族の依頼で事件の謎解きをするというものである。
物語は、以下の6章で構成される。
1.斐子の結婚(20代の女子が家庭の事情から50代の裕福な男性と結婚する)
2.湖上の死(ふたりで訪れた、とある湖で斐子が溺死する)
3.調査(斐子の昔の恋人の目撃譚を聞き、夫の無罪を立証する)
4.事件の解決(潔白にもかかわらず、夫が要求額を額面通り家族に支払う)
5.夢の小品(5年後、夫が遺した短編小説を弁護士が読む)
6.心理の解決(弁護士は夫が自分が加害者だと信じる理由を理解する)
読者は、4で示談が成立したあと、5に示される視点から、6で、真相となる人間のこころの闇を覗きこむことになる。
もう少し丁寧に説明すると、弁護士がおこなった調査から、夫が斐子を殺したという嫌疑は立証されなかった。それどころか、家族側の証人であった斐子の元恋人が間接的に斐子の死を招いたことが判明するのである。そこで、弁護士は、元恋人に対し、この状況は悪意をもつ人が見れば斐子を殺す意図があったともとれることを説明し、最初に呈示した示談金の5分の1の額で和解するよう説得する。しかし、その4日後に、夫は満額の示談金を払う意志があることを告げ、弁護士に不可解な気持ちを残しながら、事件は解決する。
その種明かしが、夫の死後、長男に残された「新月」という作中小説の中に暗示される。その小説は、夫を想起させる男が主人公で、彼が見た不条理な夢と、その後訪ねてきた自分の子どもの乳母の話が語られる。
夢のなかで夫は若い妻の浮気を疑う。しかし、相手は自分自身であり、嫉妬の必要はなかったことが示される。そこに乳母が偶々訪ねてきて、彼女の息子が戦死した話をする。それを聞いて、夫のなかで、愛する者に対する庇護欲と死のイメージが結びつき、彼自身が斐子を殺したと思うに至るのである。
家族が夫が斐子を殺したと考えた根拠には、恋人が「斐子がボートに向かって来ると、ボートはそれから遠ざかるように逃げた。櫂をつかもうとすると引いた、その有様はちょうど月が出たので、岸から望見された」(pp.97)と述懐した点にある。
その言葉どおり、逃げたのか、櫂を引いたのかと尋ねられたら、夫は否定したであろう。しかし、本当にそうなのか。ここからは憶測となるが、夫は実際に助けなかったのである。ただし、本人の自覚のないままに。作中小説は夫がそれに気がついたことを示しており、これこそが弁護士そして読者が知る真相であったといえるだろう。
この小説の秀逸な点は、事件の真相が新しい証拠の提示で明かされるのではなく、夫そして弁護士による、人間の深層心理への洞察であきらかになる点である。読者はすでに提示されていた状況に対する新たな解釈を通じて、この悲劇の真実に迫るという文学的な結末を目にする。
Wikipedia によると、木々高太郎は「甲賀三郎が(中略)本格的探偵小説の非芸術性を主張し、『本格探偵小説』は文学性よりも探偵的要素を重視したものであり、探偵趣味を含んだ『変格探偵小説』は『本格探偵小説』から区別されるべきものであるとする『探偵小説芸術論』を提唱した。これに対して木々は、(中略)謎に対する論理的思索とそれによる謎の解決を探偵小説の要素であるとし、探偵小説の芸術性を主張した(探偵小説芸術論争)。」
したがって、本小説は木々高太郎の作風を十分に表しており、その意味でも「百年文庫」の一編としてにふさわしい作品とみなされて収録されたと考えることができるだろう。