《最強の人》で打線を組んでみた!9番・DH | 水景のある暮らし

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アクアリウム関連の話題を中心にG1レースを軸に競馬の予想
それ以外に気になったことを書き連ねていきます。

 

 

最強の人

 

最強の人...(組織的犯罪を除く)

 

無差別殺人をやらかした人々

結果、死刑になることも覚悟し、自暴自棄にて全くの第3者を巻き込み殺傷せしめる...

こんな人種に出会ったら防ぎようがないから”最強の人”と呼ばれるようになる

 

殺人をやらかした背景には、いろいろありますが...

どんな理由であろうと全く落ち度のない無関係の人々を巻き込んでいい理由などありません

 

犠牲になられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の方々へ改めてお悔やみ申し上げます

 

 

9番酒鬼薔薇聖斗(元少年A):神戸連続児童殺傷事件

2005年1月、関東医療少年院を正式に退院しているので、現在は一般人であるため、モザイクをかけました

一般人として生活中だが...どこでどう漏れるんだか...転職する先々で必ず”酒鬼薔薇聖斗(元少年A)”とバレてしまうらしい

 

上のモザイク写真は「文春」?だったかな...更生後の少年Aを追って足立区内で接触した時の記事にした時のもの

 

 

彼の記した犯行声明

”酒鬼薔薇 聖斗”

この名前が全国に知れ渡った

この書面がテレビで公開されたとき、ワタクシが家族に「これヤバすぎ...犯人は少年だぞ」と断言したのを覚えています

 

その残虐性...その異常性...から国内を驚愕と震撼させた無差別殺人事件

”酒鬼薔薇 聖斗”こと少年Aの犠牲になったのは...

 

第1の犯行

1997年2月 神戸市須磨区の路上で小学生の女児2人がゴム製のショックレス・ハンマーで殴られ、1人が軽傷、1人が重傷を負う

 

第2の犯行

1997年3月 手を洗える場所はないか」と尋ね、当時小学4年生の女の子に学校に案内させ、

女の子の振り向きざまに金槌で頭部を強打し逃走

女の子は脳挫傷で死亡

 

第3の犯行

第2の犯行の10分後、所持していた刃渡り13センチのナイフで、別の小学3年生の女の子の腹部を刺し逃走

女の子は重傷を負うも、一命は取り留める

 

第4の犯行

1997年5月 女児2人に危害を加えた元少年Aは、さらに人を殺したいという欲求に駆られて、少年Aの弟と同級生の男児に声を掛け、地元では”タンク山”と呼ばれる丘に連れ出し男児を絞め殺す

 

第5の犯行

殺した男児を弄ろうとタンク山に出向き、糸のこぎりで首を切断

2日後に行方不明事件として地元警察が捜査開始

警察の動きを欺こうと少年A通う中学校校門に殺害した男児の頭部を置く

男児の口には”酒鬼薔薇 聖斗”の名の犯行声明が挟まれていた

 

自己の承認欲求から出た行動

最初の報道では、犯人像を”30~40代男性”としたり、黒のブルーバードが目撃されたり、犯人は元少年Aの自宅付近以外の人物であるように報道されたことから、神戸新聞社に上の写真の犯行声明の書面を送る

 

 

1997年6月 少年A逮捕

 

 

 

DH 宮崎 勤:埼玉誘拐女児無差別殺人

平成の証言】「あの弱々しい若者が犯人だなんて…」(平成元年8月~2年2月)(1/4ページ) - 産経ニュース

この事件も鮮明に記憶している方も多いだろう

そのくらい全国を震撼とさせた事件

 

また、この事件以降、”引きこもり”=”オタク”=”変態”=”犯罪予備軍”みたいな目で見られるようになった

 

第1の犯行

1988年8月、入間市春日町で幼稚園児の女児A(当時4歳)が行方不明になり、所轄警察は誘拐事件も視野に捜査を進めるも「女児Aが中年風男性と一緒に歩いていた...」程度の目撃証言しかなく捜査は難航、女児も未発見のまま時が経過する

逮捕後の宮崎の供述では、誘拐直後に殺害、宮崎は死後硬直で固くなったAの遺体にわいせつ行為を行う様子をビデオ撮影している。

 

第2の犯行

第1の犯行から2か月後、第2の犯行に及ぶ

同年10月、飯能市下赤工で小学校1年生の女児B(当時7歳)が行方不明になる

Bの家族はBが失踪した3日夜に捜索願を出し、これを受けた所轄警察などは4日朝から、B宅近くの入間川など周辺一帯で大規模な捜索を行ったが、手掛かりは得られなかった。失踪現場はA事件の失踪現場と同じ入間川沿いにあり、また両事件には「被害女児がおかっぱ頭」「失踪時間帯は月曜日の日中」という共通点が見られたことから、埼玉県警はこの時点で両事件の関連を調べていた

宮﨑はBを誘拐した直後に殺害し、その直後にわいせつ行為をしている

 

第3の犯行

同年12月には川越市古谷上で、幼稚園児の女児C(当時4歳)が行方不明になった

Cの失踪を受け、埼玉県警は捜査員ら約70人を動員、地元自治会の住民ら約150人の応援を得て付近一帯を捜索した。3事件の現場はいずれも埼玉県西部であり、かつ半径10km圏内の入間川沿いであること、失踪した時間が夕方であることなど共通点が多かったため、埼玉県警は3件連続の女児連れ去り事件の可能性があるとみて捜査した

第3の犯行でも、宮﨑は誘拐直後にCを殺害していた。

 

今田勇子

孤独感が強い人物にほぼ共通する現象=承認欲求

宮崎は、遅々として進まない3つの事件の捜査状況にいら立ったのか?

「今田勇子」名で、朝日新聞東京本社とA宅宛にそれぞれ、犯行声明とAの顔が写ったインスタント写真が郵送された。犯人は犯行声明の中で女性であると称しており、内容は段ボール箱に入った骨は全てAの骨である、と主張するものだった。手紙2通はいずれも、狭山署が「歯はAとは別人」と発表した翌日に青梅郵便局管内から投函されたものだった。朝日新聞社に添付された写真がA本人と確認され、また事件の経緯が克明に記されていたことや、警察が公表しなかった写真の内容について説明があるなど、犯人しか知り得ない事実が記載されていたことから、同県警は前述の鑑定結果と併せ、Aは誘拐・殺害されたものと断定した上で、この声明文も犯人が書いたものと断定した

宮崎は、「今田勇子」名で、2通目の犯行声明を朝日新聞東京本社とB宅宛に送ってもいる

 

第4の犯行

1989年6月、江東区東雲二丁目で保育園児の女児D(当時5歳)が行方不明になる

同月11日、飯能市にある宮沢湖霊園の駐車場北西側にあった簡易トイレ裏で、頭部と両手足首が切断された女児の遺体が発見され、同月12日に埼玉県警は発見された遺体が女児Dのものと断定した

バラバラ殺人事件は、死体の持ち運びのために切断した事例が多く、被害者はほとんどが大人だったという特徴があり、Dは日本国内でそれまでに発生したバラバラ殺人の被害者としては最年少でもあった

 

宮崎の逮捕

1989年7月、宮﨑は八王子市美山町で、幼い姉妹を標的として妹の方の全裸写真を撮るというわいせつ事件を起こしているところを被害女児の父親に見つかり威嚇され、宮崎が「もうしませんから警察には言わないでください!」と言ったのを偶然近くをパトロールしていた警官が聞きつけて、父親によって引き渡され、現行犯逮捕された。宮﨑を取り押さえた被害者の父親は「D事件の犯人もまだ捕まっていないのに」と取り押さえた宮﨑を責めたが、後日それが連続殺人事件の犯人だと知って愕然としたと当時のマスコミの取材で話している

 

宮崎 勤の自宅部屋

平成の事件ジャーナリズム史:(3)連続幼女誘拐殺人事件 大展開の報道、被害者側への配慮欠く | 毎日新聞

オタクの殿堂ともいうべきビデオや漫画本のコレクションが所狭しと積まれている

 

鑑定に当たった医師たちによると、彼は本来的な小児性愛者ではなくあくまで代替的に幼女を狙ったと証言されている。第1次精神鑑定鑑定医の保崎秀夫は法廷で「成人をあきらめて幼女を代替物としたようで、小児性愛や死体性愛などの傾向は見られません」と証言

 

承認欲求の塊

1998年、書簡インタビュー集『夢のなか』を出版、公判の中でその理由について「もっと、もっと有名になりたいから。新しく生まれた人は私のことを知らないかもしれないから知ってほしい」と回答、「有名になるのは気持ちがいい。メディアなどで自分の事件が評論されると、『今も、もてはやされている』と思う」などと述べていて、裁判長からの「法廷では自分から話したいと思っているのか」という質問には「ここ(法廷)は晴れの舞台だと思っている」と答えていた

 

2008年6月17日、宮崎は執行命令により死刑に処される
判決確定から死刑執行まで2年4か月で、当時の平均期間が約8年だったので、大幅に短かった

 

執行前の最後の言葉

「あのビデオ、まだ途中だったのに...」

 

やはり...常人とは思考回路が全く別物w

”主軸”級の犯行ですが...DHとしたのは、3番、4番、5番は、手あたり次第の無差別に比べ、女児という特定人物を狙った点でDHとしました