★第375話:髪の形(2)「髪の色」(前編) | 中高年の中高年による中高年のための音楽

中高年の中高年による中高年のための音楽

10年続けたYahoo!ブログから移転してきましたが、Amebaのブログライフも4年を越えました。タイトルは当時と同じ「中高年の中高年による中高年のための音楽」です。
主にオールディズが中心の音楽を紹介しています。よろしくお願いいたします。

  お断り:この記事について見直したところ、長すぎたと思い、前編と後編に分けましたのでご了承ください。

基本的な髪の色
 天然に見られる髪の色には、基本として写真左より、黒髪栗毛金髪赤毛があり、その人の出身である民族に由来する。

 そして、その色味の元になるメラニン色素にはユーメラニン(黒褐色素)と、フェオメラニン(赤黄色素)の二種類があり、その総毛やバランスによって髪の毛の濃淡が決まる。なお、メラニンの無いのが白髪である。

黒髪
 自分の髪と同じ黒髪は、北欧の民族、特にスカンディナヴィア半島の民族ではほとんど見られないが、地球上の広域に広がっている髪の色である。黒髪には大量のユーメラニンが含まれており、毛髪の太さや髪の量、遺伝的性質において栗毛とほぼ同様である。

日本の美人像の変遷 

 ところで、日本の女性の美人像は、過去から変遷を遂げてきた。

 平安時代は、小野小町(画像左)に代表されるように、肌理(きめ)の細かい色白の肌、ふっくらした頬、そして、長くしなやかな黒髪が典型的な美人の条件として尊ばれた。 

 江戸時代以来、日本では色白できめ細かい肌、細面、小ぶりな口、富士額、涼しい目元、鼻筋が通り、豊かな黒髪が美人の典型とされた。

 浮世絵(画像右)で見られる小さな目で描かれた女性は、当時の理想的な美人を様式化した作品である。

 こうした美意識は、明治時代から大正時代に至るまで日本の美人像の基調となった。井原西鶴の作品には、低い鼻を高くしてほしいと神社で無理な願いことをする、との記述があり、当時鼻の高さを好んだ傾向が伺える。また朝鮮通信使の記録には、「沿道の女性の肌はお白いをせずとも白く、若い女性の笑い声は小鳥のようである」と国王に報告している。

 明治時代に入ると欧化主義とそれに伴う洋装化の動きがおこり、大正時代の関東大震災後からパーマネント断髪、口紅を唇全体に塗るなど、従来の美意識と相容れないような欧米式の美容が広まった。

 特に、戦後の日本では、西洋映画等の影響を受けて、芸能界を中心に欧米人に近い顔立ちを尊ぶ美意識が普及した。

緑の黒髪

 ところで、若い女性の美しい黒髪を表現する「緑の黒髪」という言葉がある。

 ここで緑とは、みずみずしい色を指すのであり、緑色という意味ではない。

 「夜明け前」や「破壊」などの小説や「千曲川旅情の歌」で有名な、詩人で小説家の島崎藤村が作詞した「惜別の歌」の第三番の歌詞の最後の一節に、「君が緑の黒髪も、またいつか見んこの別れ」とある「緑の黒髪」という言葉は、日本の美人像の象徴として今でも引き継がれている。

 この歌は当時中央大学の学生であった藤江英輔が学生歌として作曲し、戦後に「歌声喫茶」を通じて全国へ広まり、1961年に小林旭の歌がレコード化された。

小林旭/惜別の歌(1961年)【ブルー音符君が緑の黒髪も…ブルー音符

黒髪」が歌詞にある曲

加藤登紀子/ゴンドラの唄ブルー音符黒髪の色…ブルー音符

 作曲した中山晋平は(1952年、65歳で没、写真左)、日本で最も親しまれている国民的作曲家。

 第一号作品は、1914年、彼が27歳のとき、島村抱月(1918年、47歳で没、写真中央)が松井須磨子(1919年、32歳で没、写真右)らと旗揚げした「芸術座」に参加。トルストイ『復活』公演の劇中歌『カチューシャの唄』を作曲。松井須磨子の歌によって大流行となり、一躍有名になった。
 
 そして、翌年の1915年に公演した
ツルゲーネフ『その前夜』の劇中歌『ゴンドラの唄』(作詞:吉井勇)も大人気となったが、この曲は、母の死の直後、悲しみに暮れる帰りの汽車の中で『ゴンドラの唄』の歌詞が語りかけてきて、汽車の揺れとともに、自然と旋律がわいてきたという。

 そして、黒澤明監督作品「生きる」(1952年)で、志村喬(1982年、76歳で没、写真)演じる主人公が雪の降る夜ブランコをこぎながら、この歌を口ずさむシーンも印象的だった。中山晋平は、この映画を見届けた後に倒れ、帰らぬ人となった。

<歌詞>

1.いのち短し 恋せよ乙女 紅き唇 褪せぬまに 熱き血潮の 冷えぬまに 明日の月日の ないものを

2.いのち短し 恋せよ乙女 いざ手をとりて かの舟に いざ燃ゆる頬を 君が頬に ここには誰も 来ぬものを

3.いのち短し 恋せよ乙女 波に漂う 舟のように 君が柔手(やわて)をわが肩に ここには人目の ないものを

4.いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬまに 心の炎 消えぬ間に 今日は再び 来ぬものを

 

 黒髪はもちろん、日本人の特許ではない。ここではジプシー娘の黒髪の素晴らしさを歌っている。

エンリコ・マシアス/ジンガレラ/ジプシー娘(Zingarella、1988年)【ブルー音符おまえの黒髪ブルー音符

 旅をする民族といえばすぐに「ジプシー」のことが思い浮かぶ。 
 ジプシーは「西暦1100年にギリシャの聖地アトスに現れた」とする記録が最古のものとされる。ドイツでジプシーを確認している最古の記録は1407年のものだそうだ。1427年にパリに現れた彼らは、「自分たちは低地エジプトの出身である」と名乗った。ここから「エジプトからやって来た人」という意味の
「エジプシャン」の頭音が消失した「ジプシー」(Gypsy)の名称が生じたと言われる。
 日本においては、「ジプシー」は差別用語、放送禁止用語と見做され、
「ロマ」と言い換えられる傾向にある。ロマは欧州全体で1000万~1200万人程度いるとみられ、欧州で最大の少数民族である。
 彼らは移動型民族として知られるが、現在では定住している人も多い、
黒い髪と浅黒い肌が特徴とされる。
 
「ジンガレラ/ジプシー娘」 (Zingarella)を歌っているのは、「恋心」「想い出のソレンツァーラ」で有名な、アルジェリアのコンスタンティーヌ生まれのエンリコ・マシアス (現在84歳)。特にトルコとイスラエルで大ヒットしたという。

<訳詞> 《宇藤カザン氏訳》

 ジプシー娘、ジプシー娘  この村で裸足で踊る 至高の放浪者 ここでは誰もが君に跪く ジプシー娘、ジプシー娘
 ジプシー娘、ジプシー娘 マドンナの中のマドンナ ギターの音色に乗って現れた君 独特の異国情緒を醸し出す ジプシー娘、ジプシー娘
 ロマンチックなジプシー娘 腕を広げておまえが踊れば 男たちみんなが周りにやってくる ジプシー娘、ジプシー娘
 この上なく美しいジプシー娘 おまえの
黒髪、おまえのライラック色の瞳は 薪の炎のように夜に輝く ジプシー娘、ジプシー娘
 ジプシー娘、ジプシー娘 音楽はおまえのために奏でられる 不可思議な力を持つ女、音楽家 僕がおまえの声を聴けば
ジプシー娘、ジプシー娘

 

栗毛
 栗毛はあらゆる地域で見られ、多くの場合は地中海沿岸や中東、更にはスカンジナビア出身の民族においてすら、最もありふれた髪の色である。

 栗毛のうち、ブルネットブラウンの違いは、赤みがかっているのが後者というようである。 

 また、亜麻色とは、亜麻を紡つむいだ糸の色のような黄色がかった薄茶色のこと。

 ーだんだん、迷路にはまりこんで、色の違いが分からなくなってきた。えー

亜麻色の髪

 フランスの作曲家・ドビュッシー(1918年、55歳で没、写真)ピアノのための前奏曲集(Préludes)24曲のうちの一つ、「亜麻色の髪の乙女」(La fille aux cheveux de lin)が有名であるため、一般的に髪の色として知られている。

ドビュッシー作曲/亜麻色の髪の乙女(1910~1913年の作品)

 日本では、1968年、GSのヴィレッジ・シンガーズが歌い、2002年に島谷ひとみ(現在42歳)がカバーした同名の曲、「亜麻色の髪の乙女」がヒットしている。

島谷ひとみ/亜麻色の髪の乙女(2002年) 


金髪
 金髪ブロンド)は人間には比較的に稀にしか見られない髪色で、全人口の内で1.7パーセントから2パーセントしか見られない。
 金髪はユーメラニンよりもフェオメラニンを多く含んでいるが、赤毛ほど多くはない。天然の金髪は最も細いが、他の色の髪より毛数が比較的多く、黒髪や栗色の髪は10万本だが、金髪の人は平均して14万本の毛髪を持っている。

マリリン・モンロー

 我々団塊の世代で金髪と言えば、真っ先に「永遠のセクシーシンボル」マリリン・モンロー(1962年、36歳で没、写真)を思い出す人が多いだろう。

 マリリン・モンローが実はブロンドではなく、ブルネットの髪を染めていたことは有名な事実である。現代よりカラーリングの技術が進んでいない当時の染髪は想像以上の苦労を伴う行為だったという。

 1962年8月4日、ロサンジェルスの自宅で、睡眠薬の多量摂取により死亡しているのが発見されるが、死因はいまだに謎に包まれている。 

 ミュージカル・コメディ映画「紳士は金髪がお好き(Gentleman Prefer Blondes、1953年)


 「ダイアモンドは女の親友」(Diamonds Are a Girl's Best Friend)は本作で使用されている楽曲で最も有名なものの一つ。ピンクのドレスを着たマリリン・モンロー演じるローレライが、真紅のステージで燕尾服に盛装した多数の紳士らに取り囲まれ、傅かれ、愛の象徴であるハートのプレートを示され、最後に宝石を差し出されるなか、場所がパリに因み「ラ・マルセイエーズ」の冒頭のフレーズで「フランス人は愛のために戦うという。愛のために死ぬのに喜びを見出すのね…でも私は宝石をくれる生きた男が好きなの」と歌いだし「キスは素晴らしいけれど、家賃や食費にならないわね…女が年をとれば男たちは見限るけれど、ダイアモンドはずっとそばにいてくれる…ダイアモンドは女の親友よ」などと高らかに歌い上げ、愛より富を欲することを宣言する。

アメリカ

アメリカ/金色の髪の少女(Sister Golden Hair、1975年)

 アメリカ(America、写真)は、ジェリー・ベックリー、デューイ・バネル、ダン・ピークの3人によりロンドンで結成され、1971年にアルバム「アメリカ」でデビュー。3人とも父親はロンドンに駐留するアメリカの軍人であり、アメリカンスクールでの仲間だった。爽やかなコーラスとノスタルジックなメロディーを生かした素朴なサウンドは、当時すでに人気を確立していたクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングと比較されることが多かった。


 1972年にシングル「名前のない馬」を発売し、全米第1位を獲得。第15回グラミー賞の最優秀新人賞を受賞した。同年にロサンゼルスに活動拠点を移す。「金色の髪の少女」(Sister Golden Hair)は、1975年に全米1位を記録した。歌詞の内容は、好きな女の子に打ち明けられない、男の子の気持ちを綴った青臭いティーンエイジャーソング。

スティーヴン・フォスター

 ジャン・デガエターニ/金髪のジェニー(Jeanie with the light brown hair、1854年)

 作曲のスティーヴン・フォスター(1864年、37歳で没、写真左)は、「アメリカ民謡の父」と称され、アメリカ音楽界を代表する作曲家で、唱歌としてもなじみの深い、数々の名作を発表した。父親は地元ピッツバーグで有名な実業家で、彼は裕福な家庭の9番目の子どもとして生まれた。しかし、数々の名作を残したにもかかわらず晩年は不遇で、最後は安宿の一室を自宅代わりに転々とした挙句、所持金38セントしかない状態となり、マンハッタンの安ホテルで、短い悲運の一生を終えた。

 原題の"Jeanie with the Light Brown Hair"は直訳すると「薄茶色の髪のジニー」となるが、日本ではフォスターの訳詞を多く手掛けている津川主一が訳題を「金髪のジェニー」として以降、これが踏襲されている。この曲のモデルは幼なじみのジェーンとフォスターが結婚(1850年)した3~4年後のこと。結婚して翌年(1851年)には長女マリアンも誕生している。しかし、この頃既に夫フォスターと妻ジェーン(画像右)は不仲になっていたようだ。

 

赤毛
 赤毛赤髪レッドヘアー)は全世界的に最も珍しい色の髪であり、スコットランドやアイルランドで比較的多く見られる。アメリカでは人口の2パーセントが赤毛である。

 赤毛は最も多量のフェオメラニンと、最も少量のユーメラニンを含んでいる。天然の赤毛は最も太い毛髪と、最も少量の毛髪を持っており、その数は平均して9万本である。

 ところで、古くからイギリス人の間には、赤毛の人に対する偏見があり、12世紀に成立した『アルフレッドの箴言』には、暴言家、泥棒などと並べて「赤毛の人を避けよ」という教えが書かれている。

 また、シャーロック・ホームズが活躍するコナン・ドイルの推理小説『赤毛組合』の設定も、赤毛に対する偏見を知らなければ理解できない。

 イギリスほどではないが、イギリス文化の影響を受けたアメリカやカナダでは、「赤毛のアン」(画像左)の赤毛の主人公の扱いに見られるように赤毛に対する偏見が残っていた。

 さらに、19世紀末期のフランスを舞台にした児童文学「にんじん」(画像右)でも、主人公の少年は赤毛ゆえに「にんじん」と呼ばれ、不当な扱いを受けている。

 現代においてはレディシュの有名人の活躍により、彼らに対する偏見は減少傾向にあり、むしろ美しいとされる髪色である。

 写真左から、リンジー・ローハン(現在37歳)やニコール・キッドマン(現在56歳)、お騒がせの人・サセックス公爵ヘンリー王子(現在38歳)、シンガーソングライターのエド・シーラン(現在32歳)など、地毛は赤毛である。

エド・シーラン/シェイプ・オブ・ユー(Shape of You、2017年)

続く。

(Wikipedia 参照)