吉田拓郎の提供した楽曲を調べると、こんな曲まで彼の作品だったのかと、改めて驚かされる。
こんなCDが発売されている。もちろん、いずれも吉田拓郎の作曲だ。
よしだの歌(フォーライフレコード、2001年発売、写真)
前作で、TBSテレビの「情熱大陸」1999年6月20日の放送で、拓郎が上京して以来住んだ思い出の場所を辿った映像を紹介したが、そこでは引っ越しと結婚・離婚の多さを、すぐに飽きてしまう自分の性格について言及していた。
吉田拓郎 - 引っ越しの詩《拓郎東京物語》 - YouTube
ところで、この三人の妻の内、二人が吉田拓郎の作詞・作曲した歌を歌っている。
●吉田拓郎の三人の妻
■四角佳子
最初の妻・四角佳子(現在70歳)との結婚は、拓郎が路上で4人を相手にケンカしてメチャクチャにぶちのめされたのを四角が介抱したのがきっかけ。
四角との間には三度の結婚歴で唯一の子供(娘・一般人)がいる。
1972年に大ヒットした「結婚しようよ」は彼女へのプロポーズの歌だ。その言葉通り、その年の6月に二人は結婚した。(写真)なお、「ジューン・ブライト」がブームになったのは、これが起源だそうだが、1975年、吉田拓郎と離婚。彼の離婚報告はオールナイトニッポン生放送で一方的にリスナーに報告しただけで、マスメディアの取材は一切受けなかった。
彼女は、小室等(現在79歳)をリーダーとした伝説のグループ、六文銭に加わり、1971年の世界歌謡祭や、合歓ポピュラーフェスティバル'71でグランプリを獲得した「出発(たびだち)の歌」のメンバーでもある。
しかし、1972年の拓郎と結婚以来28年間、彼女は芸能界を完全に引退していた。
その後、2000年、横浜で行われた六文銭のメンバーの一人、「面影橋から」で有名な及川恒平(現在74歳)のライブに観客のひとりとして参加した際、ゲストに呼ばれていた小室等と共に28年ぶりにステージに立ち再び歌の世界へ戻ることになる。以後、3人で歌う場合のユニット名を、「まるで六文銭のように」として、ライブを中心に活動を再開したが、2018年のアルバム「自由」(写真)発売以降は、元の「六文銭」に戻している。
ところで、四角佳子が歌う、「春の風が吹いていたら」は元夫・吉田拓郎のアルバム「伽草子」(1973年、写真左)にある拓郎とのデュエット曲。このソロが素晴らしい。
2009年、四角佳子としての初ソロCDとして「初恋」(写真右)をリリースしたが、その中に日本フォーク史に残るこの名曲も収録されている。
「初恋」には、小室等、及川恒平、常富喜雄ら、新生フォーライフレコードの盟友たちが、彼女のために楽曲を書き下ろした。そのアルバムには、「春の風が吹いていたら」の他、六文銭時代の楽曲「ホワンポウエルの街」、「インドの街を象に乗って」のリメイクも収録されている。
四角佳子/春の風が吹いていたら(1973年)
■浅田美代子
吉田拓郎の第二番目の妻、浅田美代子(現在67歳)との出会いは、1974年の「じゃあまたね」(写真)という曲の提供だった。
彼女は、「さんまのSUPERからくりTV」で「おばかキャラ」を繰り広げ、「元祖天然」と呼ばれているが、1973年、TBSのテレビドラマ「時間ですよ」のお手伝いさん役でデビュー。デビュー曲の「赤い風船」がドラマで使われ大ヒットとなり、同年の第15回日本レコード大賞で新人賞を受賞した。
1975年には、山田太一脚本の同じくTBSドラマ「なつかしき海の歌」(写真)で吉田拓郎と共演している。写真左から浅田美代子、吉田拓郎、加山雄三、香山美子。
番組は、テレビ局の放送のあり方を問う骨太ドラマだったが、浅田美代子と吉田拓郎の共演の方が注目を集めていた。
そして、彼女がまだ現役バリバリのアイドル時代だった1977年(21歳)に彼と結婚し、芸能界を引退し主婦業に専念する。そのとき吉田拓郎は31歳だった。
ところで、昨日(2/21)図書館でたまたまこんな本を見つけた。女優・樹木希林(2018年、75歳で没、写真左)との思い出をまとめた書籍「ひとりじめ」(2021年、文藝春秋、写真)でだ。
樹木希林には、亡くなるまで公私共にとても可愛がられていた。吉田との結婚に猛反対していた両親を説得したのも内田裕也との樹木夫妻である。
今、本を読んでいる最中だが、その中の項目に「結婚のこと」と「離婚のこと」がある。もちろんお相手は吉田拓郎のこと。興味深い内容である。
結婚後、6年3か月後の1983年10月に浅田美代子は芸能活動を再開し、以降は数多くのドラマや映画に出演する。その当時浅田は、拓郎との離婚話が取り沙汰され一旦否定したものの、翌1984年8月に協議離婚が成立した。
■森下愛子
吉田拓郎の第三番目の妻、森下愛子(現在64歳)は、高校在学中にスカウトされ、モデルとしてデビュー。1977年、入鹿裕子、舘ひろし主演の「地獄の天使・紅い爆音」(写真左)で女優デビュー。翌1978年に出演した「サード」(写真右)で、体当たりの熱演が評価された。
吉田拓郎がパーソナリティをしていたオールナイトニッポンのゲストで呼ばれた時、彼の口説き方を知っていた彼女は警戒し、親友の竹田かほり(現・甲斐よしひろ夫人)と一緒にやって来たそうだ。それでも略奪愛に近く、ものにされたらしい。結婚は1986年、彼女は28歳、拓郎が46歳のときだった。
彼女との結婚生活は今年で30年、吉田拓郎が肺がんや更年期障害、うつ病、気管支炎などを患い闘病していた時に、森下愛子が献身的に支え、病状が改善してきたといわれているなど、現在も良好な夫婦関係が報道されている。
吉田拓郎は1974年、浅田美代子に「じゃあまたね」を、小柳ルミ子にも「赤い燈台」を書き下ろし、シンガーソングライターとアイドルの蜜月という架橋を築いた。歌謡曲の進化をもたらした異業種混合のコラボレートの歴史は拓郎の偉業から始まる。
ところが、女性アイドルのプロデュースについては、彼の若い女性好きという側面もありそうだ。ちなみに、二番目の妻は10歳、三番目の妻・森下愛子は18歳年下という「年の差婚」である。「東京へ出てきてからの音楽活動で何が楽しかったって、アイドルの作曲ほど楽しいものはなかった。アイドルたちと一緒にスタジオに入って作業する。『歌って、こういうふうに歌うんだよ』なんて教えるときの気持ちよさといったら、もう」等と述べているそうだ。
(Wikipedia参照)
●アイドル歌手
■石野真子
石野真子(現在62歳、写真)には、作詞家・阿久悠(2007年、70歳で没、写真右)が他のアイドルとは違う売り方を考え拓郎に作曲を依頼した。
石野はフォークソングが好きで拓郎のファンだった。拓郎は彼女に対して、デビューシングル「狼なんか怖くない」(1978年)、「ひとり娘」、2作目「わたしの首領」、「いたずら」、そのほか「ぽろぽろと」、「ジーパン三銃士」(すべて作詞は阿久悠)を提供した。「狼なんか怖くない」のレコーディングでは、唄えば唄う程上手くなると石野を徹夜で励まし、デビューに賭けたスタッフからは、レコーディングが終了すると大歓声が上がった。曲の音程の上がり下がりが難しくレコーディングに8時間かかったと石野は話している。
ジャケット写真は篠山紀信による撮影。この写真について石野は、「赤坂のおしゃれな公園での撮影で、スタイリストさんも付いてくれたのですが、田舎から出てきたばっかりで、洗練されてなくて、出来上がったジャケット写真を見ると、なんか眠たそうで「ホニョー」っとした顔していて、「アーア」って思いました。せっかく、あんな有名なカメラマンに撮っていただいたのに、ホントにがっくりでした。」と後にコメントしている。
20歳になった1981年に長渕剛との結婚が決まったが、石野には「二十歳の花嫁」に強く憧れがあったため、1982年1月22日の挙式となった。結婚式の仲人を務めたのは長渕の師匠であると共に、石野のデビュー曲の提供者である恩師である吉田拓郎と浅田美代子夫妻だった。
「家庭に入って欲しい」という長渕の希望と、「家庭に納まって平穏な日々を送ること」の自身の夢が合致したこともあり、迷うことなく芸能界を引退を決意。デビュー以来3年半という短いアイドル歌手時代に幕を閉じた。
しかし結婚後の二人は、様々な見解の相違を表面化させていく。長渕剛からの度重なる家庭内暴力や長渕の母との確執などが原因で、週刊誌でも大きく取り沙汰されるようになり、結局二人の結婚生活は僅か2年持たずにピリオドが打たれた。
なお、浅田美代子が石野真子を妹のように可愛がっていて、石野が長渕剛との離婚報道が出た1983年に別居した後、マスメディアに追いかけ回されるのを避けるため、浅田・吉田拓郎邸に2ヵ月間身を潜めたという。
その後の人生も波瀾万丈だったが、芸能界に復帰して今も頑張っている。
石野真子/狼なんか怖くない(1978年)
■キャンディーズ
1970年代に活躍した日本の女性3人組のアイドルグループだったが、1978年、人気絶頂のときに解散したキャンディーズ(写真)。
2011年、メンバーの一人、スーちゃんこと田中好子(乳がんで没、享年55歳写真右)を失ったが、伊藤蘭(ラン、現在68歳、写真中央)、藤村美樹(ミキ、67歳、写真左)の二人は健在だ。
吉田拓郎は1977年、渡辺プロダクション社長・渡辺晋から「キャンディーズを大人にしてやってくれ」という依頼を受け、キャンディーズ の「やさしい悪魔」と、「アン・ドゥ・トロワ」のシングル2曲を含む4曲の作曲を手がけた。
元々拓郎はキャンディーズファンで、キャンディーズのブレイク直前に自身の番組「吉田拓郎のオールナイトニッポン」にゲストで呼んだり(1975年3月4日)、特にスーちゃんファンで、スーちゃんを単独でゲストに呼んだこともある。
「やさしい悪魔」は音域の広い難曲で、歌のうまいキャンディーズもレコーディングに苦戦した。これはキャンディーズファンだった拓郎が、レコーディングでキャンディーズに歌唱指導をしたいがために、わざと難しくしたと噂が出た。この曲は、それまでのキャンディーズの清楚なイメージを一新、“デビルサイン”を含めた斬新な振り付け、“大人化計画”に応えた詞曲で、キャンディーズ最大のヒットになった(最終的には「微笑がえし」、「わな」に次ぐ3位)。キャンディーズ自身はこの曲を「私たちの代表曲」と話した。
なお、吉田拓郎のキャンディーズのために作曲した「やさしい悪魔」、「アン・ドゥ・トロワ」(いずれも1977年)は、いずれもかぐや姫の「神田川」(1973年)、柏原芳恵の「ハローグッバイ」(1977年)などの作詞で有名な、喜多條忠(2021年、74歳で没、写真)。
彼が拓郎とコラボした曲には、梓みちよ「メランコリー」(1976年)、中村雅俊「いつか街で会ったなら」(1975年)、山田パンダ「風の街」(1978年)、松平純子、由紀さおり「両国橋」(1975年、1981年)などがある。
キャンディーズ/アン・ドゥ・トロワ(1977年)
●実力歌手(グループ)への提供
■梓みちよ
吉田拓郎作曲、喜多條忠作詞の「メランコリー」(1976年)は、梓みちよ(2020年、76歳で没、写真)の大ヒット曲。同年の大晦日の「第18回輝く!日本レコード大賞」で編曲賞を受賞。続いて「第27回NHK紅白歌合戦」に、同曲で通算10回目の出場を果たした。
梓みちよのレコーディングでは「アナタは歌がうまいから困るんです。僕としては、もっと下手に、そう、思い切って下手クソにやってほしいんです」と言うと、梓は「メランコリー」を目一杯下手クソに歌って一言、「これでいいわけ。フン、変なの、アンタたちの音楽」と言ったという。緑のインクで手紙を書けばそれはさよならの合図になると書かれた喜多條の作詞もヒットした。それまでフォークの作詞家だった彼に「お前に歌謡曲の作詞はムリだろ?」と言う拓郎の挑発に奮起して作詞を手掛けたもの。1976年、梓も紅白歌合戦で歌う際、この曲の短縮を要求されNHKともめたが出場した。
なお、吉田拓郎のアルバム「ぷらいべえと」(1977年)で、拓郎がセルフカバーしている。
歌詞にある「乃木坂」(地図)は、東京都港区の赤坂八丁目と九丁目の境、乃木神社前を西へ外苑東通りへと上る坂。乃木坂の名称は、この坂や地下鉄・乃木坂駅周辺の汎称地名として使われる。
ついでに言うと、この曲が自分のカラオケで一番好きな曲で、もう何度歌ったことだろうか。
梓みちよ/メランコリー(1976年)
●由紀さおり
由紀さおり(現在74歳、写真左)は、歌手としての人気の一方、タレント性を見込まれ、バラエティー番組に多数出演(特に「8時だョ!全員集合」で共演したいかりや長介からの薫陶を受けコメディエンヌとしての才能も開花し、「ドリフ大爆笑」においては最多ゲストとなり、コントの「オチ」を任せられる程であった)
「夜明けのスキャット」(1969年)、「手紙」、「生きがい」(1970年)など、ソロ曲の大ヒットだけでなく、実姉の安田祥子と姉妹コンビ(写真右)のレパートリーは童謡・唱歌に留まらず、オリジナル楽曲、歌謡曲、クラシック、アニメ主題歌など多ジャンルに渡っており、特にスキャットで唄った「トルコ行進曲」は1997年の「第48回NHK紅白歌合戦」において披露されたことで一躍全国に認知。現在でも各地で精力的にコンサートを行う一方、女優・タレントとしての活動も盛んに行っている。
「ルーム・ライト」 (室内灯、1973年)は由紀さおりのシングル。作詞は岡本おさみ(2015年、73歳で没、写真)、作曲は吉田拓郎がそれぞれ手掛けた。
このコンビは翌年に発売された森進一の「襟裳岬」をはじめとして、「アジアの片隅で」、「いつも見ていたヒロシマ」、「おきざりにした悲しみは」、「旅の宿」、「祭りのあと」、「落陽」など。他の歌手が歌ってヒットした曲に、猫「地下鉄にのって」、森山良子「歌ってよ夕陽の歌を」など、下図多くのヒット曲を生んでいる。
本楽曲の拓郎による由紀への提供は、ニューミュージック系ミュージシャンによる歌謡曲歌手への楽曲提供の端緒といわれているが、1973年5月23日、ツアー中に拓郎が逮捕されるという事件(通称:金沢事件)が発生すると、その騒動によって拓郎の提供楽曲だった本楽曲も放送自粛の処置がとられたため大きなヒットにはならなかった。
なお同曲は、作曲を担当した吉田拓郎がアルバム「ぷらいべえと」(1977年)で、セルフカバーしているほか、ライブでも歌唱している。
由紀さおり/ルームライト(1973年)
由紀さおり/両国橋(1981年)
両国橋(1975年)は、1972年東映入社で、引退した藤純子に代わるスターの一人として期待され、1975年の「爆発! 暴走族」まで東映の映画に出演した、松平純子(現在70歳)が歌い、 映画「新幹線大爆破」の挿入歌として、喫茶店のシーンで流れた。
喜多條忠作詞、吉田拓郎作曲。詞は当時の喜多條らしい、両国橋という場所で恋をするとよくないという、なかなかおもしろい設定の話。拓郎自身のラジオ番組「吉田拓郎のオールナイトニッポン」(ニッポン放送)で同曲を紹介すると翌日、松平の自宅にドサッとファンレターが届いた。東映時代のファンからは「あの松平さんが、まさかと思った。でも声を聴いたらそうだった」と、歌をやっていることを知らない人も多かった。これを機に一時、フォーク界のアイドルのようになったという。「これが喜多條と自分の処女作だと思う」と拓郎は番組で述懐している。1981年、由紀さおりがカバーしてそこそこヒットした。
続く。(Wikipedia参照)