★第377話:髪の形(3)「髪型の変遷」 | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

日本髪

 日本髪とは、わが国で古くから女性の間に行われた髪形の総称。その多くは髪結い道具一式(写真左の左側は黒と白の元結)を使って髪を束ねて、前髪(まえがみ)(びん)、(たぼ)をとり、それを集めて頭上に(まげ)をつくりあげるものである。(写真右)

 元来女性は高貴の間では垂髪(画像)であったが、日常生活に不便なところから束ね髪となり、のある髪へと変わった。

 代表的なものに、島田髷丸髷(画像)、桃割れ、勝山髷、結綿 (ゆいわた) などがあるが、江戸時代には身分、年齢、職業、既婚、未婚、あるいは貧富の差などによって髪型も規制されていた。

 映像は、2023年4月9日(日)、浅草で4年ぶりに開催された「江戸吉原おいらん道中」

 花魁道中(おいらんどうちゅう)は、花魁禿(かむろ)や振袖新造(ふりそでしんぞう)などを引き連れて揚屋(あげや、遊郭)や引手茶屋(ひきてぢゃや、客を案内する茶屋)まで練り歩くこと。今日でも歌舞伎や各地の祭りの催し物として再現されている。
 三枚歯の重くて高い
黒塗下駄で八文字に歩くもので、吉原は「外八文字」(踏み出す足が外側をまわる)。京嶋原と大坂新町は「太夫道中」「内八文字」(足が内側を回る)で歩く。きちんと八文字で歩けるようになるには3年かかったともいわれる。日本人にとっても見たこともないような珍しい催しなのに、外国人にとっては、正に驚愕の異文化体験
ろう。

 

束髪
 1871年(明治4年)に男子の
断髪令が出され、多くの男性が髷を切り短髪にし、散切り頭となった。

 「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」などと謳われた。(画像)

 一方女性はしばらくの間、江戸時代と変わらず日本髪を結うのが主流だったが、1883年(明治16年)鹿鳴館(写真)の建設をきっかけに、貴族や上流階級に洋装が取り入れられ、髪も西洋風に結われるようになる。

 しかし、一般女性のほとんどは着物で生活し、髪も日本髪を結っていた。(画像)

 1885年(明治18年)従来の日本髪を批判する形で「婦人束髪会」が結成。結うのに時間とお金がかかり、寝る時もそのまま、髪油を多用するのに頻繁に洗えない日本髪は不便、不潔、不経済であると批判の声があがる。

 そこでおしゃれと実用を兼ねて登場したのが西洋婦人の髪型を参考にした「束髪」(そくはつ)だった。女性が自分で髪を結い、寝る時はほどくことができ、頻繁に髪を洗える「束髪」は大流行し、さまざまなスタイルが考案された。画像はその一例。

 

人気タレントの髪型の流行

 戦後はタレントが果たした髪型の流行が多くあったが、その一部を。

へプバーン・カット

 ハリウッド黄金時代に活躍した女優で、映画界ならびにファッション界のアイコンとして知られる、イギリス出身の女優・オードリー・ヘップバーン(1993年、63歳で没、写真)。

 アカデミー女優主演賞を獲ったアメリカ映画「ローマの休日」(1953年)の劇中、バッサリとショートカットになる場面がある。 王女という立場から一人の女の子に変化するとても印象的なシーンだが、前髪と毛先全体をクルッとカールし、サイドはピッタリさせて後ろに流すこの髪型を「ヘップバーンカット」と呼び、当時の日本でも大流行した。

セシルカット

 ジーン・セバーグ(1979年、40歳で没、写真左)はアメリカの女優。映画監督のオットー・プレミンジャーに見出され、17歳のときに「聖女ジャンヌ・ダーク」でデビュー。

 原作は1954年に発表されたフランスの作家フランソワーズ・サガン(2004年、69歳で没、写真右)の同名小説。1958年公開のアメリカとイギリスの合作による映画「悲しみよこんにちは」(Bonjour Tristesse)でジーン・セバーグは、天真爛漫な娘・セシルを演じ、そのベリーショートの髪型は「セシルカット」として流行した。

ツィギーカット

 ツイッギー(現在73歳、写真左)とは「小枝」という意味。当時のサイズは身長165cm、体重41kgで、その体型から愛称として呼ばれたイギリスの女優、モデルおよび歌手。
 売れっ子ファッションモデルで
「ミニ(スカート)の女王」として日本では若い女性から羨望の的とされ、ツイッギーをイメージしたコンテストが催されるほどの過熱ぶり。60年代、シャープなショートヘア「ツイッギーカット」が大人気となった。

聖子ちゃんカット

 聖子ちゃんカット」とは、松田聖子(現在61歳、写真)がデビュー当時にしていた髪型で、前髪は眉を隠す程度、サイドとバックは肩下のレイヤードをセンター分けにし、毛先をゆるくカールさせたもの。

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松田聖子/青い珊瑚礁(1980年)

 松田聖子のシングル第7作「風立ちぬ」は、CBSソニーの若松宗雄ディレクターが大好きだった、堀辰雄(1953年、48歳で没、写真)の同名の小説『風立ちぬ』を題材とした曲。

 それまでアイドルらしく明るいポップな曲調や詞の歌が多かった彼女が失恋のバラードに挑戦。「ブリッ子」などと言われて男性中心だったファン層を、この曲で女性まで広げた。

 そして、この曲のヒットの後、聖子ちゃんカットも止め、ショートカットにしてアイドルから脱皮していく。(写真)

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 その後にデビューしたアイドル達(花の82年デビュー組といわれる小泉今日子松本伊代早見優など)の多くがこの聖子ちゃんカット風のスタイルでデビューしていたが、以来、追随する後続アイドルたちもまたこぞってショートカットに変え、今度はショートカットブームが訪れた。

松田聖子/風立ちぬ(1981年)

 

総括 

 日本髪に代わる髪型として明治18年に「束髪」が登場して以降、大正10年代には髪にウェーブをつけて結う「洋髪」、さらには文字通り髪を短く切った「断髪」まで、明治以来150年の間に、女性の髪型は劇的に変化した。

 260年以上もの長い間、ずっと日本髪が主役であった江戸時代とは対照的で、目まぐるしい新旧の交代劇。これは近代日本に起こった、急激な西洋化という歴史的な動向と重なっている。社会制度や政治、生活に押し寄せた西洋化の波は、服装や髪型、化粧、美容の分野にも及び、ついには女性の美意識をも変えていった。

 直毛の黒髪とは異なる、ウェーブがかった明るい髪の魅力。染毛ウェーブ技術の導入。髪への意識を変えたのは、理美容技術の近代化「長い黒髪こそ美しい」という美意識からの脱却であった。

 そして、女性と髪型の関係性の変化。江戸時代、女性の髪型は身分や階層、ライフステージよって多くのルールがあり、好きな髪型を自由に選べたわけではなかった。しかし近代以降、女性の地位向上社会進出が進み、生活スタイルも変化したことで、女性たちは少しずつ、自分に似合う、おしゃれな髪型を楽しむ自由を手に入れていく。社会慣習に則った従属的な髪型から、おしゃれを楽しむ自発的な髪型へ。現代に続く自己表現としての髪型のはじまりは、近代化とともにあった。

【永久保存版】髪型の歴史150年。美のプロなら知っておきたい明治・大正・昭和のヘアトレンドもっと知りたい日本髪参照)

終り。