Sunday Morning / The Velvet Underground


日曜日の朝が、夜明けを連れてくる
僕にとっては不穏でしかない
夜が明けたばかりの、日曜日の朝
すぐ後についてくる無駄な年月


気をつけろ、世界が君の背後に迫る
いつも君の周りで呼んでいる誰かがいる
何にもならないことだ


日曜日の朝 そして僕は落ちていく
知りたくないような気持ちになったよ
夜が明けたばかりの、日曜日の朝
それは君が横切った全ての道、そう遠くない昔に


気をつけろ、世界が君の背後に迫る
いつも君の周りで呼んでいる誰かがいる
何にもならないことだ


日曜日の朝
日曜日の朝
日曜日の朝



原詞(Lyricwiki)

私は本をわりと読む方です。
今日は、なんで本を読むのが好きなのか?という話を書きます。
私は「なんでこれを好きか」を考えるのが好きなようです。
「なんで『なんでこれを好きか』を考えるのが好きか」もいつか書く気がします。


「本を読むのが好き」というか、
「本を読まないと不安になる」というのが近いと思う。
その不安っていうのはなにかというと、
「自分の考えてることが何かおかしいかも」の感じ。


何か、世間の常識と違うことをやっちゃったり、思っちゃったり、
周りにうまくとけこめなかったり、皆が楽しそうなときに楽しくないとか、
いちおう皆と同じようにしてるけどなんか違和感、これってどういうこと?ということがあって、
そういうときに、まあたとえば、「えっ?レタスに醤油かけないの?」くらいのことなら
口頭で聞けるし、それで返事が「なにそれ聞いたことないwwwドレッシング使えよwww」とかなら
まあ、それは「うそwwwずっと醤油かけてたwwwでもおいしいよwww」って返して、
面白いなぁ~人の好みってそれぞれだなぁ~で終わるけれども、
もうちょっと根っこの部分での違和感は、そんな簡単に確認できないじゃない。
たとえばの話だけど、運動会に向けてクラス全員が一致団結して毎日練習しようってときに
「なんで団結しなきゃいけないの?」とか聞けないよね。(たとえばの話だよ)
卒業式で友達が泣いてるときに「なにがそんなに悲しいの?」って聞けないよね。(たとえばの話ね!)
「違和感を感じるけど、なにに対してなのか自分でもわからない」ってこともあるし。


そういう、「これって私が変ですか?」って、誰かに聞きたいけど聞けない、というとき、
本を読んでると、「私もそうです」という人に会えることがときどきある。


太宰治はいわゆる中二病の人にすごく人気がある作家らしく、
私も高校の時にしっかりとはまったけれども(今も好きだけども)、
中二病っていうのは多分、「私って変なんですか?」の悩みがピークに達する時期だと思うの。
大人の言ってることってなんか嘘くさいぞっていうのをだんだん嗅ぎつけ初めて、
そこで「まあそういうもんなんだな」って割り切ってやっていける子もいるんだけど、
割りきれないやつは心の中ですくすく中二病を育てていく。
まわりは割り切ってやってるんだということに気付かずに、
自分だけが嘘に気付いたんだと思うようになる。
「周りと同じようにできない」「オレは周りと違う」
「オレは特別な存在」「オレは選ばれた人間」
「あいつらはオレをバカにするけど、本当にバカなのはあいつらの方だ」
というような中二病的な悩みの源泉を、太宰治はうまく書き出してくれて、
それを読んで、「ここに仲間がいた!」っていう経験をした子がたくさんいるってことなんだと思う。
私も読んだときほんとにびっくりして、太宰治ってすごい人やぁーと思った。


あと私は町田康っていう作家が好きでずっと追っかけてるんだけど、
その人の本の中で、よく使われる定番フレーズ的なものがいくつかあって、
その中に、「私はためしに○○○と言ってみたが、うまく言えなかった。」ってのがある。
独り言のときも、誰かに聞かせるときもあるんだけど、
たいてい、なんか言ってみて、でもなんか違った。という感じで終わる。
これを何回も使わずにはいられないこの人の気持ちはすごいよくわかるような気がした。
あとこの人が使う言葉で気に入ってるのが、「感じ感」。
「私はその車にファンキーな感じ感を感じた」みたいな。
ずばり「ファンキー」って言っちゃうと違っちゃうから「ファンキーな感じ」、
それすらなんかそこまで言っちゃっていいの?って思うから「ファンキーな感じ感」。
これを使ってるのを初めて見た時、感じ感、って言いたい気持ち、わかるわぁ~と思った。
たぶんこの人の本の中には「思ってることうまく言えないよなぁ。でもできるだけ的確に言いたいんだけどなぁ」
っていうのがずっとあって、そこに共感したんだと思う。


そんな感じで、私は昔からそういう本の中に、
面と向かって人に聞けない部分で共感できるところを見つけて、
それでちょっと安心したりすることが結構あって、
多分いまも、自分がこれで大丈夫なのか、てことを、
本を読んで確認したいという気持ちがあるんだと思いますわ。

The Fool On The Hill / Beatles


来る日も来る日も、丘の上で一人
バカみたいに笑って立っている男
今でもずっとそうしてる
だれも彼と関わろうとはしない
だってただのバカみたいだから
彼は何も答えることはない


でも丘の上の愚か者は
日が沈むのを見つめている
そして彼の頭の中の目は
回る世界を見つめている


その上、ぼんやりした頭の中では
何千人もの男の声が
やかましく話している
でも誰も彼の声や
立てる音を聞いたことはない
何かを示そうとしているようにはみえない


でも丘の上の愚か者は
日が沈むのを見つめている
そして彼の頭の中の目は
回る世界を見つめている


だれも彼を好きにはならないらしい
彼がどうしたいか知ってると言う
彼は自分の気持ちを見せない


でも丘の上の愚か者は
日が沈むのを見つめている
そして彼の頭の中の目は
回る世界を見つめている



原詞(Lyricwiki)

みなさん歌うのは好きですか?
ひとりカラオケ専門店できたらしいですね。
たぶん結構の人が歌うの好きだと思うんですけど、
なんで好きなのか考えたことありますか?
なんで歌ったらスッキリするのかな。
日常で出さないような声を出せるから?
好きな歌手になりきれるから?
みんなの注目を浴びられるから?
(ひとりカラオケは注目浴びないけどね。
でもひとりカラオケやってる人って「そんな自分の歌にノックアウトされてる聴衆」を
どこかで想像しながらやってると思うんだけど、どうですかね。私はわりとそうです)


私も歌うのがあまりにも好きで、これはなんでかということをずっと考えてます。
JUDY&MARYの歌にも「こーえーをだすーだけーでなーぜーたーのしくなるんだろー」っていうのがあるね。


みなさんは日常で、ほんとは言いたくないことを言うことってありますか。
言いたくないまで行かないにしても、特に思ってないこととか、
思ってないわけじゃないけど、あんまりピンときてないこととか…
あると思うんですけど。
「何何を何何することができてすごく有意義な体験でした」とか
「人の気持ちをよく考えて行動することが大切だと思います」とか
「お悔やみ申し上げます」とか
「うわー、そうなんですかー」とか
「へぇー、すごいねー」とか…
思ってないことを言うというのは気持ち悪いことだし、
そうとう上手に言わないとすぐバレちゃう気がする。
だって人の話聞いてて「この人本当に思ってないな」ってわかる時はわかるもんね。
私は思ってないことを言うのがだいぶ苦手で、
思ってないことを言うと、その自分で言った言葉のうまく言えてなさに焦る。
嘘くささが相手にも伝わってるんじゃ…と思ってさらに焦る。


でもこの世にはとにかく何か言わなきゃいけないっていう事態がたくさんあるね。
そんなによく知らない人でも、お葬式に呼ばれたらちゃんと「お悔やみ申し上げます」は言わないと。
グループディスカッションにまったくなじみのないテーマ出されてさっぱり何も思い浮かばなくても、
誰かが「私はこうだと思います」って言ってみないと。
そういう時に大人度がためされると思う。
「思ってないこと言うのは不誠実だから、言いません」ていうのは子供の態度だよね。
とにかく何か言わなきゃ話進まないんだから。
かといって、「嘘臭くてもいいんだよ、とにかくなんか言っときゃよ」っていうのも、
それは大人かもしれないけども、なんか人をナメてるよね。
そうじゃなくて、ほんとの大人というのは、なにか言わなきゃいけないことを言うときに、
「言わなきゃいけない言葉」と「自分の気持ち」を近づけようとする人のことじゃないだろうか。
言うことを諦めるのでもなく、かといって心を無にして言うのでもなく、
言葉が本心にできる限り沿うように言うっていうのが一番誠実だと思う。
で、それには、ふたつのことが必要で、
①自分の気持ちに沿うように「言わなきゃいけない言葉」に適宜アレンジを加えていく
②「言わなきゃいけない言葉」を言えるような状態に自分の気持ちを変化させていく
この両方によって気持ちと言葉をお互いに歩み寄らせていくわけです。
自分の気持ちを優先させて①を追求しすぎると、人に受け入れられにくい言葉になっちゃう。
かといって②はすごく難しい。「OK!気持ち、変えます!」って言ってパッと変えられたらいいけどもそれは無理よね。


きっとみんなそういうことって苦労してると思うのね。
気持ちの伴ってない言葉を上手に言える人も、たまにいるけど、
たいていの人は思ってないことを言うとき、言い方が変になってる。
棒読みになったり、適当になったり、他の言葉と比べて浮いた感じになったり。


という話をして、歌の話に戻ります。
歌を歌うとすっきりする。
いい歌を歌うととりわけすっきりする。
人によって「いい歌」の基準はいろいろあると思うんですけど、
私の考える「いい歌」はどんなのかというと、
「メロディーと歌詞がしっくりきてる歌」です。
メロディーっていうのは、音の高低とかリズムのことで、
つきつめれば、イントネーションとか言葉の早さとかを極端にしたものです。
つまりそれは「言い方」のことです。
ということは、「いい歌」っていうのはつまり、「ある言葉のしかるべき言い方」だと思うの。
「いい歌を歌う」ということはそのまま、「ある言葉をしかるべき言い方で言う」ということ。
さらにいい伴奏がついてたら、「その言葉を言う時のしかるべき雰囲気」も後押ししてくれる。
それに乗って、メロディーにそって歌えば、誰もが「しっくりくる言い方」でその言葉を言えるわけです。
歌を歌うことの楽しさっていうのは、
「ああ、なんか今、わたしの気持ちと言ってる言葉がしっくりきてるわ!」って、
そういう、普段なかなか感じられないスッキリ感が味わえる、っていう所にあるんじゃないですかね。
いい歌のすごいところは、たとえ歌詞の意味が実際のとこよくわかってなくても、
べつにそんなこと普段思ったことなくても、
なんかそのメロディーに乗せて歌ってると気分的にわかったような気になるんだよね。


まとめると、
みんなが歌うのが好きなのは、言葉と気持ちのピッタリ感が気持ちいいから。
という説はどう思いますか?という話でした。






ついでのおまけ話だけど…
B-DASHの「めちゃくちゃ語」ってあるでしょ。
初期の方の歌詞の「うぇーんぼうれんごう」とかいうやつ。
あれは多分、「メロディーを歌詞で壊したくない」という考えのもとでできたんじゃないだろうか。
歌詞とメロディーっていうのは上記のとおりデリケートな関係にあるので、
うまくしっくりいけばお互いを高め合うんだけど、
しっくりいかないと、それぞれは良くても壊し合ってる、みたいなこともある。


「ハーコー」っていう曲が私はほんとに好きなんだけど、
あのサビのメロディーができた時きっとGONGONも「これは来た」と思ったと思う。(想像)
でも、メロディーが綺麗なら綺麗なほど、
それを壊さないように歌詞を作るのってほんとに難しいはず。
例えば、「この曲のこの感じだったら、ここの語尾は「え」の音がきれい」
とかっていうのが絶対あると思うんだけど、
ちゃんと意味の通じる歌詞をのせようすると、
当然語尾とか語彙を意味の通じるように選ばなくちゃいけなくなるので、
「『え』を語尾にするとなると…『探せ』とか『叫べ』とかかな。
でもこの曲そんな上から目線なやつじゃないし、命令の感じにしたくないんだよなぁ。
じゃあ『お前』とか?でもそこまでの歌詞では『君』って言ってるのになぁ。
あと『え』で終わるの何だろう。『お店』とかかなぁ。『ビヨンセ』とかな。関係ないなぁ」
みたいな、めんどくさいことが起こる。
そういうわけでB-DASHは、「だったら歌詞の意味なんてむしろ無いほうがいい、
とにかくメロディーが綺麗に聞こえる言葉を乗せるのを最優先にしよう」という方針をとったわけです(100%想像)
私はそれも全然ありだと思います。だってほんとにいい曲だもんなぁ。

 スペンサー先生と別れたあと、自分の部屋に戻ったのは悪くなかったと思う。みんなが試合を終えて戻って来ていて、部屋にはいつになく熱気があったんだ。それがけっこう心地よかった。コートを脱いで、ネクタイを取り去り、シャツの襟のボタンを外して、今朝ニューヨークで買ってきたばかりの帽子を被った。赤いハンチングハットで、ひさしがすごく、ものすごく長かった。僕はスポーツ用品店のウインドウの中にそれを見つけたんだ。僕らが地下鉄を降りて、道具を全部おいてきちゃったことに僕が気付いたすぐ後のことだ。それはたったの1ドルだった。僕はそれを被るとき、ひさしを後ろ側にしてたんだ---ダサいよね、それは認める。でもこうするのが好きなんだ。僕にはこれが似合うんだよ。僕は読みかけの本を手に取って、自分の椅子に腰を下ろした。椅子は各部屋にふたつずつある。ひとつは僕の椅子、もうひとつはルームメイトのウォード・ストラドレイターの椅子。みんながよってたかって肘掛けに座るせいで、そこは悲惨な有様になってたけど、それでもなかなかに居心地のいい椅子だったよ。

 僕が読んでいたその本は、間違って図書館から持って来ちゃったやつだった。図書係が間違ったのを渡して、僕は部屋に戻るまでそれに気付かなかったんだ。図書係がよこしたのは、「アウト・オブ・アフリカ」、アイザック・ディーンセン著。ろくでもない本だろうと思ってたら、そうじゃなかった。とっても良い本だったよ。僕はものを知らないけど、本はたくさん読むんだ。一番好きな作家は兄さんのD.B.、次に好きなのはリング・ラードナー。兄さんが僕の誕生日にリング・ラードナーの本を一冊くれたんだ。ペンシーに行く直前のことだった。本のなかにはすごく滑稽で、おもしろい話が入ってた。そのうちのひとつは、交通整理の警官が、いつもスピード違反をしてる女の子と恋に落ちる話なんだ。ただ警官は既婚者だったから、彼女と結婚することはできなかった。そして女の子は死んじゃうんだ、だっていつもスピード違反をしてたから。この話にはやられたね。僕が一番好きなのは、とにかく、どこかにおかしな所がある本なんだ。古典もたくさん読んだ、「リターン・オブ・ネイティブ」とかね、僕はそういうのも好きだ。戦争の本やミステリーなんかもいっぱい読んだけど、それはそんなにいいと思わなかった。
ほんとに心に響く本っていうのはね、すっかり読み終えてしまったあとで、その本の作者が自分の大親友で、気が向いた時にいつでも電話で話せたらいいのにって願っちゃうような本だよ。そんなの滅多にないことだけどね。
アイザック・ディーンセンと電話できたら悪くないと思う。リング・ラードナーでもいい。D.B.にもう死んでるよって言われたらしょうがないけど。サマセット・モームの「人間の絆」ってあるだろ。僕はあれを今年の夏に読んだ。なかなかいい本ではあったけど、サマセット・モームと電話で話したいとは思わないな。理由はわからない。ただ、彼は僕が電話してみたいと思うようなタイプの人じゃない、それだけ。それならトマス・ハーディのほうがまだいいよ。僕はユースティシャ・ヴァイが好きなんだ。